124 空虚四年目1:ゲーツ大困惑
イリー暦194年。四年目の空虚の話である。
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ゲーツ・ルボは困惑していた。
平生彼は、その心の裡を表情に出さない。そういう風にできている男である。
だから今だって、傍から見れば何をどう感じているのか、さっぱり読み取ることのできない無表情顔なのだ。
「……自分が、陛下の旅のお供ですか」
「そうー! ほんのひと廻り程なんだけどね、ぜひ頼むよ。君にしか頼めないしさあ」
卓子の向こうでは、隠居中のマグ・イーレ王ランダルが笑っている。
そのすぐ横では、彼の第三妃ミーガンがうふふと笑っている。
「お忙しいところを本当に申し訳ないのですけど、ゲーツさん。わたくしからもお願いしま……いた、いたた、引っぱるのはなしよー、ゾイくーん」
ミーガン妃のふわふわ巻き毛を、その膝の上に座る小さな男児が手に絡めとっている。
さわさわさわっ、ゲーツの硬い手を、やわらかい小さな手がさすった。
「オトヌ」
真下から呼ばれて、ゲーツは自分の膝にのせた、やはり小さな女児の顔を見た。
「おおとうたまを、おねがい」
――ぎゃひーん、ロイちゃんまで。
グラーニャそっくりの超絶悶絶壮絶にかわいらしい娘に言われれば、もうこう言うしかないではないか?
「……詳しいお話が決まりましたら、グラーニャ様を通してお言いつけ下さい」
「あ、良かったー! 実はもう、あさって出立って決めてるの。じゃあ御方たちに言っておくね」
――うぎょええええ、どういう行動力なんだよ!? あんた、本当に俺がクロンキュレンで助けたおっさんと同一人物なのか!?
その日はゲーツの公休日であった。
いつも通りに、リラの遺してくれた牧場に行って、経営を任せている夫婦に状況を聞いてくる。
箱いっぱいの山羊乳蘇を黒馬に積んでマグ・イーレ城へ帰還、子ども達の暮らすランダルとミーガンの離れにそれを届けに来た。
そうして何とも急激なる一撃、ランダルの旅行同伴を依頼されてしまったのである。
「へえー、陛下も外へお出かけされるようになったのだな!」
――いや、そこじゃないよ?
公務を終えての夕食後、ようやくグラーニャと二人だけになれた城二階の居室で、髪を梳き梳き第二妃は明るく言う。
「まあ、いいんじゃないのか? ひと廻りくらい。双子の面倒を見て頂いている、恩返しのつもりで奉公して来い、ゲーツ」
「……すんごい嫌」
――グランと二人旅なら万々歳よ? まあ、キルスさんとかジーラ、ハナンのあたりと一緒ってんならまだいいよ。けどランダルのおっさんだよ??
あんまりなじみ過ぎてもはや誰も何も突っ込まないが、ゲーツはマグ・イーレ第二妃専任護衛の傭兵、……という肩書をかついだ公認の間男である。もっと何かこう、素敵な名称はないのだろうか。
そしてもちろん彼こそがゾイ君ロイちゃんの父親なのであり、その双子をグラーニャの本来の夫であるランダル王が、現在責任をもって大切に育てている、そういう実に不思議な状況のマグ・イーレ王室であった。
「指名してきたということは、向こうはお前を嫌と思っていないのだ。それに護衛一人と言うなら、遠出でもなかろう」
年季が入ってもやっぱりかわいい萌黄色の夜着を着て、蜜蝋の灯りの中でグラーニャが笑っている。出産後ちょっとだけ太った、そこの所がまたよろしい。
「……」
――嫌だ嫌だ、絶ッッ対に嫌だっ。ひと廻りもグランと離れてられるかッ。化け物入りの大戦争とあの怪我をせっかく生き延びたというのに、これでは俺はグランが恋しくて死んでしまうぞッッ!?
ひとは彼のことを伝説の傭兵と呼ぶ。確かにゲーツの強さ、判断力、および運の良さは規格外であった。
しかし、彼のグラーニャに対する執着心もまた、非常識の域なのである。この辺は無表情さが幸いした、仮に表情や行動に直に出ていたとすれば、世間様はどん引きであろう。
「さー、寝ようか。俺も今日は、疲れたぞ」
対照的に、グラーニャはさっぱりしていた。
「おやすみ、こうしちゃん」
納戸に入れたねこ籠の中に、みっしりはまって丸くなっている老猫こうしを撫でてから立ち上がりかけた所を、ひょいと持ち上げる。
「おっと……」
白鳥の羽飾りをわんさとたくわえた銀兜をかぶり、背に黒羽の女神の紋章が映える白外套を着れば、戦線で“白き牝獅子”として巨大に輝くグラーニャではあったが、実際には本当に小柄な女である。
しかしこの両腕に軽い存在こそが、ゲーツにとっての生の全てなのだ。
グラーニャの生が終わる時、それは彼の生も終わる時である。欠けてはならない。しじゅう守っていなければ安心できない。だからこそ常時護衛なんて出来ているのだ、本当は公休日だって遠慮したいくらいだった。
「グランの代わりはどこにもいない」
ぐーっと顔を近付けて言ってやる。
――近眼でも、この距離ならば! 俺の眼にお前しか入っていないことがわかるはずだぁぁッ。
「うむ?」
「そして俺の代わりに、グランの常時護衛をできる奴もいない。代役を見つけるまで、陛下の同伴はできない」
――うん、さすが俺だよ。言い逃れのできない、ものすごくまともな理由ができたぞッッ。
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「大丈夫だいじょうぶ、キルスの奥さんがやってくれるよ!」
翌日の執務室、ニアヴの机を囲んでの打ち合わせで、ウセル侯のうまみ声がゲーツの安堵を粉砕した。
「ああ、そうか。先生に頼めば万事解決だ。どうだろう、キルス?」
「いいですねえ! 最近ひまにしていますから、張り切って来ますよ!」
いつも通りにグラーニャの背後に控えながら、ゲーツは胃の中にいやーなものを感じる。
そしていつの間にか、皆の視線が自分に集まっているのに気付いた。
「ゲーツ。キルスの奥さんはギティンさんと言ってな、体術の先生なのだ。たいへんお強くて、俺も若い頃お世話になった。貴族王室の子弟に、秘密裏に稽古をつけていらっしゃるのだ」
――全ー然きいてねえよ、何なんだよそれッ。
「まあ、秘密のキヴァン体術ですからね。ゲーツ君知らなくても仕方ないよね」
「そうそう」
「あ、あとミーガン様からお申し出がありまして」
爽やかに話に入って来たのは、ニアヴの横に立つリンゴウ・ナ・ポーム若侯である。
「陛下とゲーツさんご不在の間、グラーニャ様に離れで過ごされては、とのことです」
「ああ、そうか! 双子ちゃんとミーガン様も寂しかろう。ギティン先生と一緒に、ぜひそうさしていただこうかな。こうしも連れて……」
グラーニャはあくまで楽し気だ。
「女子会だわねー」
ニアヴがのんきに笑った。
「というわけで、何の心配もいりませんよゲーツさん! 安心して、陛下のお供に行ってらして下さい」
「君なら、近衛一隊引き連れて行くより確実に、陛下を守ってくれるだろうて! あ、領内なんだろうねえ?」
はっはっはっは。一同がわらった、何の邪気もない春の陽のような和やかさで。
――……俺の居場所って、ここじゃなかったのかしらん、……ちっくしょおおおおおッッ。




