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海の挽歌  作者: 門戸
精霊使い
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14 精霊使い3:湖

 ようやくエノ軍本陣まで戻ってみると、二手に分かれていたもう一方のアランとヴィヒルは、とっくのとうに帰営していると言われた。


 しかし、自分たちの天幕はもぬけの殻である。イオナはとりあえず、もらった手水ちょうずで汗と汚れを拭き落とし、革鎧から麻衣に着替える。いつもの場所へ行ってみると、果たして義姉の姿があった。


 エノ軍の陣営は頻繁に移動する。現在の拠点はやや内陸部よりで、山間の小さな湖が近かった。ヴィヒルとアランは、暇さえあればここに来ているのだ。



「帰ったよ、アラン」



 呼びかけると、湖岸の草上にちんまりと座っていたアランは、ぱっと立ち上がって走り寄って来る。



「お帰りー! イオナちゃん!!」



 そのままぎゅうっと、正面切って抱きつく。身長差がずいぶんあるから、こうするとアランの顔はイオナの豊かなお胸にうずもれてしまうのだが、小さな義姉はごく自然に、かつ頻繁にこの所作をしてのけている。



「ニーシュさんは?」


「パスクアさんとこ、報告中」


「無事でよかったあ。パーさんも、だいぶ心配してキリキリきてたみたいだから、これでひと安心っしょ」



 だいたいの場合そうなのだが、危険分散のために間諜との文書伝達は、複数の写しを作成して行う。二手に分かれたアランとニーシュが、それぞれ同じものを持ち帰って初めて、几帳面な上司も安堵できるのだ。



「パーさんは、文書云々を心配していたのではないのよ。誠実なるニーシュさんの安否を、それはそれは気遣っていたのだわ。何とうつくしい主従間の思いやり」



 両手を組み合わせて、うっとりした表情を浮かべているアランにたずねる。



「兄ちゃんはどこ?」



 義姉は立てた親指で、湖面を示した。


 その方向、確かに小さな波紋を広げながら、浮き沈みしている姿があった。


 下ろした髪が顔全面にへばりついているから、兄とわからなければちょっとぎくりとする、怖い風景だ。湖の主の水棲馬だとか、伝説の巨大うなぎだとか、そう言われると信じてしまいそうになる。それを眺めつつ、義姉妹は草むらに紛れた岩の上に、腰を下ろす。



「イオナちゃんはさあ。海とか、湖とかって平気?」



 おや、とイオナは思った。いつも明るく立ち回るアランが、しんみりした調子で話を振ってくるのは、ちょっと珍しい。


 無言のまま答えかねていると、義姉は前を向いたまま続けた。



「あたしはだめなんだよね、たくさんの水は……。そのまんま、あの日の事、思い出しちゃうからさ」



 あの日とは、自分達三人がそれまでの幸せだった世界を、故郷を失った日。ネメズの集落が海から来た災厄、海賊に滅ぼされた日のことだ。


 黒く禍々まがまがしい船たちは、最後に果てしのないたくさんの水の向こう、水平線の彼方に消えた。イオナも憶えているその風景に、アランが悲しみを重ねるのは痛いくらいわかる。


 共通の深い傷は、三人の間で繰り返し話し合われてきた。


 自分たちの出自は秘密にしてあるし、流浪の旅の真の目的もまた伏せてあるから、このことについて他の人々と話す機会はない。だから、仮に第三者があれこれ想像で口を挟んで来たら、それにはさぞや腹が立つだろうとは思う。


 けれど三人の中、辛い記憶と以降の日々を分かち合ってきたこの家族のあいだであれば、“あの日”について語ることは禁忌ではなかった。


 とは言え、苦痛なしに思い出せる記憶ではない。アランの声が低くなり、表情からひょうきんさが消えてしまうのも、無理のない事だった。



「それなのに。ヴィーってば、ここに陣営が移転してから、暇さえあれば泳いでばっかりでしょ?」



 それにはイオナも気付いていた。湖行きを率先して提案するのは、たいてい兄である。



「あたしが水苦手って知ってて、嫌がらせしてんのかしらー、って一時ちょっと思っちゃったよ? 自分も嫌なはずなのにって」



 イオナはちらりと義姉の脇を見た。買い物用の大きな籠には、布にくるまれた何かしらの食べ物、巨大な取っ手付き杯、そして姉のお気に入りの徳用蜂蜜酒が今日も入っている。いつも用意周到におやつや軽食を湖に持参するアランが、そんな思いを平たい胸のうちに抱いていたとは知らなかった。



「けど」



 姉の声が転調した。



「やっぱり優しいのよう、ヴィ―は!」



 自分の方を振り向いたいつも通りの義姉に、イオナは思わずのけぞりそうになる。あおい瞳のなかに、いくつもお星様を浮かべて、いまやその笑顔はつやつやと光り輝いているように見えた。



「つまり! あたしに慣らそうとしてくれてるの! 苦手なものだって、場数を踏めばいつかは慣れるッ! そして克服につながるッッ」



 いつの間にむしったのか、アランの両手には野ういきょうや甘えんどう、綿菊わたぎくといった野の花があふれていた。自分を自分で絵にしている。



「そうわかったから、いつかは越えてけそうな気もするの」



 頬を少し赤くして、屈託なく笑っている義姉を見て、イオナは自分もくすぐったくなるような、じんわりと嬉しくなるような、不思議な感覚を覚える。


 大好きなアランが、大切な兄と夫婦になったことは、イオナにとって最大の幸運だったと思っている。


 どちらかを取られた、という気は全くしない。むしろふたりとの繋がりがぐうっと強くなった感じで、安堵の方が大きかった。


 自分達は絶対に欠けない、そんな自信が自然に生まれていた。



――欠けた時は、それこそわたしの世界の終わりだろうな。



「さて、イオナちゃんも来たことだし、あたしはそろそろ蜂蜜酒を……ぬふふ……。あなたの好きな、猪すり身の壺詰めも、確か持ってきたはずよー」



 籠をごそごそとあさり始めたアランをよそに、イオナは湖面をぼんやり見やった。


 兄はまだ、元気に泳ぎ続けている。盛夏とはいえ、うだるような暑さとはほど遠い地方だ。いいかげん身体が冷えそうなものだが、兄妹はあんまり寒さを感じないたちである。湖なのだし、自分もちょっと泳ごうかなとイオナは考える。そう、湖だ……終わりの見えない海じゃない。



「そうだ。もうここに直接かまど組んじゃってさあ、焼き肉したら楽しいかもね。ニーシュさんとちびちゃん呼んで、あと何てったっけ、先行見習の子……松葉まゆげのかわいいのがいるじゃん? あの辺を呼んだげよう。ふふふ……って、あれぇ? やだー、ヴィーの手拭い忘れてるぅ。……ま、いっかぁ! 服で拭いてもらいましょう」



――わたしはどうかな。やっぱり、海が怖いかも。










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