16 精霊使い5:妖精と真実
「イオナちゃん、ちょっと……あそこ、女の子が」
義姉が話しかけてきた時、イオナは果物売りの老人に支払いをしているところだった。
うすい緑と赤の二色で彩られた、瑞々しい早生の林檎を十も分けてもらうと、布袋はずしりと持ち重りがする。
「どこ?」
ようやく振り返ると、遠くを見たままアランの表情は硬い。
「あの、木に近い辺りの荷車の裏。若いの二人に連れ込まれて、抵抗し始めた。行こう」
そこまではずいぶん距離があるが、義姉はとにかく耳ざといのだ。早足で歩きながら、イオナもその状況を目視する。
「乙女の危機です。アランお姉さんが必殺の二刀流で、あほどもに正義の拳をぶち込んでやりましょう」
「拳なら二刀流って言わないよ。二人相手で、大丈夫?」
「もちろんイオナちゃんにも、助太刀ねがいます。……あれ、ちょい待ち」
問題の荷車まで二十歩ほどに迫った所、雑踏の中でアランはぴたりと立ち止まる。
「良かった。別の助っ人が、もうのしてくれたよ」
黒ずくめの背高い姿が、若い一人をすっ転ばせているのが見える。
「しかも、ニーシュさんじゃん。さっすがエノ軍の良心にして、我が義妹の彼氏どの」
アランは満足気に、何度もうなづいた。
「……もう、手助けは要らないね。買い物の続きしよう」
イオナもさっぱり言った。
「あら、一緒になんなくていいの?」
「どうせ、昼の食事で一緒だろうから。さっきのおじいさんの近くで、他に見たいものもあったし……」
「あ、そう? それじゃあたしもー、どくだみとー、蛇酒とー、かたつむ軟膏とー、えーとあと……何欲しいんだっけ? 探してみよっと」
上機嫌で歩き出したアランを追おうとすると、肩に提げた布袋の所に、ふと異様な気配が走った。
見下ろせば、黒っぽい頭巾を被った驚くほど小さな老婆が、買ったばかりの林檎を掴みだしている。
その様があまりに堂々としているものだから、一瞬イオナも言葉が継げなかった。老婆はイオナにまっすぐ笑いかけた。
「男ってのは、ああやって罪滅ぼしに一生を費やすのかねえ?」
――何言ってるんだろう?
「……それは、返して。大好物なんだから」
――ひょっとしたらこのお婆さん、何か病気なのかもしれない。
その可能性を考えつつ、つとめて穏やかに言ってみた。しかし。
「あの男の大好物、ってことだろう? そんなら、やーなこったい」
老婆があまりに挑発的に答えるものだから、ついむかっと来てしまった。
「違うよ、わたしの兄の、だよ」
「あはは。何をむきになっているのさ? 本当のことだろう。お前さん、あの嘘つきに惚れて、どうかしちまってるのさ。イオナ」
「!」
それだけ言うと、老婆はくるりと向きを変え、見かけに合わない恐るべき速さで走り去る。そしてイオナは、思わずその後を追った。
・ ・ ・ ・ ・
門番数人にも見咎められず、老婆はするりと西門をくぐり抜け、林の間の小径を走り抜け、気が付けば三つの丘を越えて、さらに走り続けている。
「こっちだよーお」
ななかまどの大きな樹が一本、その下でイオナを待ち構えているらしい。林檎九個入りの布袋が、肩に食い込んでいた。
::俺、下戸なもんでさ。
照れくさそうに言った時の、ニーシュの顔を思い出す。今、とめどなくいとおしく感じるあの優しい笑顔は、続けてこう言っていたっけ?
::え? だから甘党ってわけでも……。あ、でも真夏の林檎。早生種のやつな、あれは良いよなあ、うん。
――あの人のことを、嘘つきだと? 罪滅ぼし、だぁ??
