148 空虚六年目1:母ディアドレイ女王
「誕生日の朝、寝床にいるお母さんに花束をあげてびっくり起こすのが、流行ってるんだと。俺らもやってみようぜ、エリンちゃん」
一体どこから聞きつけて来るのか、兄はその頃色々な“流行り”を自分たちの中に持ち込んで来ていた。
エリンの長い髪を妙ちきりんな形に結んでみたり、全然おちのわからない歌をうたったり、晩ごはんのぱんにつけるから熊にんにくちょうだい、とばあやに頼んだりしていた。
でもそれは、あくまで二人だけの間のことだ。
他の人……母や父や侍従、近衛の騎士や教師たちの前ではそれまで通りの兄だったし、喋り方だって変わらない。
だからエリンは、“流行り”と言うのはつまり二人の秘密なのだと、そんな風に思っていた。
「……そんなことしたら、まず母さまにばれちゃうじゃないの。流行りのことをしてるって」
エリンとウルリヒの母は、“流行り”が好きではないらしい。
そういうものからなるべく兄妹を遠ざけようとしていることは、八歳のエリンにも何となくわかっていた。侍女らに言い付ける言葉の端はしに、母が“流行り”を忌み嫌う言い訳がつく。
いっときのものだから。ごちゃついているから。身のないものだから。
――では、どういうものなら身があるのですか?
少し前に問うた時の答えは、こうだった。
――いつまでも変わらずにあり続けるものです。すぐに変わってしまう流行は、我々には関係のないものなのです。
「ふっふっふ、流行だって言わなきゃいい。俺とエリンちゃんとで、すぱーと母さまを起こして、どさっと花束をあげておめでとう、そんでまたすぱーと逃げちまおう。誕生日に贈り物をもらって、文句つける人間なんざいないだろうがよ」
四日後が、彼らの母の誕生日なのである。
「それに、ミルドレが花束の準備を手伝ってくれるって言ってんだ。もちろん秘密で」
「ほんと!」
それで、エリンの気持ちはがらっと変わる。近衛騎士の中で唯一、ゆったりのほほんとしているあのおじさんが“一枚かんで”くれるのなら、母だって多少のことには目をつぶると思えた。
「それならわたしも一緒にやる」
「ようしッ」
計算高い妹を仲間に引き入れて、兄は嬉しそうだった。
「姫様、お床があったまりましたよ」
湯たんぽ準備を終えたばあやが呼びに来る、エリンは隣の自室へ戻る。
「お休み、お兄ちゃん」
「また明日なぁ、エリンちゃん」
・ ・ ・ ・ ・
作戦実行の朝、エリンはものすごく早く起きてしまった。
起こしに来るはずの兄を逆に起こしに行って、「ふがあ、何だよッ」怒られる。
「ミルドレおじさまがお花持って来る前に、早く着替えて用意してよっ」
絹の布団の繭の中に埋もれたウルリヒを、ゆさゆさ揺さぶった。
「ぬおお、そうだったぁぁぁ」
兄はようやく羽化した。いつだって一歩おそい兄である。
やがてやって来た騎士は、兄妹がぶったまげる程の巨大な花束を抱えていた。
「お早うございまーす。準備いいですかぁ?」
「……」
「おじさま。どうやって、こんなにたくさん……!」
ぼうっとして、エリンは言った。ばら、ばら、ばら、ばら。
ばらだからばら色としか形容できない、たくさんの赤いばら。
「ふふふ、ミルドレの魔法ですよ」
単に、朝の早い年配者の特性を活かして、朝市で仕入れて来ただけであるが、老騎士はちゃめっ気たっぷりに言った。
ウルリヒとエリン、ふたりは両腕いっぱいに花を抱える。
「とげは取ってあるけど、でも気を付けてくださいね。さあ王子様お姫様、行っきましょう」
そうして目指す母の寝室。
もう一人、ミルドレを通して計画に引き込んでおいた母付きの侍女が、扉を押さえてうすく開けてくれている。
ミルドレが片腕をぐるぐる回して、“行け行け”の合図をする。
そこで、二人は母の寝室へと走り込んだ。すでに鎧戸が開けられて、からりと明るい室内、天蓋付きの寝台に母が腰掛けていた。
「母さま、お誕生日ー!」
「おめでとうーッッ」
エリンは両腕いっぱいの花を、母の胸あたりに差し出した。
次の瞬間、母の頭上にどばっと花が降る、
「うがあッッ」
母の手前ですべって転んだ兄が、文字通り花をぶっ放してしまったのである。
――お兄ちゃん、まぬけーッッ。
エリンはぎょえっと立ち尽くす、これじゃすぱっと逃げられないじゃないのよう!
