170 空虚八年目5:ゲーツの確信
「ちょっと……ゲーツ君、何なの? どうしちゃったの? 本当に聞いた怖い話って、それつまり聞いただけの話じゃないの」
昨日に続いて、爽やかな夏の朝。
書斎に活けて飾ったら、すてきな香りで書きものがはかどるかも……ふふふ……などと考えて、離れ裏側の黄色いばらをぱちんぱちんとランダルが切っていたら、その茂みの裏から巨大な影がにゅうと出て、「先生話が」と囁くのである。
定例会議にグラーニャを残して、こっそりやって来たらしいゲーツだった。
いつもの無表情顔が微妙に紅潮しているような、いいや見ようによっては蒼ざめているような変な顔、つまり急を要する顔である。静かに書斎に入れた王であった。
「……いえ。本当に見た、怖い話なんです」
「怪異目撃談? なに見たの? 昨日のことなら、私も聞いたけど」
午後遅く、うちうちの会議があって呼ばれていた。ザイレーン訪問の際にディンジーの聞きつけた不穏な気配について、グラーニャとディンジーから報告されていた。
声音の魔術師を招聘した手前、赤い巨人や書物に関わることがらについては、ランダルもこういった極秘の打ち合わせに出席し、情報を即共有するようになっている。
「……ディンジーさんのことではなく、グラーニャ様が遭遇したミルドレ氏のことなんです」
「うんうん、それもついでに聞きましたよ。びっくりしたね、でもお孫さんってだけで関係ない人だったんでしょう? ……って、ちょっと?」
ランダルは内心でかなり引いていた。
ゲーツが、……自分よりだいぶん上背のある大男の傭兵が、ぐぐぐぅっっと身をかがめて、ランダルの目を覗き込むようにしてきたのである。
「……本、人、なんですッッ」
「……は?」
――なんで涙目にまでなってるのッ? いかん、ゲーツ君なにか病気なのではッ?
「とりあえず座ろう、座ってゆっくり説明して?」
あまり広くもない書斎だが、書棚をめぐらせた隅に予備の小机を置いてある。
そこの下から腰掛二つを取り出す、ゲーツは力なく座り込んだ。
「……王子様ふたりがティルムン留学へ旅立った時、先生はテルポシエでミルドレと会ったのですよね」
「ええ、会いましたよ。例の……疑惑のミルドレの、息子さんの方。昨日君らが会った人の、お父さんじゃないですかね」
「……そのミルドレは、港にまで来てたのではないですか」
「へ? ……あ、ああ……そうだったかな。うん、ほらニアヴさんがすごく不安がっていたからね。気を利かせたのかな、定期通商船が出航するまでずっと一緒にいたかも。何で?」
「……小雨が降っていたので……テルポシエ騎士の、緑の外套の頭巾をかぶっていた……」
「ゲーツくーん? ほんと、大丈夫?」
「……寝たら思い出したんです」
ランダルは小さく口を開けた。……は?
「……先生がテルポシエ港で話していたミルドレと、昨日のミルドレは、同一人物なんです。本人なんです」
「ゲーツ君……、えーと」
ランダルは、あご髭をごしごしっとしごいた。
「昨日見たミルドレは、三十そこそこの若い人だったのでしょ。私が二十年近く前に会ったミルドレも、やっぱり三十代くらいだったんですよ? いくら若づくりしたって、そんな風には見えないでしょう……ありえませんよ、同じ人って言うのは。親子だったら、それくらい栗ふたつになるもんじゃない?」
「……自分は、白山羊四十頭を個々に判別できます」
「!! すごい能力だっ」
「……先生は以前、エリン姫がグラーニャ様にそっくりだと仰いました。たしかに似ています。似てますが、別人なんです」
「……」
「……ですが、あのミルドレ達は。似た者どうしとか、血縁者ではありえません。同一人物なんです。変な髪と、顔と体が全く同じでした」
ゲーツは時々、過去の風景を夢に見る。昨日会ったミルドレのちりちり髪の印象かもしれない、出立するフィーラン王子に伴ってテルポシエへ行き、船が出る時港で警護をしていた、その時の記憶をみた。早朝、まだ暗いなか彼は震撼して目を開いたのである。
「……あいつはあのままで、長く長く生きているんです」
ランダルは言葉を失った。ありえない、……けれどゲーツの確信を否定することもありえない、と思う王である。
こんこん、……かたり。
控えめに扉が叩かれ、静かに開いた。
「ディンジーさん……」
声音の魔術師は音もなく小机に歩み寄り、不安げな王と蒼ざめた傭兵とを見下ろして、うなづいた。
「そいつの外見のこと。どんなだったか、詳しく言ってみて?」