適当に悪口を言っているだけなのだから、変な婆さんと放っておけばいい。そう主張する理性に反して、つい全力で追跡してしまった。何かが妙に引っかかる。
ななかまどの根元にちょこなんと立った老婆は、息ひとつ上げていなかった。鼻柱に浮き上がった汗を掌で払って、イオナは対峙する。
「お婆ちゃん……あんた、人間じゃないね?」
「もうへばったかね。イオナ」
「何でわたしのこと……わたし達のことを知ってんの」
頭巾の下で相変わらずにこにこしながら、老婆は林檎をぽうんと放った。
「……勘は良いのに、頭は悪いのね」
ぱしり、すぐ目の前でイオナは林檎を受け止める。
「人ならぬものだからこそ、わたしは色々と知っている」
老婆の小さな体が、透き通り始める。いや、白く輝き始めたのだ。
「けれどわたしは、嘘は言わない。わたしが目にして、口にできるのは事実だけ」
イオナの全身が総毛だった。
老婆はあの白い海藻のように膨れ上がると、ぺしゃんとつぶれ、そのぐずぐずした輝きが別の形を作り上げる。
八つくらいの幼女の姿が現れた。
――妖精だ。
恐怖と畏怖、驚愕のためにイオナは身動きが取れずにいる。
女児用の死に装束をまとったその小さな娘は、ふわふわと宙に浮きながらイオナをじっと見つめている。腹のところから、これも白っぽく光るひものような長いものがでていて、小さな体を取り巻くように、黒髪の所まで伸びていた。
やがて、ゆっくりと微笑む。何となく軽蔑を含んでいるような笑い方だった。
『……驚かせたのなら、ごめんなさい。イオナ』
再び名前を呼ばれた時、突如義姉の顔が脳裏に浮かんで、はっと体が自由になる。脇の髪の先に編み込んだ、魔除けの石玉をさっと両手でつかんだ。ずっと前に義姉がくれて、今朝もそのアランが編んでくれたものだ。
『心配しないで。あなたに悪さするつもりなんてない』
「じゃ、何の用……」
口も、ほどけたように自由になる。
旬の果物のお供えが欲しいのなら、あげてしまえば良かった。いや、そもそも相手にするべきじゃなかった、何故うかうかとついて来てしまったのか。イオナは猛烈に反省したが、どうにもならない。後悔役立たず。
『あの男。左耳に赤い石をはめたあいつは、イオナや皆に嘘をついている』
確かにニーシュの左耳には、小さな赤い石の飾りがはまっている。
妖精は宙を歩いて、イオナの顔にそろりと自分の顔を寄せた。
『あいつが連れているのは、自分の娘じゃない』
間近に見ると、妖精の肌は微妙に褐色がかっているように見えた。夜空のような深い闇を湛えた双眸が、イオナの視線をつかまえて離さない。
『娘を孕んだ弟の花嫁を、あの男は力で奪い取った。あの男は、弟を殺した』
妖精の声は、いまやイオナの頭の中に響いていた。
『これは真実』
抑揚のないその声以外、そしてどくどくと速くなる自分の脈以外に、もう何も耳に聞こえてこない。そよいでいた風、ざわめいていた鳥たちは、どこに行ってしまったのか。
イオナはぎゅうっと目を閉じてみた。義姉を、兄を、ニーシュの笑顔を思い浮かべる。
再びかっと見開いたその目で、妖精を強く見返してやった。無理に笑ってもみせる。
「冗談言わないで。あんなにそっくりな親子、そうそういないよ」
妖精は小首を傾げた。
『血の繋がりはあるんだから、似るのは当然。でもやっぱり、娘じゃない』
だから何なんだ、妖精のくせに因縁をつけるな、そう思った時にふと、ニーシュ自身の言ったことが記憶に蘇る。出会ったばかりの頃だ。
::ちっと事情があって、……俺とシュウシュウはなるべく早いうちに、遠い土地を見つけなきゃいけないんだ。
彼が言っていた“事情”について、その後詳しくは何も聞いていない。
あれから幾月かが経って、どんどん親しくなった。仕事のうちではお互いを構いながら、しっくり立ち回れるようになったと思う。
身体も重ねた、何度も。
――心の方は、重なってなかったのだろうか。
胸のうちにぱっくり口を開けた不安が、イオナを呑み込もうとする。何も言えなくなったイオナを見て、妖精の少女はにっこりと笑った。
『本人に、確かめてみたら?』
再び、少女の体が白っぽく光り、今度はぱっと弾けた。
「!!」
思わず、両手を顔の前にかざす。
『さよなら、イオナ』
頭の中に、また声が響き渡った。
ぽとり、
足元を見ると、投げ返されて手にしたままだった林檎が転がっている。
妖精の痕跡はどこにもなく、そよ風がなびいて鳥たちの声が彼方に聞こえる。
見上げたななかまどの樹は、何事もなかったように、つんとイオナを無視していた。
所在無げに林檎を拾い上げ、もう一度ななかまどの枝に実ったたわわな青い実を見つめてから、イオナはとぼとぼと歩き出す。
――夢だったらいいのに。
肩に食い込む袋の重みと、土埃まみれになった革草履ばきの足の感触とが、残念ながらそうではないということを、克明に知らしめていた。