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海の挽歌  作者: 門戸
空虚八年目 不死の男の怪談
172/256

172 空虚八年目7:フィン医師

 エリンはかなり緊張していた。


 イリー人の医師にてもらうなんて、もう十年以上ぶりである。陥落前まではどこも悪くなくても、王室専任の医師に毎月診られていたけど。


 彼らも貴族身分だったから追放されてしまっていた、それからは薬翁とか言うおじいさんが、何度か腰に湿布を貼ってくれた。



 この日、夜のとばりが落ちてからパスクアが連れてきたフィン医師は、王室付の医師と違ってエリンの話ばかり聞いている。



「……ご出産の後、痛みが酷くなったんですね」



 地下の自室、蜜蝋灯みつろうあかりをつけられるだけつけて明るくしているけれど、知らない人と卓子に向かい合って話すのは落ち着かない。


 医師はエリンの脈をとり、麻衣の上から背中に金属の丸い筒をくっつけて、呼吸の音を聞いていた。


 お腹のどこにもしこりはない。けれど時にきりきり引きつれて、立っていられなくなる。そういう時は頭も恐ろしく重くなる。月のものの前と最中に、急に何もかもが哀しくなって、いたたまれずに涙がにじんだり、かと思えば全てのことに(特に主にパスクア)腹が立ったり……。


 たぶん命に別状はない。けれどここ数年、このどんよりした不調にエリンは悩まされっぱなしなのだ。メインが処方してくれた薬湯も、効かなかった。



「お料理はされますか?」



 聞き間違いかと思ったが、フィン医師はもう一度同じことを聞いてきた。



「いえ、いたしません」


「私もです。……でも例えば、です。料理人の方があなたのために、心を込めて何かを作った。でもあなたはそれを食べずに席を立ってしまった。彼はどう思うでしょうか」



 エリンの頭の中に、アンリの焼きたてぱん笑顔が、ぴかーんと思い浮かぶ。



「……ものすごく悲しむと思います。いえ、怒り狂うんじゃないかしら」



 アンリ君のごはんを無視するなんて絶対無理だと思うけど……と、エリンは想像してみる。



「ですよね。悲しむ、怒り狂う、どっちともあるでしょう」



 フィン医師は、自分の腹のあたりに手を添えてみせた。



「あなたの子宮も、悲しんで怒り狂っています」



 剃髪頭の若い医者は、ごくごく平坦な調子で言う。



「……」


「人の体は、複雑です。私ははらわたの一つひとつが、懸命に各々の役割を果たして、人ひとりを動かしていると考えています」



――どういうお医者様なの? この人……。



「あなたの子宮は、毎月ものすごく頑張って卵を用意する。けれどもそれは赤ん坊には育たなくて、月のものとして流れるしかない。作った料理を捨てるしかない、料理人と同じ気持ちになりますよね」


「……」


「子宮は泣いてるかもしれない、怒っているのかもしれない。それに耳を傾けられるのはエリンさん、あなただけです。怒ったり、泣きたくなるのは、あなたの心がそうしたいと言うよりも、子宮がそうなのかもしれません。温かくして横になって、彼女・・をいたわってあげましょう。彼女はあなたのために、頑張ったのだから。


 ……メイン王は、爽寿そうじゅの薬湯を処方したそうですが。効かないのであれば、加密列かみつれをおすすめします」



 フィンは硬筆と筆記布を鞄から出して、やや読みにくい字でかみつれの処方を書いた。



「不快感や鈍痛を感じ出したら、一日三回、食後に飲んでみて下さい。二月後に、経過を聞きに参ります。……ただ経血量が多かったり、ずっと長引いて止まらないような場合は、直ちに言ってください」


