126 空虚四年目3:パンダル・ササタベーナ
田舎ぱんに牛の乳蘇、根菜の漬物と言う質素な食事でも、ランダルは大層満足している。
久し振りの通り客ににこやかに話されて、農家のじいさんばあさんは気を良くする、葡萄酒なんてつけてくれる。
すすめられてゲーツもお相伴してしまった(好きなのである)。それが乳蘇とほんとに合う、と言っても飲んだのはちょっとだけである、勤務中なんだからほんとのほんとの本当ーに、ちょっとだけである。
ちなみにアイレー東側世界には、飲んだら(馬に)乗るな、という法はない。
それでもランダルは、半刻ばかしは歩きます、と言って灰色ぶちの手綱を引いた。
「それでね~、ミーガンには私、十二の時に結婚申し込んだのよ」
話が別の方向に行っている。聞いて得になる打ち明け話ではないが。
「それでティルムン留学に行って帰ったら、御方ニアヴがもういらしててね……。まー、あとは君も知ってる通りですよ」
――いや全然知らねーよ。つか後半部分、いくら何でも端折り方が激しすぎでない?
「でも打ち明けるって言えばさあ、君だって初めのはじめは、結局エノ間諜だったのでしょ?」
ゲーツはきょとんとしてしまった。
――は、何の話? 俺の話?
「クロンキュレンで助けてくれたのは、完全にうちに寝返ってたからでしょ? でもそもそものマグ・イーレ就職の時は、向こうの手先だった。違う?」
――ぎぃやあああああ、そうだったッッ。自分でも本気で忘れてたけどそうだったぁぁッ。
「でなきゃ、エノ連絡係の水死体が、あんな頃合で出るわけないよね」
まっすぐ前向きの王の顔は完全に素面、酔ってなんぞいなかった。
ゲーツは封印した(そして本当に忘れていた)過去をやすやすと暴かれて、胃の中が不快に疼きかける。
「その辺知ってたのは死んだディルトと一部の近衛だけだから、別に気に病むことはないよ。……まあ、御方ニアヴやウセル達は知ってるでしょうね」
かろうじて無表情を維持していたゲーツだが、この最後の一言はきいた。ききまくった。
テルポシエ城の地下で、あの美人騎士にやられた一撃なみにきいた。
――それじゃあ、グランも知ってるってことじゃんか!!
「でも、皆そんなこと言わないでしょ? これからも言わないと思うよ、みんな君に、うちに居て欲しいと思ってるんだからね。私もそうですよ」
つー、……ゲーツは脇下あたりにものすごく嫌な汗の感触をおぼえた。これは臭くなる。
「さあ、そろそろ騎乗して常足といきましょうか」
・ ・ ・ ・ ・
夕暮れとともに、リアーの町についた。マグ・イーレ領はとっくに越していて、ここはフィングラス領である。
ごく小さい田舎の宿場町だから、公共の厩舎も小さかった。
ちゃんと自分で灰色ぶちの世話をしてから、ランダルは灯りの集まる街の中心へと足を向ける。
「さて、宿泊なんですがね、ゲーツ君。辺境とは言え本名で通すのはさすがに不用心ですから、ここから私は別の名を使います。君のもつけとくから、うまく話を合わせてね」
人通りの多い町でもないが、ぼそぼそ声でランダルは言った。
「……はい」
――そうか、そういう心配もあるんだな。
“敵意”に満ちた気配を感知するのはお手のもの、ここまでもごく自然に周囲に気を配っては来ていたが、ランダルに言われて初めて、ゲーツは“名”の持つ威力に気付く。
――ランダル・エル・マグ・イーレ、なんて、どうしたって目立っちゃうしなあ。
商家の並ぶ通りが交差するところに広場と町役場、そのすぐ裏手に宿屋が見つかる。隣が酒商なのに、いいのだろうか? ランダルはするっと入ってしまった。
「どうもこんばんは、今晩お世話になれますかね? おいくら?」
受付台にいる年増の女将に、如才なく交渉している。少なくとも喋らなくてよい旅なのは、ありがたいと思うゲーツだった。
「食事もお願いできます? ああ夕食は隣の酒商で……、ええ朝食無料? すばらしい」
「では記帳いたしますので、お名前を」
硬筆を取り出した女将に、ランダルは手をのべる。
「ああ、自分でいたしますよ。連れの分も」
屈みこんだランダル、その手元を見ていた女将が息を飲むのが、ゲーツに聞こえた。
――え、何?
「わたくし、マグ・イーレで史書家をしております、パンダル・ササタベーナと申します。こちらは助手兼用心棒の、ゴーツ君です」
はっきりとそう言ったランダルの言葉は、ゲーツの胸を強く打った。かみなり様の雷撃ってたぶんこんな感じなのだろう、いや経験したくはないけれど。
――何だ、そのむちゃくちゃ格好いい偽名はっっ? 俺のはどうでもいい感じで、実際どうでもいいッッ。しかし……“パンダル・ササタベーナ”? それ使うの絶対初めてじゃないだろう!? どういう綴りで書くんだよっっ。
「学者さまですか……はあ、どうりで字がお美しい……」
女将の感嘆につられて記名布の束を覗き込む。うっと思った。
十何人もの名前がつらつら並ぶ中で、一番下の“パンダル・ササタベーナ”と“ゴーツ”の二行だけが、ゲーツにもよくわかる流麗さで、ぎらぎら存在感を発していた。
思わず抱いてしまった小さな畏怖は、階上へあがるところで吹っ飛ばされる。
ランダルが鍵を一つしか持っていないのに、気づいたのだ。
――俺のは??
「嫌でしょうけど相部屋ですよ、我慢してね」
赤い巨人を前にした時よりも、ずっとおぞましい寒気を背に感じた。
「うちの経済状況もありますからね。まあ寝台ふたつだから、そんなにせせこましくはないでしょう」
「……それでは陛下、自分は納屋をお借りします」
全神経を集中させて誠実さを装ったつもりが、ランダルは右手の甲でぱんっとゲーツの腕を弾いた。
「ちょっと、呼び方ッッ。“先生”ですッ」
「……先生に、ご迷惑をおかけしますから」
「あ、何、寝てるときに歯ぎしりする人? 私、耳栓と目隠しするから全然平気よ。君にも耳栓、あげようか」
――そうだッ、俺にはこうしの守護があるではないか!!!
「……あの、先生。自分は城ねこのこうし様とも、親しくさせていただいてます」
「うん? あの子もお婆ちゃんだろうに、まだまだ元気だよね」
「……先生のお鼻の方は、大丈夫なのでしょうか」
“クロンキュレンの追撃”前後に言っていたではないか。ランダルは猫が大の苦手、飼っている人間が近づくだけでも、くしゃみが止まらなくなるのである。
グラーニャ程ではないにせよ、常日頃からべったりしているゲーツと同室なんて、絶対に無理なはずなのだ!
「ああ、あれね! 何でかわからないんだけど、この数年で治っちゃったのだよ!」
大逆転を決めたつもりだったゲーツは、びしいっと硬直した。
「ミーガンが言うにはね、ほら君が届けてくれる御方からの山羊乳蘇。あれを食べてるおかげらしいんだよね! 子どもの頃から悩んでたのが嘘みたいでさあ、本当に御方には感謝感激だよ。あ、ここだ」
ランダルは、かちゃりと個室扉に錠をさして回している。
その後ろ、傭兵人生でほとんど崩さなかったゲーツの鉄壁の無表情が、いま決壊寸前でぷるぷると青ざめていた。




