125 空虚四年目2:王と傭兵、旅立つ
そうして迎えた翌日。
ひょろひょろ老騎士に伴われてマグ・イーレ城にやって来たキルス夫人は、ゲーツの予想を裏切って、柔和すぎるほどに優しげな、つややか白髪の老女であった。
「初めまして、ゲーツさん。つねづねお話は伺ってます」
声まで低くやさしげだ。しかしお辞儀をしかけて、ゲーツはびりびりっと何かを感じる。
――いかんッ、この人はだめだ。これ以上、彼女の間合いに入ってはいけない!
本能の忠告に従い、だいぶ遠いところで歩み寄るのを止める。
その時、キルス夫妻の後ろに別の気配が生じた。
ふいと真横にずれるギティン夫人、彼女の右脇には杖が挟まって締め上げられ、するりっとゲーツの目の前に――柔らかくすっ転ばされたウセル侯が笑っている。
「やあ、皆さんおはようー。相変わらずうっつくしいね、ギティンちゃん」
くるり、すとん。ギティン夫人の手中に取られたウセルの杖の先が、持ち主の喉元にぴたりとあてられている。
「いやあね、いい加減あいさつ代わりに闇討ちなさるの、おやめなさいよ。アリストイードさんったら」(※ウセル侯の個人名である)
「はっはっは。次は吹矢を試してみようか」
「飛び道具は、私が反応して太刀払いしちゃいますよ。もったいないから、およしなさいって」
「なんと頼もしい皆さまだ」
ゲーツの横で、グラーニャが笑った。
ほんとに、この国の老人はどうしてこんなに元気なのだろう、とゲーツは内心で首を傾げる。
・ ・ ・ ・ ・
そうしてグラーニャとニアヴ、ポーム若侯、キルス夫妻にウセルと、皆でやってきた離れの玄関先では、すでに王が待ち構えていた。隣に双子とミーガン、オーレイ、長い杖を持っている幅広な影はキュリだ。
ティルムンもぐり理術士は、ランダルとゲーツに“旅の安全理術”をかけるために来ていた。
「たのむぞ、キューリ!」
「……のばすなや。そこ」
晴れやかな顔のグラーニャに、キュリがいつものまったり顔で突っ込んだ。
ティルムン発音は大変むつかしいゆえにグラーニャはいつも言い違えを指摘されているが、これはもう挨拶のようなやりとりになりつつある。きゅうりでなくキュリである。
「お前の理術は、実に頼りになるからな」
水あたり食あたりを防ぐ術、矢や投擲といった山賊からの物理的な飛び道具攻撃を防ぐ術(これは戦中有効だった≪防御壁≫と同じものだ)、この二つが二大おすすめだと言う。
「あとは、なくしものをしないようになる携行品むけの術、お財布ひらく時に本人確認が必要になる術、ぱっちもん掴まされにくくなる詐欺避け術とか、色々あんねんけど……。あんまりようさんかけすぎると、一つ一つの術のかかり方が弱くなるし、効き目も短こうなってしまうのんな」
「そうだね。はじめに言ってくれた、おすすめ二つだけかけてもらえば、あとは本人の努力次第で何とかなりそうなものじゃない?」
王は真剣にうなづいている。
「せやね」
「じゃあ、水・食あたりよけと、≪防御壁≫長期版をお願いしましょう!」
「ほい、行きまーす」
王とゲーツ、二人の前にかざしたキュリの理術の杖の先、三段こぶになったところが一瞬白く輝いた。
「はーい、これでひと廻りは安全です。気を付けていってらっしゃい」
「ありがとう、キュリちゃん!」
テルポシエ奇襲戦に続いて、理術をかけられるのは人生二回目だったが、ゲーツは別に何とも変化を感じない。
ただ、あの時の湿地帯で鼻をついたかぐわしい匂いが、ふわっと流れて行ったのがわかった。
「いってらっしゃーい」
「気を付けてくださいよう」
ランダル王はお忍びで、などと言っていたが、市街に通じる城門のまわりはマグ・イーレ騎士でいっぱいである。朝議の時間なのに、全員でお見送りに来たらしい。
練兵場で鍛錬をしているはずの傭兵団すら、ごっそり来ていた。
「みなさん、行ってきまぁす」
「……」
――この人、こんなに人気のある王様だったっけかなあ??
皆に、優雅に手を振るランダルの後ろで、ゲーツは無表情のままげんなりしている。
一度だけ、恨みがましく振り返った視線の先、ゾイ君ロイちゃんと両のお手々を繋いだグラーニャが、やっぱりにこにこ笑っていた。
・ ・ ・ ・ ・
「まずは、フィングラスに向かいます。道がわるいし、明日の夜に着けるかな。悪いねー、私も遅いし。合わせてもらっちゃって」
「……」
――近場じゃなかったの??