「はい……」


「以上なんですが、大丈夫ですか?」



 ほんとに不思議な医者である。妙な語り口にのせられて、エリンは大丈夫になった気がした。



「はい」


「それでは、もう一人のかたを診ます」



 エリンは立って行って、扉を開けた。すぐそこの廊下で喋っていたらしい、パスクアとケリーがふっとこちらを見る。



「あなたの番よ、ケリー」



 入れ違いに自室から出ようとしたら、腕をくっと掴まれた。



「姫様、いっしょに居て」



 ケリーはエリン以上に、緊張していたらしい。すらっと細長い体を腰掛の上で狭苦しく縮こめて、……ものすごく辛そうに覆面布を下ろした。


 マグ・イーレ軍の奇襲時、あの大男にこわされた鼻である。


 フィン医師は頷いてから、エリン同様ケリーの脈をとり、背中で呼吸を聞く。特に呼吸はながく聞いていた。くるっと後ろのエリンを見やる。



「就寝の際は、同室ですか?」


「はい、そうです」


「ケリーさんは、いびきをかきますか?」


「? いいえ、全く」


「寝ている時に、苦しそうにもがもが言ったりしませんか。うなされたり、寝言は」


「それも、ありません」



 今度はケリーを見る。



「起きた時に口の中ががらがらで、咳込みたくなったりは?」


「……ないです」



 たまーに消化不良でお腹をこわすが、それ以外は風邪もあんまりひかないケリーである。



「それじゃ、何も問題ないですね」


「……治らないんですか? これ」



 ものすごく思い切って言った感が、部屋の隅の腰掛に座るエリンにも、びしびし伝わってきた。



「傭兵にやられるまでは、まっすぐだったんです、……あたしの、鼻」



 さいごは涙がまじったらしい。ほんのちょっと。


 フィン医師はケリーの顔をみた。目線を同じ高さにして、笑いもせずまじめな顔でじーっと見た。



「……呼吸に支障があるような繋がり方だと、後から整形する場合もあるんですが」



 平坦な言い方だ。



「あなたの鼻はものすごく必死に、治ったんですね。痛かっただろうに」



――今度は、鼻目線なの?



 エリンは内心で心配が止まらない。ケリーの鼻は、自分の痛みとは次元が違う。


 自分の顔の真ん中を壊されて、以来隠さずには外に出られなかった……十二歳の女の子が負わされるには辛すぎるものを無理やり背負わされて、そうして生きてきたケリーに、自分ですら何も言ってやれなかったのである。


 お願いだからきついこと、冷たいことは言わないで、……エリンは唇を噛みしめた。



「私は、以前のあなたを知りませんが」



 感情のこもらない乾いた医師の声に、ケリーは首を傾げた。



「あなたは今のままで、完璧だと思いますよ。その、必死に生き残った鼻だからこそ、今のあなたがある」


「……」



 ぽたぽたっ。ゆっくり伏せた顔から、ケリーの股引膝に滴が落ちた。



「でも。まがってます」



 絞り出すようなかすれ声に、エリンは胸をつかまれた。やっぱりだめだ……立ち上がりかけて腰を浮かす。その時医師が少しだけ、ケリーに顔をよせた。



「ケリーさん。俺の顔、みてください」



 両目を右こぶしで拭いながら、ケリーは顔を上げる。



「どう思いますか、この目」 



 両手ひとさし指で目元をさしている。



「? どうって、……青い?」


「弟によれば、こっちはやや垂れ目、右は切れ長すぎで、どうにもしまらないらしいですよ」



 ケリーは医師をじーっっと見た。



「言われないと、わからない……」


「でしょう。それなのに奴は、眠いんだか真剣なんだかどっちつかず、なんて言う。俺はずーっと、真剣なのにね」



 ふ、とケリーは涙目で笑った。肩を軽くすくめて、医師もふうっと口角を上げた。



「大丈夫ですよ、覆面布をしなくっても。あなたは晴れやかで、人に隠すようなものなんて、何もない」


「……」


「ああ、でも覆面布をやめろなんて言いません。むしろ首周りを温めるのは、医者として大賛成です。俺も寒い時には使います」


「……ごめんなさい、泣いちゃって」


「何でもそうですけど、体から出るものは我慢しない方がいいです。どんどん出しましょう」


「ありがとう、フィン先生」



 ケリーは隠しから出した手巾で目を拭った、その下に笑顔がある。



「良かった。以上ですね」



 卓上の鞄を手に、医師は立ち上がる。


 帰るのだと思ったら、そうではなかった。



「パスクアさんもご一緒に、ちょっと別の話を」



 目と鼻を赤くしたケリーをみて、どきっとしたようなパスクアを尻目に、医師は廊下でひょいひょい立ち話を続ける。



「今はお二人とも何ともありませんが、地下室に住み続けるのはいけません」


「???」



 三人とも、ぽかんとした。



「肺をわるくします。すぐにとは言いませんが、なるべく早く地上階以上のところへ、引越されることを強くおすすめします」



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