145 空虚五年目1:夏の朝の道行き
イリー暦195年。 五年目の空虚の話である。
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小雨が上がって、さらっと湿気をはらんだ風の通る、明るい朝である。
今日もエリンは驢馬の背に荷物をたくさん積んで、てくてく北門から市外へ出た。
道の向こうに、湿地帯が草色にけぶって見える。
夏も夏、明月ともなればテルポシエのまわりは、どこまでも輝くみどり色に囲まれる。テルポシエ騎士達の外套の色。
その緑の騎士達は、もうここにはいないけれど。
「さわやかな夏の朝だ、ぐふふ」
「すばらしき俺達にふさわしい、ぬふふ」
エリンの左右から、おぞましい声が湧き上がる。
「しかも、お姫と道行きときたものだ。うひひ」
「これも役得だぞ。むひひ」
「どうもありがとう、二人とも。お休みなのに、付き合っていただいて……」
「ばか言うな。一人で行かせられるかい」
驢馬の縄を引く、ずんぐりノワが言った。
「ケリーの奴がいないんじゃ、近場ったって危ねえぞ」
だいぶ上から、のっぽのウレフも言う。
いつも通りに、丘の上のメインに食べ物その他を届けるところである。
珍しくケリーがお腹を壊して寝付いてしまったため、一人で行くとパスクアに言ったら、この先行おじさん二人を護衛に貸してくれたのだ。
見かけや笑い方こそおぞましいが、中身はやさしい中年古参兵二人組である。
「お二人の覆面布、傷んできていない? また新しいのを編むわよ」
「ぐふふ、まだまだぬくいぞ」
「俺らよりも、メインに分厚い腹巻を編んでやれ」
「パスクアの坊主にも、冬用に帽子を編んでやれ。いきがっているが、だいぶん薄ら寒い頭になってきたぞ、あいつも」
墓所の前を通り過ぎる。静かだ。
「帽子よりも、早く嫁になってやれ」
「やだわ、またその話」
「ちゅうか、せめて同じ部屋に住んでやれ」
「だめなのよ」
「どうしてなのよ?」
優雅な宮廷的抑揚の正イリー語で、ウレフが言った。相手に語調を合わせるのは、工作員の一つの技なんだそうだ。
ぷっ、と噴き出した後で、エリンはウレフの顔を笑って見上げる。
「パスクアから聞いていない? あの人の部屋、わたしの母が使っていたの」
「そうなんかい」
「知らんかったぞ」
「父も母も、そこで死んだものだから。ちょっとね……」
「うげッッ! 坊主のやつ、事故物件に住んどったのかッ」
ぎょろ眼をぐわああと見開き、唇内側をでろりとむき出すようにして、ノワが顔を引きつらせた。
こっちの方がよっぽど悪夢みたいに怖い、精霊だってわーんと泣いて逃げ出しそうだ。
「パスクアの後退が激しいのも、お姫の両親にやっかまれているからだろうか」
心もち、頭頂のとさか髪を震わせるようにして、ウレフもまじめに言う。
「あ、そう言うのはないと思うのよ。父も母も、わたしにそこまで執着や関心はなかったはずだから」
「?」
「??」
おじさん二人はどちらも、首を傾げた。
――わたしもなのだけれど、ね。
心の中で言って、エリンは古びた千草色の綿布を羽織った肩を、ちょっとすくめた。
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エリンは、母が嫌いだった。
流行りの歌を口ずさんだり、ことば遊びをすることは、母に厳しく禁じられていた。城内で働く者は平民も多かったから、それらに接する機会はたくさんあったのだけれど。
街なかの女の子が着ているようなかわいい服も、もちろん着せてはもらえなかった。もっともエリンはあまり着飾る好みがない。それよりも作る方が好きだったから、箪笥の中は集めた手芸材料がいっぱいで、服はそんなに持っていなかった。
母に遊んでもらった記憶は全くなくて、一番長く一緒にいたのは兄ウルリヒである。顔を合わせるのは正午の正餐だけ、何を話しても母は笑うことのない人だった。
大きな翠の瞳はいつも伏せがち、とろんと眠気のあるような印象が強い。侍女や教師たちによれば、集中してじっと考え事をしている時のエリンも、そういう顔になっていたんだそうだ。そしてまっすぐの白金髪、自分に似た所の多かったのは認めるけれど、本当にそれだけだった。
つまらない、のである。
その点、兄は本当に面白かった。
いつの頃からだろう、ウルリヒがあんな下町調で喋るようになったのは? 二人だけでいる時には、エリンにもついその口調がうつってしまうこともあった。
――目ん玉腐ってんじゃないわよ、だなんて、ね……。
エノに叩き送ったあの罵倒も、確かその辺で覚えた気がする。
しかし、つまらない母はさほど害はなかった。本当に嫌だったのは父だ。
いつも笑っていたけれど、近くに行けばむっと臭う。
それが酒臭であるとわかったのは後だけど、幼い頃から膝に抱かれるのも、手を繋ぐのも嫌で、そういう時は決まって母を盾にした。父は母と常に一緒なのだった。
「仕方のない子だなあ!」
変に大きく響く声で朗らかにそう言って、逃げるエリンに笑いかける父、そういう時だけ母は側で笑っていたっけ。
あまりにぎこちない、哀しみのつまったつくり笑顔。これは嘘です、と言わんばかりのえがお。
やがて父は朝見を欠席しがちになり、正餐の場でも会う事が少なくなる。
「お父さまは少し、お体がわるいのです」
抑揚なく、母は繰り返した。
時々見かける姿はぼんやりと前を見つめる猫背の姿勢、父は一挙におじいさんになっていったようだった。
ある日、正餐に遅れてやってきた父は、妙な態度を取った。
侍従や母に促されてもなかなか座らない。ふらふらとした足取りで、食べるのを中断していた十一歳のエリンの真横に立った。
丸すぎる穴のような瞳で、じっと見下ろしながら呟いた。
「どこへ行ってたんだい、妹ちゃん。かわいい人」
本人は呟いたつもりなのだろうが、静まり返ったその場にいた全員が、それをはっきり聞いた。
がたり、と席を立った者がいる……たまたまその日居合わせた、アリエ老侯だった。
ミルドレはさっと父の脇に沿うと、力強くその肩と腕とを掴み、抱え引きずるようにして、中広間の出口へと連れ出して行った。
エリンは動けず、声も出せなかった。
視線だけをかろうじてさまよわせると、母がいつもと変わらない様子で、――しかし固まっていた。ゆっくりと唇が開く。
「お父さまは少し、お体がわるいのです」
匙を持ち上げている。
「さ、続きをいただいてください」
隣の兄を見た。青ざめた顔で、けれど恐怖と不安、いっぱいの生きた表情を湛えて、兄はエリンを見た。
長卓子の下、すがるように手を伸ばすと、それをぐっと握り返してくれた。そこに温かみがちゃんとあって、エリンは呼吸ができるようになる。
小さくうなづいてから、エリンは再び皿に向かい合った。
……あの後すぐに父が、そして母が死んだ。
エリンもウルリヒも、きょうだいは泣かなかった。




