169 空虚八年目4:ミルドレ黒羽ちゃん危機一髪
『ふああああっっ! びっっくりしたわぁっっ』
「とんでもない、驚きの連続でしたね! 驚きすぎてもう、寿命が縮まっちゃったような……」
『いやだミルドレ、本当に!?』
「ええ、三日くらい」
『なーんだ、それくらいなら次にどこかから熱を吸う時、余裕で取り返せるわよ。にしてもびっくりしたわ! 町なかで声かけてきたのって、グラーニャ姫よね?』
ザイレーンの町門から、大慌てで飛んで逃げてきたふたりである。
妙な歌声に包まれて、恐慌をきたしたかの女が彼を抱え上げ、めちゃくちゃに飛んだものだから、ミルドレはいま自分達のいる森小屋が、どこの国領なのかもさっぱりわからない。
恐らく、マグ・イーレとデリアドの国境近くだと思われるが……。
「ええ! エリン姫が、いきなり小さく老けたのかと思っちゃいましたよ」
『何言ってるの、エリンちゃんはまだまだうで卵のお年なはずよ。にしてもすごいほうれい線だったわ! ほぼ同じ顔したティユール妃にもディアドレイにも、あんなくっきりとは出ていなかったのに!』
「ホーレーセン! 何です、それ?」
『大人になるとくちもとに浮かぶ、線のことよッ』
「さすが黒羽ちゃん、目の付け所がはんぱなく独自ですね!」
『だてに何千年も、女の子やってないわよ! それに、一緒にいた護衛の男もすさまじかったわ!』
「あっ、それは私にもわかりましたよ。まじめな顔してても、頭の中は九割がた、いやらしいこと考えてるって人相です。傭兵なのかな?」
『ミルドレに、じっとり嫉妬してたわよ』
「うげえっ、何でぇぇぇ!?」
『あなたが、若くて美しいからに決まってるでしょ! きゃつはグラーニャ姫に、ずぶ沼ぞっこんなのよ。自分以外の雄は全て敵、彼女が見る男も話す男も、あまねく抹殺したいと思ってるんだわ。そのくせ腕は立つようだったから、あなたに何か因縁つけやしないかと、わたし内心はらはらしてたの』
「へええ……、執着心の強さだったら私も他人のこと言えませんけど。怖い人もいるもんなんだなあ、よく姫はあれで平気ですね? さすが白き牝獅子なんて呼ばれるだけ、肝がすわってるんだ」
『思い起こせば、はさみ襲撃の子だもの……』
「そうでしたね、彼女自身が怖い人だった。やっぱりもうちょっと精鋭の工作員を回して、ガーティンローで消しとくべきでした」
『まあまあミルドレ、起こっちゃったことはしょうがないわよ。後悔役立たずだわ』
「ええ……。にしても、今日は油断したなあ。私のこと、ばれてないといいんですけど」
『相変わらず、完璧なしらばっくれ方だったんじゃない? 大丈夫よ、わかるわけないわ』
「そうだと良いんですけどね。塩がお安く買えるからって、マグ・イーレ領にのこのこ来ちゃったのは、やっぱり不注意でした」
ふうー、騎士は溜息をつく。かの女は黒い手羽先で、慰めるように彼のがっしりした右肩をモミモミした。
『でも……、後から聞こえた歌の方は、ちょっと気がかりだわ』
「とってもいい声でしたね。黒羽ちゃん、憶えがあるのですか?」
『いいえ、全く。けれど、普通の人間の声じゃない。あれは人間以外のものにむけた声であり、歌だった……。意識してわたしを狙ってきたのよ。わたしのことを知って、歌っていたんだわ。見える人だったのかしら』
「……探しに行きましょうか?」
ミルドレはかの女に向かって、右手を差し伸べた。蒼い瞳がきらきら笑っている。
一瞬その中を見つめてから、かの女は両手で騎士のてのひらを掴んだ。
『べつに、いいの。しょっぱ辛いおじさん声だったもの』
「お塩が特産、マグ・イーレなだけにね……」
『あんまり、素性の知れない変な人には見られたくないわ。どうかして捕まっちゃったりしたら、大変だもの。わたしはミルドレにだけ見えていれば、いい』
「……」
『さあ。お塩はたくさん買えたんだし、うさぎでも獲ってたべましょうよ』
「うーん……うさちゃんはね。すごく美味しいけど、かわいすぎるから捕まえて肉につぶすの、辛いんですよ」
『かと言って、肉屋さんで買う余裕はないわ』
「ないですねえ。財政破綻老人はしんどいなあ……どれ、お魚でもとれないかな」
ミルドレは森小屋の扉を開けて、外に出る。
短槍の先っちょに、糸を付けて垂らすのだ。待つのは苦にならない、釣りはけっこう得意なのである!
しかし鬱蒼と茂る分厚い深緑色の森、樹々の間をすかしてみても、沼や湖なんてありそうもない。
「どこなんですか、ここ――」




