143 空虚四年目20:マグ・イーレ帰宅
「おおおおお! ご覧なさい! あれぞ我が家、マグ・イーレの灯りですッッ」
市西方の塩田地帯をゆく頃に日は暮れる。
薄闇に浮かぶ明々としたマグ・イーレ市の輪郭を目指して、三人は最後の数愛里を進んだ。
「ああ、何てことでしょう! ついに帰ってこれましたよ! ただいまー!」
「……」
「お邪魔しまーす」
市門の前で下馬する。夕刻を過ぎて半開になった門を守る傭兵達は、はじめランダルがわからなかった。
「ああそうね、汚れちゃってるからねえ! ほら、篝火に寄って寄って」
「ぎょええええ、すんませーん陛下ッ、うおうゲーツさん!」
ディンジーの駅馬を業者に連れて行ってもらい、黒たてがみと灰色ぶちの手綱を引き引き、城への道をのぼる。
「あー疲れた、もう私よれよれのくたくた。ディンジーさん、とりあえず今日はうちに泊まってね」
「うん! よろしく」
城門の傭兵たちはさらっと三人を出迎えた、「世話やっときますよ」馬たちを厩舎に引いていってくれて、一人が本城へと連絡に走る。
マグ・イーレ城! 重い扉がぐらりと開いて、あたたかい玄関の光が男たちを包む!!
「お帰りなさーい」
「ただい……」
ま、と言いかけたランダルとゲーツの口が固まった。
大きなニアヴ正妃と小さなグラーニャ妃が、ぐっと肩幅に開いた両足を踏みしめて立ち、権威ぷんぷんに腕組みをして、ずどーんと怒った怖い顔でそこに待ち構えていたのである。
「お疲れのところを申し訳ないのですが、こちらへ」
半ば二人にしょっぴかれるようにして、ランダルとゲーツは執務室へ連れて行かれる。
ゲーツは怖々後ろを振り返る、……ディンジーは気配を消してこっそりついてきているようだ。
大きな執務机の後ろへ回り込むと、さすがに王の前で座りはしなかったものの、ニアヴはずいずいっ、といくつかの書類束を机上に広げた。
「今回の旅費は、後から整理して請求というお話でしたが」
事務的なのに、ものすごくどすが利いている!
「立て替えてそのまま、ご自腹で済ますおつもりでしたでしょう、陛下ッッ」
ランダルが息を飲む音が、すぐ後ろのゲーツにも聞こえた。
「この、前例のようにッッ」
ニアヴは机上の書類束を示す。
「これまでの領内外出についてはまあ、それも有りかと見過ごして参りました。ですが今回は、ゲーツさんをひと廻りも貸切っての大型費用です! しかもお便りをよこさないとは、もしやマグ・イーレ領を遥かに越えた国外までおいでになったということですかッ? そんな大それた旅行全費を、陛下お一人のお小遣いでまかなえるとお思いですかッッ」
「え、いや、内職してるから大丈夫ですって」
「大丈夫じゃありません。今すぐこの場で、全ての支払い控えをご提出なさいましッ」
背負った革鞄ごと、ランダルが大いにうろたえているのが、よくわかった。
――何だよ先生、俺の日当出すつもりだったの?
