142 空虚四年目19:国境越え
「福ある一日を」
声がかかる、背後の騎馬の歩みが緩められてゆく。やがて止まった。
背負ったランダルごとゲーツは振り向いて、その騎り手たちをじっと見つめてから返事をする。
「……福ある一日を」
「どうされました。お連れ様が、お怪我を?」
「……ええ」
「どうぞ、ご同乗くださいまし」
その女は、……女に思えた。背の高い、年増の女だ。きれいな鼠色の外套を着て、頭巾を深く被っている。彼女はするりと馬を降りた。
ゲーツはもう一人の騎り手の方に、さりげなく視線を走らせた。馬上の男の顔半分も、やはり頭巾の陰だ。意図的に髪や目線を隠しているのだろうか? そうでもなさそうだ。
古びた褐色外套の裾からは、短槍の端が見える。風雨にさらされたような肌のこの中年男は、どうにも女に頭が上がらない、そういう気配を持っている。
つまりはちょっといい所の農家の奥さん、その護衛についてきた田舎傭兵、というていだ。
「わたくしども、リプケの町まで参りますけど」
マグ・イーレ領を少し入った土地の名を、女は言う。
言いつつ女は、手綱をゲーツに差し向ける。ゲーツはランダルを背から下ろし、先にその白馬に乗せた。馬はどちらも、裸馬である。
「わたくしは、連れに乗せてもらいますから」
に、と笑う目尻にしわが寄る。
ゲーツはランダルの前に座る、女は男の後ろにするりと飛び乗った。
「参りましょう」
速足である。ランダルはぐったりしているようだが、右手でゲーツの腹、左手で彼の背の長剣につかまって、そのつかまる力は安定していた。
「……先生、大丈夫ですか」
「君こそ」
さらり、小雨が顔に降りかかる。ゲーツは上衣の頭巾をかぶって、前を見る。進むべき方向を見る。
少しだけ前をゆく男女の騎のずっと向こう、灰色の空の下にマグ・イーレの青い丘陵が重なっている。
じきにそこに、虹がかかる。
「……あっ、あそこ。左!」
ランダルが小声で言った。
「ディンジーさんだ!」
妙な形の頭巾をかぶったのっぽ男性が、道端で手を振っている。“マグ・イーレ領”と書かれた白板のすぐ近くで。
「あちらも、お連れさまですか?」
女が聞いてよこした。
「はい。ここまでで、結構です」
少し元気になったランダルが、叫び返す。
そこで二騎は立ち止まる、ゲーツとランダルはすぐさま降りて、やはり降りた女に手綱を返した。
「……ありがとうございました」
「本当に、助かりました」
女は笑って、馬上の人となる。
「お気をつけて、お帰り下さいまし」
「そちら様も、よいご道中を」
ランダルが手を振る、あっという間に男女は行ってしまった。
それを見送ってから、ディンジーが口を開いた。
「良かったよ、二人とも無事で」
「ディンジーさんも。……おお、ぶち子やー」
ディンジーのすぐ後ろにいた灰色ぶちが、ランダルに鼻づらを寄せて来た。
「やっぱり俺らのこと、殺る気満々で待ち構えていたよ。やっこさんたち」
ディンジーはひゅうううういっ、と口笛を吹いた。
「おら、お前らも、もう行くぞう」
少し遠くで草を食んでいた駅馬と黒たてがみとが、やってくる。黒馬はまたあんたかよ、と言う目でゲーツを見た。
ちなみに十数年前、街道での刺客襲撃をともに戦った黒たてがみの子、黒たてがみ二世である。
「あそこを全速力で抜けようとしたら、俺らは無事だったとしても、こいつらに傷がついちまっただろうからなあ。ほんと、二手に分かれて正解だったね」
そうして歩き始めてから、ランダルは別れて後の経緯をディンジーに語る。
「げえ、イリョス山犬? 俺あいつらめっちゃ嫌い」
「好きな人なんていないでしょう」
「いないけど、あいつらが山奥にいないと困ることもあるから、完全駆除はしちゃだめなの」
「はあ……」
それにしても気になるのは、やり過ごした刺客集団である。
「いい馬三頭連れたおっさん一人を襲わないんだから、もちろん山賊じゃないよね。明らかにあなた方二人狙いってことは、やっぱりパンダルさんが考えた通りにエノ側でないの?」
「けど、それもおかしいじゃないですか。どうしてフィングラスなんて変なところで、私なんかを殺すんです?」
「他に誰か、心当たりあるの? 恨まれてるとか」
「……」
「あと、あなた方がこっち来てるって知ってる人は?」
「いえ。家内のミーガンにだって、言ってないのです」
実は、マグ・イーレの者には行き先を告げずに出て来たランダルなのであった。
「旅先から、便りとか出さなかったの?」
ゲーツとランダル、ほぼ同時に心中ぐさっとしたものを感じる!
