157 空虚六年目10:『テアルの巻』
モティが初めて菜っ葉の漬物を作れるようになった辺りまで、ディンジーの思い出話が延々と続いていたところで、商談室の扉ががたっと開いた。
入って来たランダルの顔が、真っ赤になっている。
「パンダルさん。どうだったい?」
「……どうもこうも、とんでもないですよ」
ランダルの声が緊張している。
「私一人では足りません。ほんとに、あなた方にも同席してもらいたいのですけど……」
後ろの手代を振り返った。こっちの顔は真っ青だ。
「おおかたの事情は伺いました。……イリー世界の平和のため、僕は責任を取って辞職届を出します。どうぞ皆さん、入って下さい!店主に見咎められないように」
「……ゲール君、さすがにそれはいけないよッ! 君には奥さんもいるのだろう!? 作品の外で、破滅しちゃだめだッ」
「ちょっとー、皆さんそんなに深刻にならんと」
よ、とディンジーが立ち上がる。
「手代さん、ちょいと店主さんに話させて」
「ふあっ……? ディンジーさん、まさか店主を“声”でどうにかしちゃう気ですかッ!?」
「まさかぁ。お互い、商売の話すんのよ」
・ ・ ・
ランダルとディンジー、ゲーツの三人が手代立ち合いのもと同時に写本を見ることを、キノピーノ店主は最終的に了承した。
表立っては言えなかった蔵書中の害虫被害の悩みを、専門家ディンジーが一掃したからである。
店内と倉庫と、そこいら中の床にあふれ出た紙魚のたぐいの死骸を片付けるため、いったん閉店して丁稚たちが全力掃除を開始した。
「夜這い虫もちょっといましたよ。あいつら本の中にも入るから、気を付けて」
「何とお礼を申しましたら……」
店主もちりとりを手に、希少本の倉庫へ向かうようである。
「いえ、すてきな本を見せてもらえば、それで。でも次回ご予約時には、前金お願いしますね」
目元まで上げた藍布が、実に専門職らしい。世俗まみれの頼もしき賢者である。
「それでは、皆さん。こちらが問題の、『テアルの巻』です」
別の商談室、卓子の前にマグ・イーレ王と伝説の傭兵、声音の魔術師は狭苦しく肩をつめて座る。ゲールが手袋をはめて布包みから取り出した、羊皮紙写本の表紙の貴石が、ちらちらっと輝いた。
――高そうッ。俺の年俸、何年分かな?
「テルポシエ陥落直後の188年、キノピーノが落札したものです。参考までに、価格は――」
聞いてゲーツは気が遠くなった。定年後、彼が百年くらい働き続けても届かない額である。
さっと左右のおじさん二人に目をやれば、賢者も王も開けた口が縦長ひし形になっている。うぉう!
ぶんぶん、無理やり気を取り直したらしいランダルが、頭を軽く振った。
「では……、ゲール君、ゆっくり音読してください。私は速記で複写します。ディンジーさんとゲーツ君は、写本そのものをようく目で追いつつ、話を聞いてください」
革鞄から取り出した携帯用の硬筆と墨壺、筆記布を構えて、卓の脇側にいるランダルが言った。
「では、読みます」
明らかに緊張して、しかし興奮もしている様子でゲールが言った。
・ ・ ・
ランダルは全開にした耳からそのまま、物語を手元の筆に流し込む。古語の綴りもばっちり書ける王である。
ゲーツは無表情なその双眸で、じいいっと挿絵と装飾文字とを見つめ続けた。
ディンジーは目を閉じていた。ゲールが頁を繰るときだけ、ふわっと開けて風景を吸い取る。
「完」
しゅたっ、とランダルの硬筆がとまる。
「……かなり、むつかしい古語表現もありましたね。現代的に、すこし意訳してみますか?」
「お願いします、先生」
ゲーツが即答した。
・ ・ ・
「どう思いましたか?皆さん」
「すごい豪華よね。中身も、本そのものも。高値がつくの、俺でもわかる」
いつものひょうきん声で、ディンジーが言った。
「だから不思議なんだ。こんなに印象の強い本を、何でわざわざエリン姫は読み返しに来たのかね? もともとは自分ちの物だったんだから、それこそ細かい所まで憶えてるんじゃないかなあ。ほら、小さい頃に読み聞かせとかしてもらってる場合は、特に」
「あの、姫は……姫様は、いらした時にどの本なのかもわからなかったんです」
手代が口を添える。
