141 空虚四年目18:イリョス山犬
待ち伏せの殺気をぎらぎら感じる辺りからずうっと手前、ゲーツとランダルはすうっと森の中へ入って行った、ちょうど用足しに行く感じに。
ディンジーは素早く黒たてがみと駅馬の鞍を外し、自分は灰色ぶちにまたがって藍の覆い布を引き下げ、再出発したのである。
馬たちは急にあんばいが変わって動揺する。それまでの騎り手を通して、この先にある“危険”だって何となく察知していた。
ゲーツと一緒に戦場まで行った黒たてがみは大丈夫だけれど、灰色ぶちは哀れに怯えた。
「大丈夫だよ、めんこいちゃん」
言ってディンジーは歌い始めた。
彼女はたちまち安堵する。そうして皆で、問題箇所をさっさと通り抜けたのだった。
・ ・ ・ ・ ・
「……大丈夫ですか、先生」
「へいき、平気」
一方のゲーツとランダルは森の中、敵意のこもった辺りをぐうっと東寄りに迂回して、国境手前辺りで街道に出、ディンジーに合流したいと考えている。
「駅馬の鞍代、弁償するのが痛いけどねえっ」
ほとんど夕方のような薄暗い森中を進むより、そっちの方がこたえているらしい。
――バネバ村の山道でも頑張ってたし、大丈夫かな……。
皆で作戦を急ごしらえした時の飲み込みも速かったし、王は文句も言わず黙々と距離を進めている。
テルポシエからの帰還時、エノの追跡に恐慌していた男とは別人のようなランダルだった。
「頑張りましょう、ゲーツ君」
囁き声ではあるが、ぐうんと力のこもる腹からの声で、ランダルはゲーツに言う。
「うちまで、あとちょっとです。何が何でも、一緒に生きて帰るんですよッ」
「……はい、先生」
後は押し黙って、ひたすら歩く。
――そうだ、うち。この人と、俺と、グランと、皆の……。
三愛里も歩いたろうか、さすがにランダルの足取りも鈍くなってきた。
そろそろ休まないと続かない、声をかけようとして、ふうっとゲーツの勘が警鐘を鳴らす。
「先生、けものが来ます」
「えっ!?」
――すぐそこまで来てる、二体。
ゲーツはもう長剣を抜いた。そうして探る、早足で進みながら敵の出どころを。
ざっ!!
出し抜けに、ランダルの右脇の樹上から何かが降りかかる、ゲーツはそいつめがけて一閃した。
きひゃあああ……!
甲高い叫びを上げて、それはふたつになった。何なのか見て確認している余裕がない、立ちすくんだランダルの背後にもう一体。
「先生ふせてっ」
がくうん、膝を折った王の真上、跳びすさって来たものをゲーツはどすんと切先で突き上げた。
かはっと唾液を吐いて息絶えたのは狼、……違う、イリョス山犬。
こいつらは斥候役だ。後から群れが来る、囲まれる前に街道へ戻るしかない。ランダルを引き立てるようにして、駆け出す。
「な、何なんだいこれ!? イリョス山犬だなんてッ」
「森に深く入り過ぎましたッ」
便宜上“山犬”と表現してはいるけれども、その大きさ以外に犬とは似ない生物である。暗い体毛に覆われたその身体は、どちらかと言えば尾を持った人だ。
原生林の深部に棲息する雑食性のけものであり、縄張り意識が強い。数十体の群れをなして、地上も樹上もお構いなしに走っては喰らいついてくる、ひょっとしたら精霊や盗賊よりもたちの悪い敵かもしれない。
「領界侵犯を謝ったって許してくれないんだから、どうしようもないなッッ」
ぜえはあ、ランダルの必死の速度ではいずれ追いつかれてしまう。喋らなくていいから走って欲しい。
「うわあああっっ」
いや余裕なんて全然なかった、三体のイリョス山犬達が二人に並走してくる、もう二体、三体……!!
左腕に飛び掛かってきたやつをぶんと裏拳でぶっ飛ばす、右の長剣でランダルの横にいる奴をぶさりとすくい切る、――だめだ、もう十数体も囲んできている!!
「あー、そうだッッ」
ぶん、ぎゃん、ぐん、きゃひん、ランダルまわりの奴らを切り飛ばすので忙しくなってきたゲーツに向かって、王が叫んだ。
「御方のくれた、護身用最終兵器を使う時が来たッッ」
――ええっ? まさかっ?
ランダルは股引かくしから何かを掴み出す、それを思いっ切り地面にぶっつけた。
ぶわあああああああん!!
特大級のほこりけむりが巻き立つ、ぎゃーん!! 山犬どもは吠えて後ろへ大きく跳びすさる。
「ゲーツ君、走るんだようっっ」
マグ・イーレ第二妃の多用する、一撃必殺ひみつ道具『クマホコリダケ』。
生乾き状態のこのきのこに強い圧をかけると、ものすごい勢いで内の胞子を排出するのだ! 爆発好きのグラーニャが、まさかランダルに手渡していたとは驚きである。
しょっぱいほこりを口に入れないよう、息を止めてゲーツは白っぽい煙の中を駆け出した。
そして二人は、一目散に走る、走る。
転びかけたランダルの腕をがっしりゲーツの手が支える、その時汗びっしょりのランダルの顔が輝いた!
「あの明るさはッ! 街道へ出られるんじゃない!?」
「はいっ」
森が薄くなり、林へとかわる、その向こうに白っぽく街道がひらけている!
ようやくその明るさに到達したランダルとゲーツは、しばらく無言のまま肩で荒く息をした。
しかし、ランダルがきっと顔を上げる。
「行こうッ」
二人は歩き出す、標識板が見えないか、視線を巡らせる。フィングラス方面からの、追手の蹄音が聞こえやしないだろうか?
「ああ、まだツレヌの村の前だ。ディンジーさんは、ずっと先で待っているに違いない」
二人とも汗と土埃にまみれて、散々のていである。ランダルがよろけた。
「……先生」
「……すまない、ね……」
両膝に手をあてている、額から落ちた汗の雫が地面にしみを作った。
――先生はもうだめだ。本当にここで休ませなきゃ、どうにかなってしまうぞ。
「……先生……」
声をかけた時、背後に気配があった。街道の彼方にぐっと視線を飛ばす、百歩も遠くだろうか、かたかたと常足で進んで来る二騎。
「……」
見つかった。リアーからついて来た二騎だろうか、待ち伏せた追手が騎乗してきたのか。あるいは全く何も知らない、善良な旅人ということもある。……殺気を感じないから。
「……先生、おぶさって」
長剣を前に回し、ランダルの前に背中向けに膝をつく。
「な……ゲーツ君!」
「はやく」




