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海の挽歌  作者: 門戸
空虚三年目 丘の上のメイン
122/256

122 空虚三年目2:とある湖畔で朝の牛乳

「あれっ?」



 差し込む朝日に目覚めてみると、女の姿がどこにも見当たらない。珍しいことだった。


 もしゃもしゃに乱れた縮れ髪をかき上げ、草色外套を引っかけながら、ミルドレは湖畔の小屋を出る。


 元々は釣り人狩人のための宿泊場だったのだろうか。打ち捨てられていたこの朽ちかけ掘立小屋に、昨晩は泊まった。かの女がにらみを利かせたおかげで、いやな虫に刺されることもない。


 上がり口の段をおりる、吐く息がわずかに白む、眼前に湖を眺めた。たなびく靄を透かして、樹々が映り込んだ深緑色の水面と、淡青色の空をひろく見渡してみたが、聞き慣れた羽ばたきの音はどこにもない。


 蒼い双眸が不安でその色味を濃くしかけた時、年端のゆかないような声が自分を呼んだ。



「ミールドレ――」



 すぐ近くの木立の裏から、小さな影が現れた。



「あららららら」



 七つか八つかの幼い少女、しかし紛れもなくかの女である。



「おはよう」



 素焼きのかめを両手いっぱいに抱えて、とんでもない笑顔をこぼしている。


 大きな黒い瞳が、赤くなった丸い頬っぺたが、はち切れそうに輝いていた。


 めえー、とか細い声がして、その後ろから純白の仔山羊がぴょこんと出てくる。



「あらららららら、これはまた何と言う」


「ここちょっと飛んだ先に、農家さんがあったの! そこの女の子」


「やぎちゃんは?」


「なぜだかついて来たわ、おまけちゃんよ」


「かわいいですねえ」


「わたしが? やぎが?」


「どちらも、反則級にかわいらしいですよ」



 言いつつミルドレは、仔山羊の桜色の鼻先に指を伸ばす。


 長い長いまつ毛の下から潤んだ黒い瞳を輝かして、やわらかい生きものはミルドレの指先をなめた。



「あらららららら」



 かの女はかめを地面に置くと、さっと小屋に入ってゆく。



「この女の子ね、牛のお乳を搾り終えたところだったのよ」



 持ち出してきた取っ手付きの携帯椀を、ミルドレの手に押し付けた。



「だから、さらってきちゃった!」



 ミルドレは思わず、椀を落っことしそうになる。



「だ、だめですよ! 冗談でもそんな物騒な言い方しちゃあ」


「誰にも聞こえないもん」


「いまは聞こえちゃいます!」


「あ、そっか。でもまわり、誰もいないわよ」


「油断はいけませんって! 聞く人が聞いたら、厄介なことになります」



 ミルドレの手中の椀に甕の乳を注ぎながら、幼いかの女は上目遣いにこちらを見上げる。



「そう?」


「そうですよ。だからね、急いで返していらっしゃい」


「……」



 甕を抱えたまま、下を向いてちょっとふくれている。


 椀を脇にそっと置いて、ミルドレはその小さな顔、初ものの水蜜桃みたいな頬を両手のひらで包んだ。



「牛乳を、ありがとう」



 ふわふわした黒髪頭のてっぺんに、ぶっちゅううううと音を立ててくちづける。



「こんな小さな体で、甕を抱えてくるのは大変だったでしょう」


「わたし、本当は歩けるのよ!」



 もう機嫌が直っている。


 はじけるその笑みを永遠に憶えていたくて、ミルドレはじいっと見入った。たぶん今なら、目の中に入れても平気かもしれない。



「……でも、ほんとにそうね。調子に乗っちゃった、ごめんなさい」



 かたり、と眠りに落ちるように少女の身体が前屈みになり、それを支えるようにしてかの女がいつもの姿で現れた。と言っても頬は赤いまま、嬉しそうに唇をかみしめて、さあっと翼をひろげる。



『おじいさんのところに返してくるわ。牛乳、飲んじゃってね』



 眠る少女――彼女があるべき本来の姿、切り詰めたとび色おかっぱの下にそばかすが浮いている――と仔山羊、甕をふわりと抱えると、軽やかに左右の翼を羽ばたかせて、あっという間に靄のたなびく上空へ飛んでいってしまった。それを眺めて、騎士は椀を干す。



「あー美味しい」



 椀を湖水ですすいでおこうか、と緩やかにさざ波の寄せるみぎわまで近づいた。


 ずずっ。


 妙な音を耳にひろって、ミルドレは固まった。その場に立ち尽くす。


 ずずっ、ずっ……


 息を止めて視線だけを回す、ミルドレの数歩横を巨大なけものが、……あからさまに大きすぎる何かが、のっそりのっそりと歩いていく。



――うらららららら……!



 見る力を持った者、みえやすい者全員が、精霊に対処するすべを心得ているということはない。


 ミルドレは死んだふりをしようかと考える、しかし水棲馬に熊の対処法は通じないとすぐに思い直した。彼だって年季の入ったテルポシエ一級騎士だ、人間相手ならどうにでも切り抜けられる。けれど精霊、しかも水棲馬あいてに一人で立ち向かうのは、何をどうしたって無謀というものだ! どうしようどうしようどうしよう(以下略)。


 濃い靄の中を、それは相変わらず悠然と歩いて、やがて水にちゃぷん、ざぶざぶと入って行った。


 ちなみに彼が遭遇したのはただの水棲牛、水棲馬と違って全く害のないおとなしい精霊だったが、それを知らないミルドレは全身に脂汗を浮かせつつ、硬直して椀を握りしめていた。



――黒羽ちゃ――ん!! はやく帰って、助けてくださ――い!!



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