136 空虚四年目13:賢者の娘モティのおもち
すっくと立ったディンジー・ダフィルは、まず部屋の隅の石かまどの前に行くと、かかっていた小さな鍋の中の湯をじゃあっと火にぶっかけた。かまどの近くに置いてあった籠袋を背にかける。
「はい、二人とも立って立って」
ひょいと腰掛ふたつを持ち上げる。
「これはいいや、安物だし置いてこ……。ちょっとゲーツ君、この敷物の、そっち側持って? うん、外出るよー。はいランダルさん、叩いて叩いて」
ほこりをはたいたそれを、くるくるっと丸めて麻紐で縛る。
「はい、家じまい完了。行きましょうかね」
「は、早ッッ!!」
ランダルが叫んだ。
「あ、俺ってもの持たない主義だから」
「……何かお持ちしましょうか」
ゲーツが山羊皮の敷物を担ぎ、ディンジー・ダフィルは鍋をさげ杖をつく。
「出発ッ」
森の賢者は明るく言い放った。
「こっちです、ついて来て」
上って来たのとは別の方向に向かって、山を下り始める。踏みしだかれた跡が草にしっかりついていて、ずっとなだらかな道になっていた。
「あなた方は、バネバの村から来たんだよね。ちょっと回り道になるんだけど、コンシュの村に娘がいるから、寄ってくよ。今日はそこで泊まって、明日本式に出発ね」
「おお、お嬢さんがいらっしゃるのですか!」
山の北側ふもとにあるコンシュ村と言うのは、やはり黒い火山岩の石組壁に守られた小さな村であった。
ディンジー・ダフィルはいつの間にか、あの藍色の布で目の下をすっぽり覆っている。夕暮れの迫る時刻、畑の中を歩いて家路につく人がちらほら通り過ぎた。
「おや、こんちは」
「元気かえ」
皆、ディンジー・ダフィルに気さくに挨拶していく。
やがて、灌木の塀に囲まれた黒っぽい石組み一軒家の門前に立った。
「モティー。モティやー。俺だよう」
玄関先からその脇、庭の方へ向かって、賢者は呼びかけた。
「はあーい、おとうさん? いらっしゃーい」
果たしてそちらの方から、何やら荷物を背負った小柄な女が歩いてきた。
「あらら、お客さまが一緒なの?」
言いながら手にした小さな籠を地面に置いて、頭を覆っていたもも色花柄の手巾を取る。ディンジー・ダフィルの後ろに並んで立っていたランダルとゲーツは、同時にちょとだけ目を見張った。
「久し振り、元気にしてたかい」
「え、おとついも会ったでしょ?」
「十分久し振りじゃん。お父さん、ちょっと長めに出張行くことになったからさ、今夜ひと晩泊めておくれ」
「ええ、もちろんいいわよ。それじゃこちら、お仕事のお客さまなのね」
柔らかい表情の娘は、ランダルとゲーツに笑顔を向ける。
その丸顔には目元と眉の上、口元と、左右対称にほくろのような入れ墨が置かれていた。やや濃いめの肌に銀髪、何をどう見てもキヴァンの娘である。
「さあ、どうぞ入ってくださいな」
フィングラス地方の抑揚に乗せ、完全なる正イリー語で娘は言う。
彼女が扉を開けた時、その背中に幅広布で赤ん坊が括りつけられているのが見えた。
・ ・ ・ ・ ・
史書家のパンダルさん助手のゴーツ君と紹介されて、二人は一応賢者が自分達と娘とに気を回していると気づく。
モティさんは台所に立ち、赤ん坊を引き受けたディンジー・ダフィルは二人とともに居間の食卓に座り込んだ。白いしっくい天井に黒い梁のはしる、典型的フィングラスの農家造りである。
「ここ、元々は俺んちなのよ」
賢者の膝の上でおもちゃをしゃぶる赤ん坊は、一歳てまえくらいだろうか。ぱやぱや生えた褐色の巻き毛に、白い肌が丸々している。今日は泊まり仕事中という父親に、似ているのかもしれない。
「と言うか、今もそうなんだった。ここであの子を育てて、ちょっと前に婿とって安心したから、俺は山ん中で遊んでんの。……ちょっとモティーちゃーん! お父さんのおなべと毛皮敷、預かっといてね~!?」
布を取っ払った口で、台所に大きく言った。
「干しとくわよー」 声が返って来る。
「きれいなお嬢さんですね、お母さま似なのかな」
「あ、拾い児なの」
全身全霊の気遣いをのせたランダルの問いに、賢者はあっさり答えた。
「この子くらいの時に……いや、もっと大きかったかな。色々あってね、名前つけて、俺の子にしたの。お? 失礼、モティー! アミちゃん、うんこさせるぞぉー」
「よろしくー!」
賢者は赤ん坊を抱えて、ほいほいと出てゆく。
「……すごいですね、どうしてわかるんでしょう」
「これも賢者の能力なんじゃない?」
偽助手と偽史書家は、ぼそぼそ呟き合う。
あまり時間を置かず、ディンジー・ダフィルは晴れやかな顔で戻って来た。
両手にさげもつ赤ん坊も、そっくり晴れやかな表情である。
「そりゃわかるよ、ゼンドー運動の音が聞こえるもの」
別室にいた男に、ぼそぼそ話の相槌を打たれて、二人は内心でぎょっとする。
「蠕動運動……下の方のはらわたが、排せつの際に動くことでしたっけか」
「そうそう、うんこ袋が絞り出しの準備態勢に入る音。そこん所でおまる当てがってやれば、おむつ汚さずに済むの。この辺は、俺の聞こえ過ぎな耳も便利ね」
二人は震撼した。……声音の魔術師って、そういうことなのか……!
