13 精霊使い2:ニーシュとイオナ
「起きてってば、そろそろ」
ゆるく引っ張られた左耳に、低い囁き声が入って来て、はっとニーシュは覚醒した。
古い夢は瞬時に彼方へ押しやられ、視界いっぱいに現在を見る。
すぐ前で輝いているのは、生気に満ちたイオナの双眸だった。
エノ軍先行部隊は今回、テルポシエの西にある隣国オーランに潜伏していた別の工作員と接触する任務にあたっていた。
その復路、未だ敵陣地を抜けないうちに濃霧で足止めを食らったのである。湿気を防ぐために岩陰に潜り込んでいるうち、ニーシュは束の間眠り込んでしまっていたらしい。
「だいぶ視界が通って来たな。行くか」
「うん、でも向こうも出て来た」
「……何人いる?」
「すぐ真上に三人、少し後ろに三人かな。じきに来るね」
手元を見れば、イオナは既に鋼爪を装着している。
先端が鉤状になった長い三本の爪で、主に彼女はこれで相手をぶっ叩き、文字通り事態を打開する。使いようによっては刺したり切ったりする事もでき、さらに野宿の際には焼肉にも利用できるという、実に恐ろしい得物であった。
「うまく、まけないかなあ」
言いながらニーシュは、墨染め短衣の頭巾をかぶり直し、口元まで同色の覆いを引き上げた。
「隠れ続けても、別の見廻り隊に会うかもしれない。遅れると、パスクアさんが怖いよ」
「だよなあ……、シュウシュウもあんまり長い事、預けてられないしなあ」
彼らの上司、先行隊長パスクアはニーシュより若いが、話のわかる人物である。理不尽に怒るのが怖いのではない。計画が予定通りに進まなかった場合、責任を感じて夜叉のような形相で焦燥するのだが、……それが別の意味で恐ろしいのだ。
「よし。ほんじゃ、二・四でな」
「無理しないでよ? ニーシュ、あんまり若くないんだから」
「いやっっっ!! まだ三十ッッッ」
うっかり本気で答えたから、地声が響いてしまった。
「馬鹿」
瞬時に短く言い捨てて、イオナが飛び出した。
後悔しつつニーシュもそれに続く、ただし岩の反対側からだ。
ところどころ岩肌ののぞく谷間の斜面には、枯草色の外套をまとったテルポシエ兵がいる。それぞれ槍で武装しているが、低階級の騎士、すなわち市民兵だろう。少人数の遊撃隊というやつで、領内に広く配置されている。
イオナはまず、すぐ手前にいた兵士に向かって突進した。相手が瞬時に右側で槍を構えたのを見て、大きく自分もそちら側に跳躍する。
それにつられて旋回される穂先を見極め、着地と同時に草上を滑りこみながら、持ち手のやや先を蹴り上げた。
一瞬呆気に取られる兵士の横面を、右手の鋼爪でぶっ叩けば、戦闘不能の一丁あがりだ。
続けて二人目、こちらは長剣を抜いて切り込んできた。イオナの小回りを素早く見て取り、とっさに得物を替えるような奴とは、なるべくさっさとお別れしたい。
一撃、二撃、かわしながらついついとさりげなく投げたものが、うまく機能する。
「うおっ?」
野太い声をあげて、その兵士はよろけかけ、慌てて長剣を地に突き立てた。
小石を先端に編み込んだ絹糸は、イオナのお気に入りの小道具のひとつである。単純ではあるが、足元に絡まれば効果てきめんだ。素早く背後に回り込んで、後頭部に一撃。兵士はぱったり倒れ込んだ。
――よーし、三人目は?
くるりと振り返ると、ちょうどニーシュの肘打ちがテルポシエ兵士の首の付け根に決まったところだった。そいつは白目をむいて、どうと頽れる。
静寂が訪れた。
ぽっぽー。
谷の向こう側にいるのだろうか、山鳩の声がのどかに響いた。
「あ……れ……」
「何だよ、その顔は?」
右手で覆面布を引き下げつつ、左手でぱちんと山刀を腰の鞘におさめつつ、ニーシュが怪訝そうに聞いて来た。息を上げてすらいない。
「あ、……いや……」
――六人の敵の相手配分。二・四って、わたしが四人やっつけるつもりだったんだけど……。
頭巾も引き下げたニーシュの周りに、四人のテルポシエ兵士がのびていた。
「はあ……、すっかりたくましくなっちゃって…。もう、わたしが先行にいる理由もないね」
「おいッ!?」
「冗談だよ。さ、帰ろ」
うろたえかけたニーシュに笑いかけながら、足止め前にたどっていた小さな道筋の方へ、イオナは顎をしゃくって見せた。