「あ、ああああ」
「……まさか」
アメナの素敵な宿から出した文が、マグ・イーレにとっくに着いているはずである。グラーニャの手元に。
「第二妃が知ったはずですから……、第一妃も知ってるでしょう。我々がアメナに滞在してたことを」
「そこから帰るには確実にリアーを通るから、待ち伏せだって計画できるね」
ディンジーのひょうきん声が、ランダルの耳には冷酷極まる死刑宣告に聞こえた。
「そんなぁ……、まさかあの人が。御方ニアヴは私なんかと違って正々堂々した人です、十年以上前の意趣返しなんてするわけがないッ。御方グラーニャだって……」
「意趣返し?」
ディンジーは不思議そうな顔をした。
かなり動揺していたけれど、ゲーツもランダルと同じ考えだった。グラーニャがランダルを潰すなど、あんまり突飛すぎる。昔はどうだか知らないけれど、今は双子のこともあるし、見た所全て水に流しているように思えた。それにあの女が、自分をも危険にさらすだろうか、……。
――まさかね、まさか、まさか、……まさかなあ……、
この恐怖感、不安がどうしても完全に払拭できないゆえに、男は女に執着するのかもしれない。
――実は嫌われちゃってて、グランに切り捨てられてたらどうしよう? 本当どうしよう?
「でもさーあ、ちょっと俺、気になったとこあるんだけど」
「何でしょう」
「襲うつもりだったのに、何で後から助けてくれたのかねえ?」
「……はあ?」
「だってほら、さっきあなた方乗っけて来てくれた男二人、リアーからつけてきたのと同一人物よ」
「ふあああっ!? そんなのわかるんですかッ」
「うん、蹄音の鳴らし方で、馬ども確定できた」
「すごッッ。……え、じゃあ何、あの奥さんは刺客の一人だったってことですかッ!?」
「面白い声帯だけど、生物上は男だったよ。すごいよね、見かけあれだけ女性なのにね」
「……」
言われてみればそうかも、と思いはするけれど、ゲーツも見抜けなかった。
「訛りで何か特定できないか、とも思ったんだけど。完全にフィングラス抑揚の正イリー語だったからなあ……出自まではわかんない。一緒にいた男は全然喋らなかったね」
「あ~~、……じゃあ……やっぱり、思い過ごしじゃなかったかも」
「どうしたの、パンダルさん」
「その男性、……ちらっと見えたんですよ。ほんとに、ちらっと。外套の裏側が、汚くくすんでいたけれど、草色っぽかったんです」
「……テルポシエ騎士ですか? 先生」
草色外套はテルポシエ一級騎士のお仕着せだ。
「……そうとしか、思えないよねえ……。都落ちして、こんな所で何してるんだろう?」
ゲーツとランダルは顔を見合わせた。
お互い肩をすくめてみせる、一体他に何が言えるだろう?
・ ・ ・ ・ ・
「本当に。一体何をしているんですか、皆さんは?」
ぐるっと迂回してフィングラスへの道を北上しながら、“女”は同行の騎士に問う。
非難する強い口調では決してなくて、静かにあきれ返っているだけである。
「ランダル王がお忍び旅行で遠出する、なんて細かい情報まで取れるのは大したものだと思いますよ。けれどこんな風に野盗じみた行為で人質に取ったって、その先どうなさるんです。瞬く間にマグ・イーレ軍に囲まれて潰されて終わり、芋づる式に各地の潜伏地点まで知られてしまうだろうとは、どなたも考えなかったのですか」
「一部の若いものが、早まってしまいました」
そういう男も、頭巾を上げればさほど年ではない。
「情報そのものに踊らされたのです、……厳重注意いたします。面目ない」
肩身狭そうに渋面を作る騎士の横顔をじろっと見て、“女”は内心で毒づいた。
――つうかあんたら、これ何年やってんのよ? どんだけ統制とれてないわけ? “第十三”の奴らが生き残るわけだわよ、あの子達の方がずうっと呼吸あってるもの。
「……港湾守備から、せっかく助かった皆さんの命なんです。こんな風にして欠けてしまったら、姫様は悔やんでも悔やみきれないでしょう。どうか慎重に、行動していただきたいものです」
「ええ」
「それと、あなたはご覧になったわけですが。ランダル王と一緒にいた、あの傭兵」
「はい?」
「あれが、シャノン・ニ・セクアナ若侯を殺害した、ゲーツ・ルボで間違いないでしょう」
「!! あなたの主君の、仇だったと言われるのか!? レイさん」
驚いて、騎士は“女”の顔を見つめた。彼女は前を向いたまま言った。
「何度も申しますが、主君ではありません」
――友達だわよッッ。
間諜レイは、そこで押し黙って前方遥か彼方、低い雲の合間にくすぶる、フィングラスとそしてキヴァンの青い山並みに目をやった。
自分の感情表現、さらには外見を操る事にかけては超一流の彼だけど、いなくなってしまった大切な友人を思うと、その心の奥底が決壊してしまいそうになる。
――シャノンちゃん、あんたの仇を討ちたいのはやまやまさ。 けれどあの男の技量じゃあ、あたしなんてさくっと返り討ちで丘の向こうへ即送り確定だからねえ……。何てったって、あんたを殺したやつなんだ、強くって当然だろ?
「ともかく、大ごとにならず幸いでした。折り返し東へ行きますので、すぐに報告書を作って下さい」
「はい」
――だからあたしは。あたしにしかできないやり方で、あいつらを……マグ・イーレをやっつけてやるのさ。時間と手間はかかるけど、見ていてごらん、いつの日か。あーあ、本当にあんたが恋しいよ。丘の向こう、そっちにも舞台はあるのかねえ……。




