161 空虚六年目14:番外編・ビセンテの休日
「じゃあ、夕刻前にこの辺でな。ちゃんと待ってろよ?」
「雨にならないと、いいんですけどねえ!」
テルポシエ東門へ向かう道と、北方への街道との分岐点。
三人の男たちが別れたところである。
きもちの良い夏の朝、かるい麻衣一枚がすうすう風を通して、ビセンテはこれでも機嫌がよかった。
一度だけくるっと振り返る、帽子をのせたナイアルの頭とアンリの巻き毛、二人の進む向こうには、どかんと平べったいテルポシエの城塞が座っている。
ふっ、と鼻息をついてからビセンテはどんどん街道を歩いてゆく、麓にもくもく霧のかかった東の丘はずっと後ろ、やがてさびれた集落跡がひとつ、そこを左に曲がる。
細道の両側に、時々野いばらの白い花が咲いている。よく知っている道である。
やがて左右は林から森に変わる、他の人はちょっとした難所として恐れているところだ。いやな話がつきまとうから、誰も夕方以降は通らない。と言うかこの道を一人で行くやつなんて、ビセンテだけだ。
う――っ。
前の方から低い唸り声がする。右の茂みから野犬がのっそり頭を出した。
ビセンテはぎろッとそいつをにらみつけた、ずんずん進む歩調は緩めない。
きゃうん……。
野犬は後ずさりして、茂みの中に戻ってゆく。
森は深まってゆく。
ビセンテの進む先に、何か褐色のものがいる。何てことだろう、“阿武熊”だ!
このアイレーの地に幅広く棲息する雑食獣、伝承ではほんとうの空のもとに闊歩すると言われている。
めったに人を襲うことなんてないけれど、出会ったら絶対に刺激してはいけない。もりもり肉球にがりがり爪のついたやつでびんたされたら、あっという間に丘の向こう行き間違いなしだ。
鼻の頭にぎゅうっとしわを寄せ、ビセンテはふんっっと鼻息をつき、そいつをもぎろぎろっっとにらみつけた。
――いやあん!
その阿武熊はたちどころにびびって(女の子だった)、そそくさと森の中へ隠れる。
やっぱり歩調を緩めずに、ずんずんビセンテは歩いてゆく。
森が林にもどり、その樹々が灌木にとって代わられる、このいばら垣の向こうは農地なのだ。
あたたかい空気に、草と、牛のくさぁい匂いが混じる。
ぶーん、と大きな羽音がする。
ビセンテが右手にさげもつ麻袋、その中から流れ出る甘い香りに誘われて、冗談のようにばかでかいすずめ蜂がやってきたのだ!
実はこの蜂、門番役で巣の警護をしてなきゃいけないのだが、つまらないことで女王様と口論になり、やさぐれて家出してきたのである。
ぶあっっし――ん!!
ビセンテのかたい手の甲が、そんな事情お構いなしに蜂をぶっ叩いた。
壮絶な裏拳の衝動に蜂は気を失い、そのまま吹き飛ばされて、野いばらの花の中にすぽっとはまった。
・ ・ ・ ・ ・
ようやく村に着いた。そこもずんずん歩いてゆく。
太陽が高くなって道は少し埃っぽい、庭先で仕事をする老人がビセンテの姿を目に留めるけれど、声をかけることはない。瞬きする間に、行ってしまうからだ。
まずしい村の中を、彼はどんどん、どんどん歩いて行った。
ちらちら流れる川にかかった苔むした石橋を渡って、その先にある石組みの家の前に、彼は立つ。
でも扉を叩かない、かわりにしばらくじっと黙って耳をそばだてていた。
すっと左側、庭の方へまわる。小さな納屋の向こうに、赤い実をわんさかつけた桜の木があった。そこへ彼は呼びかけた。
「おい」
わさわさ、葉と実のあいだから視線が向けられる。
がたがた、立てかけられていた梯子がしなって、母が降りてきた。
手にした籠を地べたに置いて、声もたてず、けれど満面の笑顔で彼女はビセンテに歩み寄る。
ぎゅうっと両腕いっぱいに抱きしめられて、ビセンテはじーっとしている。
ふと、すりきれて薄くなった母のつむじの上に、小さないも虫が蠢いているのに気付く。