西方デリアドへと延びる街道上に馬を歩かせながら、ゲーツはちょっと驚いていた。意外にも、旅慣れしている風な王なのである。
一応生地はしっかりした“いいもの”、けれど地味を追求したような濃い藍色の毛織上衣に黒い股引といういで立ちで、何をどう見たって王様には見えやしない。
歩きやすそうな短め長靴をはいて、同じ色味の革鞄を背負っている。どちらも使い込んで年季が入っているようだ。このところずいぶん痩せて引き締まったから、出張中の中年官吏でも通るだろう。
一方のゲーツは、こちらも地味な田舎傭兵のていである。
黒羽の女神の紋章が入ったマグ・イーレ騎士の濃灰外套の代わりに、二十代から愛用している墨染の毛織上衣とその下の革鎧。公休日に牧場へ行くのと同じ格好をしていた。
物持ちの良さも伝説級の男である。
ちなみに、質素倹約を美徳とするマグ・イーレ以外のイリー諸国では全く自慢にならないのだが、本人が気を良くしているので許してやって欲しい。
「で、フィングラスの先がちょっと峠に踏み入るもんだから、馬はそこへ置いていくことになるかな……。ま、その辺は行った先で決めましょう」
十数年前、テルポシエ往復に同行した時はこんなではなかった。騎乗姿勢もやたらすっきりしているし、手綱の握り方だってさまになっている。何より、彼をのせた灰色ぶちの雌馬が落ち着いている。
――実はけっこう、出歩いているのかな?
「私ね、日帰りの旅はけっこうしているんですよ」
ゲーツの心の裡を読んだかのように、王は言った。
「と言っても、ガーティンローくらいがせいぜいだけど。こっち方面は、リプケの町あたりまで来たかなあ……。まあ、マグ・イーレの領地内なら、何とかね。昔つくった土地勘を取り戻すのって、ちょっと大変です」
それにしても、馬上なのにだいぶ聞き取りやすい話し方である。以前のぼそぼそ調はどこへ行ったのか。
ふ、と王が馬を寄せて来た。
「それで、この旅を機会に君としておきたい大事な話があるのだけれど……。ま、それはおいおい」
なつかしきぼそぼそ調が戻ってきた。
ぐっ、とゲーツは腹に力を込める。やっぱりなッ、黒い魂胆があったのだなッ。
「……機密事項は……」
追加費用をいただかないと守秘できません、と言いたいところをどうにか抑え付ける。
「ちょっと違うんだ。国のこともあるのだけれど、……御方に関わることでね」
今やゲーツは、腹の底から臨戦態勢となった。
ぶふ、黒たてがみが反応して小さく首を振る。
――何だあああッ。この期に及んで俺からグランを取り上げるとかほざくつもりかッッ、あ! まさかゾイ君ロイちゃんを人質にして!?
「君ねー。本当に御方のことになると、わかりやすくなるよね」
一方のランダルは大人の苦笑である。
「君の御方グラーニャをどうこうとか、悪く言ったりとかじゃありませんよ。双子ちゃんは王家の子として、……私も親の一人として育成に参加はしているけれど。でも女性としては、彼女はゲーツ君と一対でしかない。運命の女って言うのだろうね」
ゲーツはがくんと来た。実はランダルの言っていることがいまいち分からない、……わからないままに最後の部分はちょっと素敵じゃんと思ったりもした。
――理解されてるっぽい? あ、そういやお産の時も、助けてくれたんだった。
「だからね、君は今後も末永く、安心して御方と仲良くすればいいんです。……ただね、」
分かれ道である。王はちょっと標識を見ただけで、すぐに進路を決めた。右。
ぽくぽくぽく……他に誰もいない街道で、二騎の歩む蹄音だけが風にまじる。
「……ただね、テルポシエの姫としての御方、というのがあるんですよ」
「?」
「彼女はこの国、マグ・イーレそのものにとっても、運命の女性なのかもしれない」
「……」
≪白き牝獅子≫としての彼女のことを、ランダル王は言っているのだろうか?
「……確かに、皆に英雄視されてらっしゃいます」
「ああ、それは彼女の性格よね。すごいよね」
ことも無げに、ランダルはうなづいた。
「騎士団を引っ張るお妃さまというのも珍しい。けれどあれだけ皆の信頼を得て、しかも先頭を突っ走ってゆけるようになったのは、ほんとに御方自身の努力の賜物です。なかなかできることじゃあない。私なんかとても真似できません」
「……自分もです」
ここのところは、素直に同意である。
「ああ、でもね。君がすぐ後ろにいるって言うの、大きいですよ? 例え御方がもっと大きくて、男まさりの頑丈な女性だったとしても、ゲーツ君の護衛なしにはキルスやウセルが戦場には出させなかったと思うね。だからそこの部分でも、君たちは一対なの」
褒められているらしい。どう反応していいのかわからなくなって、ゲーツは黙ってしまう。
「おや? あそこの丘のかげに、大きな農家さんがあるね。ひるをお世話になれないか、ちょっと行って聞いてみよう」
ランダルはいそいそと馬の鼻づらをそちらに向ける。“大事な話”は尻切れとんぼになった。




