133 空虚四年目10:アメナの宿でお習字稽古
アメナの町には、割と早い時刻に到着した。
村と言った方が近いような小さな町だったが、頑強なつくりの街壁門のところには結構な数の傭兵がいて、二人は珍しく持ち物検査を受ける。やはり国境間近なだけあって、警備はきちんと厳重だ。
「町の厩舎はないんだ。でも宿屋にあるから、そこへ直接預けられるよ」
しかし衛兵らは親切である。教えてもらった通りに行くと、壮大な構えの旧い屋敷があって、そこがアメナ唯一の宿という。
「ゴーツ君、これはッ……!」
「……部屋を、間違えたんでしょうか」
小宴会でも出来そうな広い部屋に、男二人は驚愕していた。
古いことは古い、しかし深みのある栗色の床板は艶を帯び、黒い柱が走る白い漆喰の天井には炉の煤あともない。歴史を感じさせる家具調度品には美しい彫刻が刻まれて、極めつけに窓からは雄大な眺望が見渡せる。町外れの湖と、その後ろにそびえるキヴァン領の山脈が青いのであった。
その湖でとれたという影武者魚を柔らかく煮たのに、つぶし豆を添えたのが夕食である。簡素だが、とんでもなく美味であった。
「二食付きでこの値段って、何なの? リアーの宿より安いよ、どうなってるの」
小さな食器棚に気付いたゲーツが、ランダルを呼ぶ。
「……先生、これを」
「何っ?」
「……陶器椀と、香湯の壺が数種類入っています」
「ぬあっっ!? なに、自分で淹れて飲み放題ってこと!? どういう宿なの、採算とれてるのッ? もう、ここはじゃんじゃん飲みましょう、ゴーツ君!」
「……厨房で、お湯をもらってきます」
滅多にできない贅沢に、これでも少々はしゃぎ気味の二人である。
「さて……、私はこの素敵に広い卓子を有効利用しまして、ちょっと書き物しますからね。君に今日教えてもらった、“時神さま”の色々を記しておきましょう。君はもう、どうぞ休んで」
「……はあ」
言いつつ、ゲーツは何となしに香湯を飲み続ける。
蜜蝋の明かりの中、ランダルがすごい速さで布表面を字で埋めていく。
時神さまと言うのはこの一帯、フィングラス地方で信仰されている地元の神様だ。イリーとキヴァンの交差点であるこの地では、黒羽の女神は人気がない。フィングラスの市ができた当時は違ったのだろうが、イリー貴族の王政が絶えてしまった今は、女神像も置かれていなかった。
代わりに皆の生活を見守っているのが、毎日変わらず日にちを進めてくれる男性の神様である。ひょっとしたら、黒羽の女神がイリー人とともにやってくる前からそこにいたのかもしれないが、詳しい話は誰も知らない。人々は空を駆ける太陽や星々の動き、季節の移ろいにかれの所作を感じて、日々ゆるく感謝をしているのである。
フィングラスで働いていた頃に知った話を、ランダルにうまく誘導されて口にしたら、面白がって聞く王であった。
「どうかしたの?」
ふっと硬筆を止め、顔を上げて、ランダルがゲーツを見た。
「……きれいな字を、書かれると思いまして」
「君は?」
「……読めますが、書くのは苦手です」
王は、手にした硬筆をすっとゲーツに差し出した。
「書いてごらん?」
「……」
「名前と、住所」
ついっと新しい布まで出されて、ゲーツは少々ひるむ。けど書いてみた。
ランダルは静かに見ていた。そのまま布面から目を離さずに、言う。
「ティルムン語の表記だとはねがないから、どうしてもぎこちなくなってしまうよね」
再び自分で筆を握ると、ゲーツが書いたその下に、同じことを書く。
「少しだけ意識して、はねをつけてみようか。御方グラーニャの名前は綴りが難しいし長いから大変だけど、なるべく一挙に流してしまうときれいだよ」
また、硬筆を差し伸べられる。ランダルは予備の筆を取り出すと、さっさと自分の書き物を再開した。
そこで、二人は黙々書き続ける。
「背筋は伸ばした方が楽だよ。君は大きいけど、ちぢこまって書く必要はない」
「もう少し硬筆は立てて。私の手の上から握ってみる」
こんな所誰かに、グラーニャに見られたらとんでもない事になると思いはする。けれどランダルのさくさくした指導に従うと、本当に自分の字が変わって来たのが驚きだった。
「じゃ、この新しいのに最後の一回。……うん! なかなか男前の住所になったよ」
その下、ランダルはさらさらっと何かを書きつけた。
「フィングラス領アメナの町にてキヴァンの青い山脈を眺め、いわうおを堪能いたしました……と。これでよし」
少し乾かしてから、丁寧にたたむ。
ゲーツ・ルボ、 マグ・イーレ城内 御方グラーニャ・エル・シエ室内、納戸在。
さっき書いた所が表に出る。
「明日の朝、宿の人に頼んで送り出してもらいましょう。御方も旅の無事を知って、喜んでくれるでしょうよ」
にこりとする王。
そこで初めて、自分はグラーニャに便りを書いたのだ、と知った。どっきりである。




