135 空虚四年目12:ディンジー・ダフィル
「こんにちは、ディンジー・ダフィルです。何でしょう?」
ゲーツとほぼ同じくらいの大男、しかしがしっと痩せた人である。麻布の上下に山羊毛皮の上っぱりを羽織って、左手にごつい杖を持っている。
「突然お邪魔して、申し訳ありません。バネバの村で、“森の賢者”と呼ばれているのは、あなたですね?」
礼儀正しく、しかしきりっとした調子でランダルが話しかけた。
「ええ、そう呼ぶ人もいますね」
左右の眉毛が、豪快に一本線の人である。切れ長の目は明るく蒼い、そしてその目元から下を藍色の布が覆っているのだ。胸のあたりまで垂れているその布は、疫病を防ぐための防疫布よりずっと長く、どちらかと言うと家族を亡くしたものがつける喪帯のように見えた。
「わたくし、史書家をしているパンダル・ササタベーナと申します。こちらは助手のゴーツ君。あなたにお話を聞くため、マグ・イーレから参りました」
「……ずるいですよ」
布の下からなのに、くぐもりのない声でディンジー・ダフィルは言った。低いが、およそ賢者らしからぬひょうきんな声である。目尻のしわと剃った頭髪の後退具合から、ランダルと同年代くらいだろうか、とゲーツは見当をつけた。
「俺は本名呼ばれて返事したんです。あなた方も本当の名を名乗ってくれなくっちゃ」
ぎりぎりっ、とランダルの緊張感がすぐ隣にいるゲーツにも伝わる。
「……と言っても、あなたの名前じゃあ、そうそう大っぴらにも名乗れないか……。まあどうぞ、こちらへ」
くるっと踵を返して、がたがたした岩床の上を歩いて行ってしまう。
瞬時ランダルとゲーツとは目線を交わし、そうして賢者の後に続いた。
・ ・ ・ ・ ・
岩壁がちょうど洞窟のように奥まった部分があって、そこが賢者の庵であった。
小さく積まれた石かまどの火をかき起こして、ディンジー・ダフィルは二人を振り返る。
「イリーの人達なら、腰掛がいいよね」
男三人入ればいっぱいになるような空間、自身は山羊皮の敷物の上に座り込んで、ランダルとゲーツに小さな木の腰掛をすすめた。
「話って言うのは?」
ランダルは簡潔に、ジアンマを通して知った彼の話について語った。
「……私の友人が見たように、ふかし鳥を気絶させてバネバ村を救ったのは、あなたの力なのですか?」
「ええ、そうです」
ディンジー・ダフィルはあっさりと答えた。
「鳥の平衡感覚をぐるぐる狂わせる音で、地面に落としました。殺してしまうとね、バネバの皆も拾って食べるのに気が引けるかな、と思って気絶だけ。俺も六羽くらい拾って帰って、ここでゆでたけど美味しかったな」
ごくり、とランダルは喉を鳴らした。空腹なのではなく、話が核心に迫りつつあることへの緊張だ。
「そのように音を操るあなたは、“声音の魔術師”なのですか?」
ディンジー・ダフィルは、じいっとランダルの目を見つめた。ふいに手を掛けて、顔を覆っていた布をぐっと下げた。
「……驚いたな。ものすごく久し振りに、そういう風に呼ばれた。どうやって知った?」
問い返す男の顔は、好奇心に輝いている。ゲーツが考えた通りに、やはりランダルと同年代くらいのようだ。元はなま白い肌が、年月と風雨にさらされるとこんな感じに深くなる。典型的東部系、精悍なおじさんであった。
「書物を紐解きました。私は今、アイレー東部ブリージ系の人々の伝統について、調べています。その中で精霊使い、声音の魔術師のことを知りました」
「あー、やっぱりあれかい? 巨人関連の話?」
さらっと話を先回りされて、うぐっ、とランダルは喉を詰まらせた。
「……赤い巨人の脅威について、ご存じなのですか?」
一応、イリー同盟諸国間での秘密である。巨人出現時、テルポシエ一般市民は非常事態令で皆自宅待機だったから、直接目撃した者はいない。
そしてマグ・イーレ軍内では緘口令をしいていた。いたずらに人心を惑わしても大恐慌になってしまうからだが、その辺はエノ軍も同じらしくて、“赤い巨人”の話はいまだに市井にはほとんど流布していない。ましてや、こんな辺境の地になど。
「知ってるも何も、聞こえたもん。強烈にやばい、あの真っ赤な声が」
「……は?」
「三年前になるんだっけか。俺その日すっごい気持ちよく起きて、その辺で夜明けの背伸び体操してたんだよ。そしたら、ズババババババーッッと揺さぶられたわ。
えーと何て言ってたっけかな、……≪戦場はいずこか≫とか≪理術、うざいのう≫とか、≪うぬの血であがなえ≫だの何だの……。一緒にひとの死んでく断末魔とか、体のつぶれる音がぶっちぶっち紛れて来るわけ。さすがの俺もげろ吐いちゃったね、本当最悪だった」
――聞こえた? 戦場の喧騒が? ここからテルポシエまで、直線でも百愛里はあるぞ? つかあの巨人、何か喋ってたのか。俺は全然聞かなかったな……?