「いや~、今回は控えを全然もらってなくって……」
「それに、何て恰好をしてらっしゃるんです? ぼろぼろのずたずたで、まさか野宿なすったのですか!」
「あー、これは森で山犬どもに……」
「陛下ッッ」
ニアヴの青い瞳がぎゅーんと光って、ランダルはびくんとした。
「隠居中の御身とはいえ、陛下はマグ・イーレの元首なのですよッ? そんな方が費用に追われてみみっちく倹約を追求し、そのせいでご健康を損なったり、お命を危険にさらすなど論外です!! こういう時のための王室安全対策費というのがちゃんとあるのです、ぎっちりみっちり使っていただきますからね!? 次回からは護衛隊をつけて交代制、設備の整った宿泊施設を確保してからお出かけ下さいッッ」
「……」
「お便りすら全くなし、皆でどれだけ心配したのか、ご想像なさらなかったのですか!」
ランダルは顔を上げた。グラーニャの方を見たらしい。
「ちなみにミーガン様はただいま、双子のお風呂の時間です」
いつも通りの麻布短衣に股引、すっきりきりっと男装姿のグラーニャが涼しく伝えた。
ランダルはちょっと小首を傾げる。
「陛下に今なにかあっては、皆が困るのですッ。そこの所、よくお考えくださいッ」
再びニアヴがびしびし言う。言い方は厳しいが、言っている中身はごく普通のことだとゲーツは気付いた。
――つまり、心配してたのだ。
「あの、ニアヴさん」
しっかりした声で、ランダルが言った。
後ろのゲーツも、それでぴくんと来た。ニアヴはじっと、ランダルを見ている。
「本当に、ごめんなさい」
王は真っすぐに、言った。
「あなたの言う通り、私は皆に心配をかけました。そして、私に代わりマグ・イーレを切り盛りしてくれているあなたにも、とてつもない迷惑をかけてしまった。私は、ものすごく反省しています。たぶん死ぬまで、後悔します」
ふっ、とニアヴの怒気が変化したように感じられた。
「ですから今後はあなたと、皆の言ってくれることをよく受け止めて、以前のような過ちを繰り返さないよう、……そして皆の役に立つことを私なりによく考えて、生きてゆくつもりです。あなたに、本当に申し訳ないことをしました。……ごめんなさい、ニアヴさん」
ランダルは頭を下げた。ゲーツもそれに倣う。
沈黙があった。石床を見ながらゲーツは思う、先生はあのことを謝っている。
だから自分も付き合って、頭を下げているのだ。どうかニアヴ妃に、ランダルの真心が伝わって欲しいと願った。留守中心配してくれたのなら、わかってくれるのじゃないだろうか?
「んもう」
母親の声でニアヴが言った。
「これ以上冷や冷やさせられたら、わたしの頭は破裂してしまいますよ」
――いーや!? 既にけっこう、爆発していらっしゃる!!
その場にいたほぼ全員が、内心で同じ突込みを入れた。明るい鳶色のニアヴの頭髪は、だいぶぺしゃって来たとはいえ、当代随一の分量を誇る圧倒的もこもこなのである!
「十分反省してご理解いただけたのなら、結構ですよ。お顔を上げて下さい、……あなたもよ。ゲーツさん」
あなたもよ、の中に重い含みがありありと感じられて、それでゲーツは自分の分の過去も許されていることを知った。
「……では、だいたいの額でよろしいので、後で経費報告書を出して下さいましね」
さばさばした口調で、ニアヴは机上を片付けた。
「はい」
「僕が、いただきに参ります」
書類をニアヴから受け取るポーム若侯が、柔らかい笑顔で言う。
「全く。安宿に泊まって、はやりの何とか虫なんて持って来られたら大変ですよ」
「あ、それはね……」
言いかけたランダルの右肩に、すっと大きな手のひらがのった。
「東からのエノ軍侵略については、どうだか知りませんが」
すんばらしい男前の低い声が、突如として執務室を席巻する。
「西からの侵略者、夜這い虫については俺が完全阻止して、マグ・イーレを守護しましょう! どうかご安心下さい、輝ける御方」
ニアヴ、グラーニャ、ポーム若侯、控えめに後ろで見守っていたウセル老侯、キルス老侯とギティン夫人、全員がぽかんとして、煙のように出現したのっぽの山羊毛皮おじさんを見た。
ランダルとゲーツは内心で彼に問う。
――ディンジーさん、声変わってない? 何でそんなにかっこいいの?
