158 空虚六年目11:おじさん達の考察
「本の内容はいったん置いておいて。少し、それが書かれた背景と言うか、作成された時代についても考察してみようと思います」
その夜、ガーティンロー市中心から少し離れた堅め宿の一室で、複写した筆記布を卓子上に広げてランダルは言った。反対側の席で、ディンジーが頬杖をついている。
「ゲーツ君は、がりがり進めてね?」
「……はい」
鏡台を使って、ゲーツは書き取り練習中である。
「『テアルの巻』の成立は、イリー暦25年頃。テルポシエ第五代王の肝いりで製作されました。ティルムン帰りの画師ユングードがテアル老侯の話を聞いて描き、王に捧げたのです。ユングードとテアルの二人は生没年もはっきり知れた実在人物で、特にユングードは他にも作品を遺してますから、この辺は間違いないでしょう」
「他の作品って?」
ディンジーが尋ねた。
「恋情詩とかですね」
「いやらしいやつ?」
ゲーツの硬筆のさらさら音が、ぴたりと止まる。
「それは読む人しだいでしょう。宮廷ものですから、今の流行り歌みたいに露骨なのはありません。裏のうらまで突き詰めないと、よくわからないのばっかりですよ。そっちの分野は何事も寸止め、ちら見せが一番効果的ですから」
「ふーむー」
「それと数は多くないけれど、テルポシエ城内に彫刻も少し遺したようです。当時は割と受けたようだけど、現代まで残っていてそれとわかるものは皆無、と」
この辺は、マグ・イーレの古書商ロランが、美術史をざっと調べてくれた成果である。
「話をしたテアル老侯っていうのは、誰なの?」
「貴族出身で老侯、と言うからには騎士です。その当時まではどうも、宮廷内に物語や詩などを暗記して吟唱する専門職があったみたいなんですね。代々伝わってきた話を王や貴族の求めに応じて、披露すると言う。彼はそういう家柄の人でした」
「へえ、俺たちと似たことをしてたんだな」
ディンジーは興味を持ったようである。
「東部ブリージ系の人々は、文字を持たずに口承ひとすじだったのですよね」
「そう。時代が下って、元々のブリージ語が正イリー語に混じって潮野方言を話すやつが多くなってきても、古い話を書きとめることはどこでも厳しく禁じられていた」
「どうしてなんでしょう?」
「一つには、古い記憶や伝承って言うのは、財産だと考えられていたから。だから俺たち……“声音の一族”つうんだけどね、俺の一族だけが独占して伝承していた。
聞いて憶えて、それを口伝えに話す。絶対書いちゃいけないんだ、書いたら誰にでも読める可能性が出てくるだろう? そうやって話が流出しないよう、ひたすら耳と声の修行を繰り返すんだよ。十年、二十年単位で」
「まさに修行、ですね……。では、二つ目の理由は?」
「俺たちは、物語を生きものと考えていた。先祖の時代から長く長く生きてきて、新しく伝えられた世代とともに、成長し続ける生きものだよ。
それは目に見えないからこそ、自由に柔軟に姿を変えて、いま生きている時代に合わせて説得力のある話になる。修行を終えた一族の語り部には、そういう風に話を変化させることが許されていた。
でも羊皮紙や布に言葉として書き付けてしまったら、それは永遠に変わらないものとして残ってしまう。物語が、“生きもの”でなくなってしまうんだ」
ランダルは感心して聞いていた。全く価値観の異なる世界だ。
「なるほど、実に興味深い……。だからブリージ系の文化や慣習っていうのは、あまり我々に知られていないのですね」
「……あの、ディンジーさん」
「なに? ゲーツ君」
「……そもそもですみません。ブリージって、どういう意味があるんですか」
「ああ、神様の名前から来てんの」
「ええっ? そうなんですか? 正イリー語の“東の果て”から来たって説を、うのみにしていましたよ」
「うん、それは都合のいいかくれみのでね。俺たちいっぱい神様と付き合って来たんだけど、その中の親分格な神様が、そういう感じの長――い名前なわけよ。
聖なる親分神様の名前をみだりに言っちゃ畏れ多いし、第一むちゃくちゃ長くてむつかしくて言えないよってんで、最初の方だけとって俺たちブリージ配下の人間一族です、って感じにしたの。今のイリー語で言ったら、まあブリちゃん族みたいな軽さよ」
「へえ――……全然知りませんでしたよ、ほんと勉強になるなあ……。ついでにディンジーさん、そのブリ様の長い本名も教えて下さいよ?」
「だーめ」
「……。 ほらゲーツ君、書き取りかきとり。えーと、脇道にそれましたけど、『テアルの巻』の作者に戻りましょう」
「あ、そうそう。俺も妙だと思った」
「?」
「つまりテアルじいさんというのは、俺たちみたいに口承で巨人の話を受け継いできたわけでしょう? なのに一体どうして、そこで本にする気になっちゃったんだろうね?」
「はあ?」