ゲーツは隣のランダルと顔を見合わせた。王はばちばち、目を瞬いている。
「ちょっと、まさかあんたたち」
ディンジー・ダフィルも、きれいな蒼い目をしばたたく。
「俺に、あれをどうにかしろとか言いに来たの? 冗談じゃないよ、女神を駆除するなんてのは無理だからね」
「……女神、と言われましたね?」
ランダルは少し興奮しているようだ。
「一般的な見解では、あれはエノ軍の首領が召喚した精霊とされていますが?」
「あんなおっかない精霊はいないよ!」
ディンジー・ダフィルはぶんぶん頭を左右に振る。
「えーとね。俺、声もおかしいけど耳もおかしいんだ。ああいう強烈な音や声があると、声の主のだいたいの姿大きさがわかるし、そこにひっついた周りの声とかも拾える。だからそいつがでっかい女ってわかるし、何人殺したかも、断末魔の数でわかっちまうの。……二十人くらい、やられてるだろう?」
ランダルは答えられない、……しかしゲーツは無言でうなづいた。
前回の戦役の後、マグ・イーレの損害とエノ軍の“巻き添え”目撃談から見当をつけられた、おおよその巨人犠牲者の数がそのくらいだと、グラーニャから聞いている。
「個体で動く精霊は、そういう風に人を殺すことなんてしないし、できない。一番貪欲獰猛な水棲馬だって、一人分の肉を食ったらしばらくは動かない。大昔の精霊使い達は、精霊を使って敵と戦う時に、そういう算段をする必要があった」
「……あなたご自身は、精霊を使役できるのですか?」
「できないよ。ただ見えるし聞こえるし、ご近所さん的に付き合うことはあるね。彼らの好きな歌を歌えば、喜んで気を良くしてくれる。そうやって挨拶をきちんとしていれば、悪さなんてされない。昔の東部は、どこでもそんな感じだった」
「ディンジーさんのご出身は、どこなんです?」
「東のずーっとずーっと奥入ったとこ。住んでた所も親戚のいた村も、全部エノ軍にやられちゃって、今は何にも残ってないよ」
「エノ軍ですとぉッ!?」
ぎょっとして、ランダルが叫んだ。
「あ、当時はそういう風に呼んでなかったんだっけ。ただの海賊、山賊集団だったんだよね。まあやってることは、昔も今も変わんない気がするけど。既にあるものを他から奪ってばっかりで、自分達では何も生み出さない。あほな奴らだ」
故郷を滅ぼされた割には、エノ軍を憎悪している風もない。どこか他人事のように、飄々と言うディンジー・ダフィルである。
「とは言え、東部の人間もだいぶ長い間、自ら新しいものを生みつくることをしてこなかった。エノ軍が来なくても、遅かれ早かれイリー都市国家の勢力にのまれて、消えていたと思うよ。ブリージ系の衰微と滅亡はどっちみち避けられなかった。そうして精霊だけが、森と海と岩々の間に漂い、存在し続ける」
「……では、イリーはどうなるのです? あの、謎に包まれた赤い巨人が再び出現して暴れ出したら、それが我々の滅亡となるのでしょうか」
「うん、たぶんね!」
残念そうな顔で腕組みをしつつ、ディンジー・ダフィルはさらっと言い切る。対するランダルは、顔全面に深い苦渋を湛えた。
「……なぜ、断言なさるのです……」
「さっきも言ったけど、俺の感触では、あのでっかい女は神です。神様が人間のことで何かを決めたんなら、滅ぶも残るも異議申し立てなんて出来ないでしょ」
「あれは、ブリージ系の祀る、旧い神なのでしょうか?」
「それがわからないんだな。俺は東部の果てで“声音の一族”、……まあ一種の祭祀ですね、その一員として生まれ育って修行もつけられたんだけど。あんな神様の気配なんて触れたことがない。ただ、神様も長く眠ってたりすると性質が変わることもあるし、何ともね」
「……あの」
それまで無言だった、もう一人の男にぼそりと話しかけられて、ディンジー・ダフィルは目を上げる。
「……しかしあなたは、巨人の声を聞かれたのですよね」
「はい」
