166 空虚八年目1:ディンジー背伸び体操の朝
イリー暦198年。八年目の空虚の話である。
・ ・ ・ ・ ・
「はいっ、上に。のびーん」
「のびーん」
「のびーん」
「次は右ななめに、のびーん」
「のびーん」
「のびーん」
爽やかな初夏の朝である。
気持ち良く晴れた日は、朝食前にディンジーの天幕の横で、“背伸び体操”を行うのが、いまや日課となった双子であった。
「はい、おしまい。今日もすくすく、でっかく伸びてね。二人とも」
「ディンじいも、伸びてね」
「俺はこれ以上伸びません、ゾイ君。伸びて欲しいのは……そうね、害虫駆除の依頼数」
「最近あんまり、お便り来ないの?」
「うん……。マグ・イーレじゅう、滅ぼしすぎちゃったかね。他の国へ行くっきゃないかなあ」
「ええー、どこか行っちゃいやあよ、ディンじい」
「フィングラスとおんなしで、行ってもちゃんと帰って来るよ。ロイちゃん」
くるんくるんの濃褐色の髪を揺らして、男児は森の賢者の左手を握った。
ぴかぴか白金髪のおかっぱてっぺんに巨大なもも色てがらを揺らして、女児は右手をとった。
「さあ、朝ごはん食べよう」
「オトヌが昨日持ってきてくれた、やぎ乳蘇があるのよ」
オトヌと言うのはティルムン語で“父”を示す幼児語、すなわちお父ちゃんくらいの意味である。双子にはふたり父がいるから、ランダル大父さまと区別するために、ゲーツのことはそう呼んでいる。
「いいねーえ。 ……おんや」
「なあに、ディンじい?」
「もう、ゼンドー?」
マグ・イーレ城の離れ、屋敷の玄関に入りかけた所で足を止めた声音の魔術師を見て、双子は訝しむ。
「天幕の中で、おならしてくるの忘れた。さき行ってて、すぐ追っかけるから」
「早く、プーしてね」
「大母さまに、その辺言っちゃだめよ。二人とも」
大母さまはミーガンのこと、ちなみに実母グラーニャは“母さま”で通っている。
「はーい」
双子の重唱を背にくるっと引き返して、ディンジー・ダフィルは離れのすぐ脇、はしばみの樹々の間に張った自分の小さな天幕に入る。
彼は冬以外はここで暮らしている。事情を知らない人が通れば王の屋敷横に何故これがと驚くが、常識を通して賢者魔術師を見てはならない。
ディンジーは、そこでじっと耳を澄ましていた。
彼の特異稀なる聴覚が、さっきから“気障わり”な羽音を拾い続けている。
「……」
それは西の方から届いていた。しわしわに日焼けした顔をしかめて、声音の魔術師は首を傾げる。それ自体いやな感じはしない。大きくやわらかい翼が人里のなか……小さな町か村のどこかで、遠慮がちに羽ばたいているのがくぐもって聞こえるだけである。しかしそれに、憶えのあるディンジーだった。
「きな臭ぇ属性だね」
第一関節にまでもじゃもじゃ毛の生えた右手薬指で、ディンジーは眉毛をごしごしっとこすった。




