137 空虚四年目14:夜の襲撃者とディンジーの魔術
行って帰って、の往復をする時、なぜだか復路の方がぐっと道がはかどって、時間のかからないことが多い。
下り道を地元民であるディンジー・ダフィルがためらわずに進んでいき、昼過ぎにはアメナの町に着いてしまった。
ランダルとしては、あの湖の見えるすてきな宿に未練があったのだけど、仕方がない。黒たてがみと灰色ぶちを引き出し、ディンジー・ダフィル用に駅馬を借りて、一路フィングラスへの街道をくだってゆく。
「いくらなんでも、今日中にフィングラスまで行くのは無理でしょうねえ。手前でどこか、宿を取るしかないかなあ」
「俺は、野宿で全然平気よ? 雨降ってないし」
さすが森の賢者と呼ばれるだけある、ディンジー・ダフィルは戸外派なのであろう。
「……私が平気じゃないんですよー……」
王は苦笑した。
最後尾で広く警護の視野を取りながら、ゲーツはランダルに同意している。
――俺も野宿は平気じゃない、すっっっっごい嫌なのっ。
・ ・ ・
結局その夜は、アメナとフィングラスのほぼ中間点にある、セギュイの町にとどまることになった。
何の変哲もないような宿場町である。
「仮に、何か見ておくべきものがあっても、もう遠慮しますね。ディンジーさんをお連れできたのだし、後は全力で無事に帰るのみですよ」
公共厩舎に黒たてがみと灰色ぶちを入れ、駅馬業者にディンジーの馬を返した後、ランダルは鼻息も荒くそう宣言している。
街はずれの宿で、大部屋をとった。
「我々二人ともゴーツ君の護衛範囲に居なきゃいけないわけですから、一緒に相部屋は必須ですッ」
巨人対策の特別顧問なんて重々しい肩書に迎えるのだから、うやうやしく別室扱いするのかと思っていたが、そうでもない。
「俺はそういうの、本当どうでもいいよ。あ、パンダルさん、耳栓貸してね?」
本人はいたってのんきである。
「腹減ったなー、なんか熱いのと一緒に、黒泡酒やりたいなー。パンダルさん、いける口?」
階段を上りつつ、おじさん二人は和やかに話す。
「典型的にイリー人なんです、全然だめ。弱ーい葡萄酒をほんのちょっと、程度」
ランダル背後のゲーツだけが、ちりちり嫌な感触に気付いていた。
・ ・ ・ ・ ・
「……動かないで下さい」
あてがわれた大部屋に入って扉を閉めた途端、硬い声でゲーツは言った。
「えっ?」
ランダルはどきりとした。
「お二人とも、そのままで。荷物も、床に置かないで下さい」
ランダルの心臓が、急速度で警鐘の脈を打ち鳴らす。
――伝説の傭兵と呼ばれるゲーツ君が、ここに来て覚醒している?
「何か……不審なことが……?」
ゲーツは受付でもらった手燭の灯りを、黙々と室内の燭台にうつしてゆく。
ぼんやりと明るさが増したところで、ゲーツは一番手前の寝台に向き直った。真っ白な敷布をそうっと剥がす、そこに手燭を近付ける。
「て、敵なのかい! ゲーツ君?」
ランダルの問いかける声が、つい震えてしまった。
「はい。囲まれています」
手練れの傭兵は低く答えた。
「向こうは無数です、逃げるしかありません」
十数年前のあの記憶が、生々しくランダルの脳裏に蘇った。クロンキュレンの追撃。近衛騎士を全員殺して迫って来た、あの賊集団!!
それをかわして自分を救ってくれたゲーツが、戦わずしてしょっぱなから逃走を決め込むと言う……! 何という恐ろしい未知の敵、何者なのだろうか!?
「――誰の手の者か」
震える腹に力を入れ、王として厳かに聞きただしたランダルを、ゲーツがぐっと見返した。
「夜這い虫です。陛下」
「やばい、むし……」
「とこじらみってやつよ。知らない、ランダルさん?」
どが――――ん!!!
ディンジー・ダフィルを見上げ、ランダルは四角く口を開けた! もちろん噂にきいている!!
主に寝床や調度品、敷物の裏に潜み、夜間這いずり回って人の肌を刺すおぞましき吸血虫。餌食にされた者は赤い発疹からの耐えがたき痒みに七転八倒、発狂寸前の地獄を見る!