ぷっ、と丸めた唇からの空気弾で、ビセンテはそいつをふっ飛ばした。
長靴と靴下とを脱ぎ、はだしの足に股引裾をすねまでまくり上げて、ビセンテは桜の木に登る。
梯子なんて彼には必要ない、両手でどんどん実をむしっては、大鉤で枝につるした籠に桜の実を入れてゆく。
梢はまたたく間にすかすかになっていった。
その下、少し離れた草の上に座り込んで、母はビセンテが持ってきたはしりの黄桃をたべている。
そこにあった四本の桜の木を全てすかすかにした後、ビセンテは再び長靴をはく。
背に巨大な籠をしょい、左右の手に一つずつ、やはり巨大な籠をさげもつ。
中くらいの籠をひとつ抱える母のあとを歩く。村の蜜煮屋にきた。
すぐりと杏の籠を持ち込んでいる先客のおばさん達に母は挨拶をして、ふたりは店の隅っこの長椅子で順番を待つ。
ビセンテは母の右手をつまむ。
夏なのに、親指の付け根のところが白く粉をふいているのを見て、ビセンテは鼻にぎゅうっとしわを寄せた。
股引の隠しから小さな壺を取り出して、なかみを垂らすと、ビセンテは母の手を揉んだ。前もってナイアルからもらっておいた、扁桃油である。
揉み終わると、彼は壺を母の手に押し付けた。
順番が来て、さくらんぼうの目方が量られる。しょんぼりと丸くなった母の背を見て、相当な安値だったことを後で知る。
家に籠を戻して、そしてビセンテは帰ることにする。
「ありがとう」
再びぎゅうっと、ビセンテは母の両腕いっぱいに抱きしめられた。
「またね」
ビセンテはうなづいて、そしてくるっときびすを返した。
・ ・ ・ ・ ・
うって変わって、帰りみちのビセンテは機嫌がわるい。
ぶすっと口をひん曲げて、もと来た道をずんずんテルポシエに向かう。
大家さんの催促攻撃を笑顔でかわし続けた母。
ビセンテが破壊した手習い所の備品について、笑顔で謝り続けた母。
近所の魚屋老夫婦に、あら汁のお礼を笑顔で言い続けた母。
そういう母が唯一、ひびあかぎれにべそをかく。
いた痛た……目をぎゅうっとつぶって、痛いと囁きながら手を洗う、――それがビセンテは許せなかった。たまらなく、嫌だった。
「おう若ぇの。金目のもんあったら、置いてけやぁ」
怒っていたから、途中の森で行き合ったちんぴら二人組を足刀蹴りおよび後ろ回し蹴りで丘の向こうへ叩き送って、ずんずん進む。
やがて目の前に、むわっと嫌なものが拡がった。
その辺一帯に向けて、やっぱり機嫌のわるいビセンテは、ここ一番の強烈ながんを飛ばす。
『おげえぇえ。こんな魂喰ったら、むこう三年、腹くだすわあ』
すれっからしの精霊は見えないお肌にとり肌をたて、午後の森のきのこの合間、薄闇の中に姿をくらました。
きれいな碧い空がまだまだ明るい、夏の夕刻。
分岐点には誰もいなくて、ビセンテはそこに立ち尽くす。
ビセンテは待った。
湿地帯の花蜜を集めて帰る蜜蜂たちのやさしい羽音が、軽い海からの風にまじる。
突然、ビセンテは胸のかくしに何かが入っているのに気が付いた。
桜の実、血みたいにあかい実がひとつ、まぎれこんでいた。
ビセンテはそれを口に入れた。こういう、歯ごたえのないものを彼は好まない。
それを喜ぶのは母である。
「……」
少なくとも、母は喜んで黄桃をたべていた。彼が黄桃を持ってきたのを喜んでいた。おばさんの家で肩身狭く居候中の母は、ビセンテが黄桃とともに会いに来たことを、よろこんでいた。
ビセンテは、機嫌をなおすことにした。
ぷっ、と桜の種をその辺にとばす。
何年後かにそれが芽を出すのだろうか、とビセンテは想像する。
何年後かにそれは実をつけて、食えるようになるのだろうかとも考える。
「うおーい、ビセンテー」
「お塩いっぱい買えましたよー」
どかんと平べったいテルポシエ城塞の方から、ナイアルとアンリが手を振って歩いてくるのがみえた。