「……自分はその時、戦場にいました。巨人を見ましたが、その声は全く聞こえませんでした。周りにいた人は誰も、聞かなかったと思います。その声を、あなたは聞いた」
「……?」
ランダルは小首を傾げて、隣のゲーツを見ている。
「……ということは、巨人もあなたの声を聞けるのではないですか?」
「あ、それは可能性あるかもね。何せ変な声だから」
「……ならば、巨人にやめろと文句を言えるんじゃないですか。あるいは、どうしたら鎮まってくれるのか問えるかも」
「ええー、神さま相手に文句言えったって~、」
ゲーツはくるっとランダルを見る。「……でも先生、」いつも通りの無表情顔である。
「……黒羽の女神は初め人間を殺そうとしたのに、考えを変えたんですよね」
ランダルは、はっとした。旅の途中でゲーツに語った、イリーの建国神話ではないか。
そう、女神は始祖アイリースとエイリィの訴えを聞いたのである。そうして殺戮から守護に転じた。
「――そうです、ディンジーさん。交渉の余地は、あるんじゃないでしょうか?」
「えー、俺に何しろって言うの」
ディンジー・ダフィルは引き気味である。
すっとランダルは立ち上がり、そしてディンジーの前に片膝をついた!
「本名を名乗るのが遅れて、申し訳ございません。隠居中の身ではありますが、マグ・イーレ元首、ランダル・エル・マグ・イーレとして、あなたにお願いがあります。“赤い巨人”対策の特別顧問として、我が国へお越しいただけませんでしょうか」
――すごいぞ、先生! それって、結婚申し込みの時とかにする姿勢じゃないの!?
ランダルは、くるっと振り向いてゲーツを見る。
「ちょっとっ、君からもお願いしてッ」
言われて慌てて、王に倣った。
「ちなみにこちらは、王室専門護衛をしてくれている、傭兵のゲーツ・ルボ君です」
見るからに嫌そうだったディンジー・ダフィルが、ぴくんとした。
「やっぱり、ティルムンの人だったね。育ちはこの辺?」
「……はい。今は、マグ・イーレの人間です」
ゲーツはおや、と思う。名乗った時にティルムン出自かと聞いてくる人は時々いる、“〇〇ボ”というのがティルムン名字なのは、東側世界でもよく知られているからだ。けれど育ちがフィングラス方面とまで知れることは、あまりないのに。
「そう……ランダル王とゲーツ君ね、とりあえず座って下さいよ? ええと。あなた方、単に主従ってだけじゃないですね。それ以上でしょ」
「は……」
胡坐をかいたその両膝の上に両肘を置き、両手のひらで左右の頬を抱え込むようにしてディンジー・ダフィルは問う。蒼い双眸がぴかぴか光って、じーっとランダルを見ている。
「正直に言いなさいよ」
「はあ、あの……ゲーツ君は私の第二妃の、……伴侶です」
無表情のままゲーツは息を止めた。間男でなく恋人でなく、伴侶という聞き慣れないがものすごく真摯でええ感じのする言葉を使って自分を表現してくれたランダルに、衝撃的な感謝の念を感じていたからである。
「マグ・イーレ王室と言えばつい最近、赤ちゃんが生まれたんだよね? 男女の双子とは珍しいから、こんな田舎でもみんな話してたし、俺も聞いて知ってるよ」
「……その子達の、実の父親なのですよ」
ランダルも、息を止めて話しているようだった。
ディンジー・ダフィルは、蒼いぴかぴか視線を水平に動かし、今度はゲーツを見た。
「君の、大切な女は何と言うの?」
低くて優しくて、真面目な聞き方だった。
数秒間の沈黙があって、ランダルがそっと肘でゲーツをつついた。
「ちょっとっ、君が聞かれてんのよ」
「……グラーニャ様です。グラーニャ・エル・シエ妃殿下」
かすれ声が出た。
ディンジー・ダフィルはふっと目を閉じる。そしてゆっくり開けた。
切れ長の蒼い瞳がきらきらっと輝いて、そして賢者おじさんは大きな口をぐうっとそらして笑った。
「よし。行きましょう! マグ・イーレっ」