すぱっと身を起こしたのは母だった。
頭に肩にばらの花枝を引っかけ、片手にエリンの花束を持ち、もう片方ですっとウルリヒを引っ張り起こす。
「ありがとう、お花の雨だなんて」
そう言った母の低い声は――笑っている。
「一緒に拾い集めて、花瓶に飾って。ごはんを一緒に、いただきましょう」
ばらまみれの兄と妹は、目をまん丸くして顔を見合わせた。
母の部屋で母と朝食を食べるなんて、前代未聞のことである。
ましてや母は笑っていた、口角をほんのちょっとだけ上げて、うすく笑っているように見えた。
・ ・ ・ ・ ・
薄荷の香湯に牛乳、牛酪を塗った白ぱん。食べるものはいつもと同じなのに、全然違う味がした。
兄も、一言も口をきかない。母と食事をするのは昼の正餐だけ、中広間で広い卓子について食べる。
母はいつだって遥か彼方の卓の反対側、いま膝がくっつきそうな程の所にいるのが信じられなかった。
エリンが食べ終え、ウルリヒが食べ終えたが、母は侍女に何度も香湯を注がせる。
湯気の向こうに見える母の顔は、いつもと違っていた。普段は陶器みたいな頬が、あかくなっている。そこだけ花瓶のばらの花色に染まったみたいだと、エリンは思った。
「……今日はとても早いし、いい機会だから話しておきましょう」
すうっと低く放たれたその言葉は、独り言のように聞こえたが、やがて母はウルリヒとエリンを見る。
母が目で合図をすると、侍女は急須を配膳台に置いて、出て行った。
「ウルリヒ王子、エリン姫。これから女王は秘密を話します、他の方には絶対言ってはいけません。良いですか」
エリンもウルリヒもぎくりとした。……秘密?
「いやな秘密ではありません。でも、大事な秘密です。今は女王だけの秘密ですが、あなた達に教えれば、三人だけの秘密になります。秘密を守れますか、ウルリヒ王子?」
「はい」
兄はしゃきっと答えたが、顔は不安げである。
「エリン姫は?」
「はいっ」
エリンはお腹に力を込めて答えた。何だか今日は夢みたいに不思議な日だ、女王の母さまが自分達とこんな風に話をするなんて!
母、ディアドレイ女王はふんふんと小さくうなづいた。
「……まちの北門を出たところに、お山のような丘があるのを知っていますね」
「はい」
「はい」
「我々はそこを“東の丘”と呼んでいますが、本当の名は“シーロウの丘”と言います」
「シーロウ?」
「そう。赤い妖精、という意味です」
色々なことを聞き憶えるのが得意なエリンだけど、これは全然知らなかった。
「と言うのも、あの丘には赤い、強い妖精が住んでいるからです」
「……」
ウルリヒとエリンは、何も言えなくなって母を見つめた。冗談や、子どもだましの作り事を言う人でないことは、良く知っている。
「イリー始祖、アイリースとエイリィの話は二人とも良く知っているでしょう。そうして三百年前にテルポシエ市が出来た時、我々のご先祖はこの地で、強大な赤い妖精に出会いました。十人の理術士達がその妖精を、あの丘に封じ込めたのです」
――理術士!
エリンは無言のまま、息を止めかけた。とんでもない魔法のような力を持つティルムンの戦士達だ。大人の話を聞いていると、一人でも戦局を左右できるのだと言う。そんなすごい人達が十人がかりで封じた妖精だなんて……。どれだけ強かったのだろう?
「以来、その妖精はあの丘の中で、じっと眠っています。嵐が来ようと、何が起ころうと、はるか先の時代にテルポシエが滅びても、やっぱり知らんぷりで眠り続けるのです」
母の語りは淡々としていたけれど、最後の部分は幼いエリンに不吉な印象を与えた。
いつかテルポシエが滅びる日……、そんな日が来るのだろうか?
「ここからが、秘密の一番大切な所です。よく聞いてください」
母ディアドレイはぽってりとしたまぶたを、ゆっくり瞬きながら言った。
「……その大昔の理術士達は、封印を解くための方法を、テルポシエ初代王に伝えました」
――妖精を起こす方法が、あるんだ?