「いや、さっきも言ったけど、古い伝承ってのは財産あるいは資源なんだから、それを独占できてこその専門職なわけよ。
テアルじいさんも、話せる人間が自分しかいないから、テルポシエ宮廷で大きな顔ができてたんでしょ? そんな大事な話なのに、絵付き文っていう形にしちゃったら、他の誰でも読めるようになっちゃう。
話の価値も自分の専門性も大暴落必至なのに、よく許したよね」
「言われてみれば、本当ですね……。うーん、例えば口承の後継者がいなくて焦っていた、とか?」
「……王様が話を気に入って、無理にユングードに描かせたのかもしれません」
「脇からすごい説入れてくるね、ゲーツ君。君が王様だったら、どの辺が形に残すべき部分と?」
「……巨人の女の子が、かわいいと思ってたんじゃないでしょうか」
「……」
「王様がふわもこ嗜好だったらば、そうかもね。あとは……テアルが何かに危機感を抱いていて、王様や画師にそれを相談した……」
「危機感とは? ディンジーさん?」
「うん……あの本さ、ティルムン方面の古い伝承をきれいに取りまとめて、イリー風にした話だよね? 俺も向こうにいた時、地元のじじばばからたくさん聞かしてもらったから、色んな類型を知ってる」
「我々の知っていた、西方の元ねたの方ですね」
「そう。読むより聞いて憶えて理解する俺なので。
……で、西方原産のあの話は、イリー植民にくっついてテルポシエまで来て、それからずっとテアルじいさんの時代までは受け継がれていた。
何でそんな風に“物語”が旅をして生きながらえたかと言うと、それは人々にとって大事な話、必要な話だったからだ。ご丁寧に、ご当地風に衣替えまでして残していた。
それなのに、テアルじいさんは何かを恐れていた。自分の脳みそから門外不出だったはずのものを、本と言う形にしてまで残さなきゃいけない何らかの理由があったんだと、俺は思う」
「……」
「パンダルさんはさ、どういう時に“書いて残しておかなきゃ”って思う?」
「え、私? ……そうですね、双子の歯医者予約日をミーガンに言われると、すぐ日時を書きつけておかなきゃって思いますね。あとは……ふっと思いついたことを忘れないようにって」
「……だよね。忘れそうなことは、残さなきゃって思うよね」
「ああ、そうか。じゃあ、テアルはこの話を忘れかけていたのかな?」
「……老侯は、ぼけかけていたのでしょうか」
――お馬鹿言うんじゃ、ないよーッッ。
――私らまだまだ、現役ですからねーッッ。
ゲーツの内心に棲息するウセルとキルスが、同時に反発の声をあげる。
「うーん……。もうひと声、皆がこの物語と一緒に持っていた、当時の感覚みたいなのが裏にある気がするんだけど。わかんないね」
「……でも。それじゃあ、テアルの危惧は、的中したって事でしょうね」
ランダルの声に悲壮感が滲み、ゲーツとディンジーはおやっと王を見た。
「テルポシエ王族は、よく知っていたはずの巨人とその扱い方を、完全に忘れてしまったんですよ。この『テアルの巻』は、巨人の取扱説明書みたいなものじゃないですか? その存在すらうろ覚えになって、エリン姫がわざわざ確かめに来たということは……」
王は渋い顔をする。
「わからない部分は多いけれど、幾つか確信できることがあります。まず、巨人を呼んだのはテルポシエ王統最後の継承者、エリン姫だと私は思います。そうして彼女もエノ首領メインも、恐らく赤い巨人を制御できていない。だからこそエリン姫はガーティンローへ、写本の中へ、その方法を探しに来たのだと思います。ゲーツ君、巨人は赤いままで丘の中に消えたんだったよね?」
「……はい」
「……。じゃあやはり、彼女も必死なのだろうね。巨人を制御して、再封印する方法を探しているんでしょう」
「ちょっと待って? 話通りに行くとさ、間違ったやつが呼んだ場合に、巨人は赤くって凶暴になるんでしょ? そいじゃエリン姫は、どこか間違ってるってわけ?」
ふぐっ、と声をたてずにランダルは喉を詰まらせる。
――先生、あの、それひょっとしてグランに関係してくる例の話じゃ??
「あ、それもそうですね。じゃあエリン姫じゃなくて、メインが呼んだのかな」
隠居しているとは言え、王様業の長さにも年季の入ったランダルである。事情を知らないディンジーのてまえ、このくらいはしれっと切り抜けてみせた。
「その場合、メインが死なないと巨人は善くならないし、再封印もできないね。……つうか、エノ首領って今なにしてんの? 死んだって聞かないから、生きてんだよね? 生きてるんなら、どうして赤い巨人のやつ、おとなしくしてるのかな」
「署名入りの親書は来るから、生きていると思いますよ」
ふう、とマグ・イーレ王は溜息をつく。蜜蝋手燭の炎がゆらっとした。
「取扱説明書を読んだくらいじゃ対応できない、不測の事態に陥っているのかもしれませんね。テルポシエにいるエノ軍は」