イリー都市国家群を脅かす侵略者は、東からのエノ軍だけではない。爆発的繁殖力で次々と各市の宿屋を陥落し、あらゆる一般家庭へ魔手を伸ばしているという点で、とこじらみは精霊使いのエノ首領なんかより、よっぽど身近で凶悪なやつらなのである! ああ黒羽の女神よ、どうか我々を守りたまへ!!
「ここをご覧下さい」
ゲーツは敷布の内側、藁ぶとんの表面を示す。点々とした黒い染みが無数についている! まごう事なき夜這い虫在中の証拠だ!!
「ここは危険すぎます。すぐに出ましょう」
すっくと立ちあがって、ゲーツは言った。
「うん、部屋をかえてもらおう!」
「……陛下。この宿屋全体が、すでに奴らの巣窟です」
「何とぉッ!?」
実はゲーツは、虫は平気だ。これまでの人生で、刺されて痛い痒いという感覚を持ったことがない。
リラが元気だった頃、牧場に滞在するとグラーニャだけが小蠅にやられてひーひー言っていた。が、これだけべったりしているのにゲーツは何ともない。ひょっとしたら刺されているのかもしれないが、とにかく肌が体が反応しない。その辺も無表情対応の男なのである。しかし……。
「……うっかりマグ・イーレに持ち帰ってしまったら、ミーガン様と子ども達にも危機が及びます」
――グランにもだッ。あの女の寝床に、俺以外の生物を寄せてたまるか、あんちくしょうッ。グランの肌吸っていいのは、俺だけなんだぞッッ。
真剣な局面でも、真面目にいやらしいことを考えている男である。どうか許してやって欲しい。
「わかりました……。違約料を払うことになりますが、やむを得ませんね」
ぐうっ、と苦渋の決断を下しかけたランダルの肩を、ぽんとディンジーが叩いた。
「大丈夫だよ。俺にお任せ」
「え?」
王と傭兵は賢者を見る。
「二人とも、念のため両耳ふさいでて。 ――――」
しかし両手のひらを通しても、その奇妙な“音”は、ランダルとゲーツの耳に入って来る。
藍色の布を下げてあらわになったディンジーの大きな口から高い音が、とてつもなく高い音が発された。
その時足元で何かが蠢いたような気がして、ランダルは目を落とす。
「ぎゃひっっ!?」
寝台の脚を伝って、何かがぞくぞくと這い出て来る、……無数の夜這い虫の大群である!!
見れば、四台ある全ての寝台の下あたりがごっそり黒くなっているではないか。敵はこんなにも大量に潜んでいたのだ!! 戦慄!
「――――ッッッ!!!」
ぎらりっと輝く何かが部屋を、ランダルとゲーツの身体を通過した気がする。
実際にはそれは光でなくて音であった。
床上で、うぞうぞと蠢いていた夜這い虫たちが――動きを止めた。
そしてそのまま、全てが静止する。
「終わったよ」
変わらぬひょうきん声で、ディンジーが言った。
「全員、抹殺した」
ゲーツがそっと顔を寄せると、本当に虫たちは動かない。死んでいた。
「あんまりやりたくないのだけどね、直接殺すのは……。いつもは大量のごきぶりを呼び集めて、そいつらに喰わせちゃうんだけど」
「さらに怖いですよ! ディンジーさんッッ」
あまりのおぞましさに、ランダルの輪郭が波線描写になってしまった!
「でしょ? だから自粛しました」
「それに、“いつも”って言うのは何なんですッ!?」
真っ青な波線顔のままで、ランダルは問う。
「ああ、だから俺、これで生計立ててんの。声音の魔術で害虫、害獣駆除。しょっちゅう依頼が来るよ、皆困ってるんだよね」
「……」
昨日バネバの村を訪ねた時、お婆さんが気の毒そうな顔をした理由がわかった。被害に困り果てて、遠路はるばるディンジーに依頼に来た、と思っていたのだろう。
はあー、とディンジーは溜息をつく。
「ただ働きしちまったなあ……。本来なら、この宿から駆除代金をもらったっていいくらいだ。半月は楽に暮らせたよ」
ぽん、今度はランダルがディンジーの肩を叩く。
「私たちのために偉大なる術を使って下さるとは、何と言って感謝したらよいのか……! 黒泡酒、おごりますよ」