「我々テルポシエ王室の誰かが、あの丘のてっぺんに立って、ほんのちょっとだけの血を地面にたらして妖精を呼べば、それは目覚めます」
「本当に?」
ウルリヒがかすれ声で聞く。
「女王はやったことがありませんから、わかりません。今まで誰も試したことがないから、本当にそれで妖精が起きるかどうかは知りません」
そりゃそうだ、とエリンは内心で思う。
「あなたたちは頭の良い子だから、試しにやってみようなどと軽はずみはしないと、女王は信じています。面白半分で踏み入ってはいけない領域がたくさんあることを、わかっていますね。特に精霊たちは“丘の向こう”へ通じる存在です。近寄らないですますのが、一番です」
「はい」
「はい」
「……この秘密は、代々テルポシエ王室の長男と長女だけに伝えられてきました。女王もあなた方のおじい様から聞いて、今日まで誰にも話した事はありません」
「……お父さまは?」
思い切って、エリンは聞いてみた。
「お父さまは、王室に迎えられた方ですから、もちろんご存じありませんよ」
母は静かに、平らかに答えた。それでエリンはほっとする……。なぜなのか、良くわからなかったけれど。
「……ですから、ウルリヒ王子。あなたが将来、大きくなって即位し、お妃をもらって子どもを得る時が来るでしょう。そうして生まれた一番初めの男の子と、一番初めの女の子に、この秘密を伝えていって下さい」
ウルリヒはぐわっと目を丸く開けていた。途方もなく先の未来のことだ、十二歳の少年には想像もつかないような話だったのだろう。王になり、夫になり、親になる時のことなんて。
「あの、母さま。質問がいくつかあります」
教師に受ける授業用の話し方で、エリンは問うた。
「どうぞ」
「赤い妖精は、怖いものなのでしょうか?」
うなづいてから、母は答える。
「女王も、そこの所は疑問に思っておじい様に聞いてみましたが、答えは“わからない”でした。言い伝えの中には、ただ強大というだけで我々にとって善いものなのか、悪くて怖いものなのかは伝わっていないからです。ただ、精霊の中には怖いものも、親切なのも両方いますから、恐らくそれと同じ感じなのでしょう」
――善くも悪くもなる、ということなのだろうか。
「悪くて怖いものだから、封じ込めたのではないのですか?」
母は首を傾げた。
「そうですね、そういう見方もできます。でもその場合だと逆に、どうして理術士達は完全に妖精を滅してしまわず、安らかに眠らせるだけにしたのでしょうね。いいものだから眠らせた、と見ることもできますよ」
「あ、そうか……」
ウルリヒが呟いた。エリンもほんとだ、と思う。結局どちらなのかわからない妖精である。
「では母さま、最後の質問です」
「ええ」
「わたし達や、ずっと先の王室の誰かに、妖精を起こすべき時が来たとします。それはどういう時なのでしょうか?」
「……」
母は沈黙した。朝食を食べた時まで残っていたあの頬の赤みは失せて、いつもの陶器のような白さに戻っていた。
「……そんな日が来ないことを、願ってはいるけれど……。これ以上、何をどうしてもテルポシエの滅亡が避けられない、という時でしょうね。その場合、妖精が善い存在であれば、我々を助けてくれるでしょう」
「……」
「そして仮に悪しき存在であったとしても、どっちみち滅亡することに変わりはないのだから、損にはなりません」
最後のさいごに、変にエリンは納得した。
同時に、想像しにくいその不吉な事態が自分とはかけ離れたもの、遠い遠い未来の話であると直感した瞬間、“赤い妖精”がひどくつまらないもの、自分にとって関係のないがらくたのように感じられた。エリンは不安を忘れた。
「さあ……ではそろそろ、女王は仕事の準備をします」
母はゆっくり立ち上がった。ウルリヒとエリンも、それに倣う。
「あなた方も、お勉強が始まります。また正餐で会いましょう」
扉に手をかけた母は、でもほんのちょっとだけ、また頬を赤くした。
「……お花を、ありがとう。わたしは嬉しいです」
・・・
・・・
「……」
また、昔の夢をみた。
少しかび臭い寝床の中で、今日もあまりに早く目覚めてしまって、エリンは過去を思う。
あの日、あの朝の母――……。 母がずうっとあの日のままなら、現在は別の世界があったのじゃないか、とさえ思う。
ばらの色に頬を染めた母、ウルリヒを引っぱり起こした素早い母、膝がくっつきそうに近かった母。
あの日の母だけを、エリンは今も“いいと思っている”。
けれど残りの日々年月の母はきらいだ。
肩書だけの女王の称号、老いた一級騎士どもに操られるだけの生きる人形。
さらに無能な、臭い父と離れられない母。
そうやって、反抗期にあったエリンがありったけの反発感を胸に抱いていた時に、父を追って丘の向こうへ行ってしまった母。
自分と兄と国とを置き去りにした女王を、エリンは今でも軽蔑し憎みすらする。
……そういう思いをぶつけて、はね返してもらいたかったという願望だけが、ずうっとエリンの中にわだかまっている。