「何となくのうろ憶えだったものを、改めて探して読むような?」
「ええ。熟読されていました」
「じゃあ、この本にはあんまりなじみがなかったんですね……」
「ね、手代さん。読んだ後、彼女はどんな感じだった?」
ディンジーが穏やかに問いかける。
「ええっと……? そうですね、いらしてすぐはやっぱり、少しどぎまぎしていた感がありました。でも僕にありました、ってしおりのかんざしを差し出した時は、どっしりして余裕を持って、……そうです、今思えばお姫様らしかったですよ。探していたものを見つけた、まさにしおりが見つかったからそうなんですけどね」
ゲールは思い出した風景に納得するかのように、うなづきながら言った。
「僕は何度も写本を読み返しましたから、しおりは彼女の持ち込んだものだって知ってました。けれどそのお芝居にも、自然に付き合わされちゃったな」
「この本の内容を、探していたんだね」
「……どこの部分でしょうね。彼女が知りたかったというのは…」
ランダルはディンジーと顔を見合わせた。後はうちうちで話そう、という視線の会話である。
「ゲーツ君は、何か引っかかるところあった?」
「……はい。巨人の絵が、実物と全然違います」
手代が息を呑んだ。
「じ、実物をご覧になったんですかッ!?」
「あ、ゲール君、彼はうちの軍の人なのでね……。巨人のこともね、口外したらだめよ?」
写本を深く読み込むため、自分の身分を含めて、先ほどランダルは手代にかなり突っ込んだ部分まで話したのである。
「うん。赤い巨人ってのは、話の最後の方に出てきただけだよね」
「……それで、この黒くてもじゃもじゃしてる、巨人の女の子なんですが」
「うん? ……女の子?」
ふぬうううう、笑いをこらえているらしいディンジーが問うた。
「ゲーツ君、……どのへんどう見て“女の子”?」
いつもと変わらぬ無表情顔が、賢者を見る。
「おっぱいが、あります」
「……いや、おっぱいなら我々にもついてるし……。ちょっと、微妙な表現じゃない? これ」
「あと、ここの所、下の方はおまたです」
娘を持つ父親らしく、ゲーツは幼児語を使って言った。
ぐぐぐぐっ、おじさん二人は写本に顔を寄せて、問題の箇所を注視する。
――ほんとうだ! 一体どこを見ているんだ、伝説の傭兵ッッ!!
「……顔もそこそこ、かわいいです。髭もないし」
「ひげ……」
「……男性の絵は皆、若い善い王子の方も含めて、髭があります。もし巨人が男性だったら、髭がついてるはずだと思います」
「本当だ……」
「ああ、言われてみると、冒頭に出てきた若い女性たちと、眼の描き方が共通していますね!」
手代ゲールも、新たなる発見に驚いた風である。
「……この巨人の女の子なんですが。どこか別の場所でも見た気がするんです。思い出したら、先生に言います」
「うん。ぜひ、そうしてちょうだい」
手代は写本を丁寧に包み直した。立ち上がった三人に、不安そうな顔を向ける。
「パンダル先生。あの方、姫様はどうなるんでしょうか」
ランダルの身分を知ってもなお、彼にとっては長年尊敬してきた“パンダル先生”と言う方が大きいらしい。
「……どうなるんでしょうね。救出してイリー側に保護する機会はあったようだけど、彼女自身がエノ下のテルポシエを離れないとがんばっているようですから。何とも」
「僕はテルポシエ出身です。向こうにまだ親族もおりますが、一級騎士たちがあんまり幅を利かせていた、旧体制には大反対でした。こちらに来て後悔はしてません、……けど」
疲れた顔の中で、ひたむきな双眸が輝いている。自分の熱情に正直な人が灯す、あの輝き。
「彼女は、本を真摯に読んでくれる人だと思うんです。そういう人が踏みにじられるように生きてるかと思うと、つらいんです」
「……わかりますよ。私も長い間、開けて出られない扉を叩いてばかりいた一人ですから。……そういう時、先人の遺した書物が、どれだけあたたかく寄り添ってくれたことか……。本は、私たちの闇の中でまたたく、優しい星明りです」
疲れ顔の若い手代は、ふうっと笑う。
「パンダル先生を、僕はずっと信じてきました」
ランダルの左手を、ゲールの両手が包む。
「これからも、です」