この人の近くでは、努力して静かにしてみても全く意味がなさそうだ。すかしっ屁もやめておこう、とゲーツは心に誓った。
「はい、お待たせー!!」
こちらも晴れやかな顔で、モティさんが大きな平鍋いっぱいに、何か熱いものを運んできた。
「杣粉に菜っ葉漬を入れたおもちなんですよ」
バネバのお婆さんがくれた、丸い焼きものとそっくりだった。この辺りで好まれる郷土料理と言う。
おいしいけれど、ゲーツの知らない味である。自分がいた家はこっち方面じゃなかったらしい、と思った。
・ ・ ・ ・ ・
「ああ、アメナに馬を置いてきたの? ほいじゃ俺もそこから、馬を借りようかな。歩きでマグ・イーレは、ちっと遠いやね」
翌朝、モティさんがまた焼いてくれた丸い杣もちを携えて、三人はコンシュの村を後にする。それはずうっと長いことあたたかくて、ゲーツは腹のかくしの部分が心地よい。
昨日と同じ姿なのに、妙にぱりッとした印象だと思ったら、ディンジー・ダフィルは山羊皮上っぱりと麻衣を洗い替えにかえていた。山を下りるたびに、モティさんが洗っているらしい。
「だから、服は同じものばっかり、五枚持っています」
ものを持たない主義だったはずでは……、微妙な賢者である。
藍色の覆い布も、きれいなのに替わっていた。好奇心に負けて、ランダルは尋ねる。
「ブリージ系祭祀の、伝統衣装なのですか?」
「いーや、俺の趣味です。山で働く男ふう」
「確かに山羊毛皮はそういう方向なんですけど……。そのお口まわりの布は、私ほかでは見たことありませんよ」
「あ、そっか。そういやこれだけは、東部時代からかな……。皆怖がるようになんのよ、俺がいろいろ術かけるの見ると。俺と話しただけで、呪われちゃうんじゃないかって…そんなこと、あるわけないんだけど」
「ほう?」
「なので周囲への配慮から、人の多い密な場所では、これをつけるようにしています」
見ようによっては覆面布に見えなくもないな、とゲーツは思う。彼自身もよく使っている。
「それにね、これつけてると喉まわり首まわりがぬくくて、いいあんばいなの。ほら、俺の仕事って喉が命じゃない? 大事にしないといけないからね」
仕事と言われて、この時二人は特に何も考えなかった。賢者というからには術をかけて人々やその暮らしを守っている、つまり彼の高尚なる使命のことを言ってるのだ、くらいにすんなり思っていた。
「ディンジーさん、私のゼンドーお聞きになりましたね。ちょっと失礼」
「どうぞ」
コンシュの村からバネバの村へ、さらにアメナへと戻る山道の中、ランダルは森中に消える。初めてディンジー・ダフィルと二人きりになったゲーツは、聞いてみた。
「……本名や身分についても、聞こえてわかるのですか?」
「えっ?」
「……昨日、すぐに先生のことを見破られましたから」
「ああ、パンダルさんはね。ぱっと見は出張官吏で、何ぞ取り立てに来たんかなと思ったんだけど、それにしちゃ話し方がばかに純というか、……人の下で苦渋をなめてきた人じゃない、ずーっと持ち上げられてばっかりの人だと感じたんだよね。
あと本人も気付いてないけど、濁音にティルムン矯正の痕がある。若い頃に向こうへ行って、イリー発音を馬鹿にされた人がティルムン発音を真似すると、ああいう感じになるの。マグ・イーレみたいな貴族までしょっぱい暮らしをしてる国で、ティルムン留学ができる男性って言ったら本当に限られてるじゃない? だから即わかったよ」
「……」
「あと、君の正イリー語も完璧なんだ。なんだけど、会話を返す時にちょっとだけ、ほんのちょっっとだけね、遅れて来る。その辺のゆるさは、フィングラス特有のものなんだ。自覚ないだろう?」
「……全然知りませんでした」
――だからこっち育ちってわかったのか……。
「大丈夫だよ、俺以外の人間には、わかりっこない部分だから。マグ・イーレの人だって言っても、皆そうですかとしか思わないよ」
「お待たせしました……」
今日も深い森の香りをまとって、晴れやかな顔のランダルが戻って来る。
もう一つ知りたかったこと、どうしてマグ・イーレ同行を承諾してくれたのかは、聞けなかった。