「ええと、気が付きませんで……」
怪訝そうにニアヴが話しかけた。
気が付かないってそりゃそうだ、相手は魔術師、気配を消したり現わしたりなんて簡単である。
「どちら様でしょうか? ……陛下がお連れになった方?」
「ええ、」
「そう! ランダル王陛下の、今回の旅のお土産であります!」
答えかけたランダルを遮って、森の賢者の喉から、歌うように言葉が連なり出る。
ぶち子がいたら機嫌良くなりそうだな、とゲーツは思った。
「“赤い巨人”対策の特別顧問、ディンジー・ダフィルと申します。どうぞよろしく、輝ける御方!!」
魔術師のおじさんは、藍色布を下げてあらわになっている大きな口をぐうっとそらして、笑った。
・ ・ ・ ・ ・
「それではゲーツさん、グラーニャ様の護衛交代よ。後はよろしくね」
「さあギティン、帰りましょう。アリスもうちでごはん食べませんか」
「ありがとうフラン。でも今日は家人が帰って来てるからね、遠慮するよ」
ランダルはディンジーを連れて離れへ、ポーム若侯とニアヴはオーレイの医務室へ、ばたばた皆が執務室を出てゆく、グラーニャがゲーツの腕をがしぃっと掴んだ。
「お前には話がある」
ランダルをとっちめるため、ニアヴと一緒になって怒っていたのだと思いきや、グラーニャは不機嫌まる出しの三白眼でゲーツを見上げていた。
眉間のしわが額に続いて壮絶な亀裂を作っている、……どうしたことか。老けて見えるから、普段は絶対にやらない表情なのに!
ぱたん、グラーニャの居室に入って扉を閉める。
この七日間、ゲーツが何度も何度も何度も、要約何百回と想像した待望の瞬間である。それなのに。
「これを見ろ。そして俺に説明しろ、誰なんだ」
白き牝獅子の権威と闘気そのまんま、卓子の脇に立ってグラーニャはその上を示した。
燭台に照らされて白く光るもの、……小さな布のかたまり、アメナから出した文が麻紐の簡易封を解かれないまま、そこにぽつんと置かれていた。
「……あ、それ、俺の」
「そうだ。お前宛ての文だ。二日前に届いた、誰からだ?」
――そうか、先生に言われるまま練習して書いたやつだから、宛名は俺なんだ。けどまあ見ればわかって開けるよね、って二人で言って出したんだけど……開けてないの?
「……俺が書いた」
「嘘をつけ。お前の字は、かたまって冬眠しているだんご虫のような、読みにくいまるまる字ではないか。こんな羽化したようなうつくしい字ではない、どこの女性だ」
――え?
「どこからどう見ても、うつくしい女性の筆致だ。どこの方で、お前とどういう関係なのだ? 今ここで吐くしかないぞ、ゲーツ・ルボ」
ゲーツの全身を衝撃が走り抜けた。今この瞬間なら、イリョス山犬に喰いつかれたとしても彼は何も感じず、ひたすら立ち尽くしていたに違いない。
何という祝福の洪水!
グラーニャが嫉妬している!!
ゲーツじゃない、グラーニャが嫉妬しているのだ!!
「こら、何故泣くのだッッ」
――当ったり前じゃん……。
苦節十数年。オーリフ王に、ランダル王に、その後の歴代彼氏に、不毛と知りつつたゆまぬ嫉妬の炎を焦がして来た自分が、ようやく嫉妬される側になったのである。
勘違いとは言えど、嫉妬は嫉妬だ。嫉妬するからには、グラーニャは自分がいいに決まっている。
――黒羽の女神さま、時神さま、先生、ありがとうぅぅぅッ。
「こりゃ、放さんか!? と言うかお前どろどろ汚いッ、……ぐああ汗臭いし! ひげも痛い! つぶれるではないか、うわああああ」
感極まってグラーニャをぎゅう抱きするゲーツのすぐ足元で、城ねこ・こうしが鼻から溜息をついた。そろそろ、こま切れのあらが欲しいのである。
「ぶにーん」 (※意訳:あほじゃないの、相変わらず)




