121 空虚三年目1:丘の上のメイン
イリー暦193年。三年目の空虚の話である。
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「ご苦労さま。わたしよ」
エリンの目の前だけ、すうっと霧が引いてゆく。
白い壁に開いた細い抜け道を進む時、きょろきょろと動く霧女たちのまるい目が、そこここに見えた。
彼女らは丘全体を取り囲んで、外敵からメインを護っているのである。
霧がかかっていない時は、丘全体が見えなくなっているが、これはパグシーが交代して不可視の結界を張っているのだ。
なだらかな斜面をのぼれば、そこは王の仮宅だった。
大きな樫の樹の懐に抱かれるようにして、天幕がぽつりと張ってある。
「メイーン、いるー?」
いないわけないのだが、とりあえず聞いてみる。
今日は天気がいいから、メインは倒れた巨石のひとつに座って、陽光を浴びていた。小さく手を振って応えるそのすぐ手前で、けもの犬ジェブがお腹を丸出しにしつつ、草上に背中をすりつけている。
けもの犬はくるりと回転して、ひとっ跳びでエリンの前にやってきた。
『おいしいの、ちょうだい?』
「お利口ちゃん、今日はかき殻よ」
『かりかり、大好き』
ジェブは嬉しそうにまとわりつく。
自分ではふんわりやったつもりらしいが、エリンは精霊の勢いに押されて激しくよろけ、苦笑する。
慣れっこになってしまったケリーと、彼女のひく驢馬が、巻き添えをくわないようにするっと避けた。
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赤い巨人の呪いによって、メインは丘を下りることが出来なくなっていた。
その事実は幹部と、ごく一部の傭兵達だけの秘密である。
パスクアはすぐに天幕を張ったものの、病人のように衰弱しているメインにはもっと堅固な住まいが必要と思い、工兵達を連れて石小屋を建てさせることにした。
しかしどれだけ頑丈に基盤を組んでも、次の日の朝になると、作りかけの家はばらばらに壊されているのだった。
「あいつの、お気に召さないらしい」
メインは力なく首を振る。あいつ、……はっきりと呼ばないが赤い巨人のことである。
何度挑んでも、同じだった。パスクアと工兵達は仕方なく、天幕の方を補強した。
“緑樹の女”樫の樹のヴァンカがその側に寄り添って、根と幹、梢で天幕を守るような形に生えている。
元々は二重の円環状に立てられていたのだろうか、丘の頂上には倒れた巨石がいくつもある。そのひとつの陰に組まれたかまどを使って、エリンは湯を沸かす。
ケリーはさっと天幕の中を片付けて、持ってきたきれいな服と布類を運び込む、メインの使ったものをまとめて荷にする。
二人がたまに見かける、節くれだった丸太のような老婆がいて、病人の世話の一番きつい部分は、このひとがこなしてくれているのだそうだ。この介護妖精のために、エリンとケリーは天幕の隅にいつも忘れず、山羊乳の瓶や乳蘇の包みを置くことにしている。
まだほの温かい、小鍋に入れて来た食事をメインが食べ終えて、白湯をたくさん飲む。この時、メインとエリンはぽつぽつ話した。
今日は巨石の上に座り、エリンは基本的なことを聞いてみた。
「ねえ、メイン。精霊って、何なの」
「生命だよ」
「いのち? 生きもの、とは言わずに?」
メインは首を振った。伸び放題のひげが一緒に揺れて、やせ細っているのにかさばっている。
「岩や霧や水を、生きものと呼ぶのは少し違うだろ。けれどそれらの中にも、心はある。心のあるものを、俺は生命と思っている」
わかったようなわからないような、エリンは首を傾げて次の言葉を待った。
「彼らの生き方は、俺たち人間や他の動物とは違う。そしてどうやって精霊になったのか、精霊として生まれたのかは、ひとりひとり異なるんだ。
海の娘たちのように、遥かに旧い時代からずっと生きているのもいれば、人間や動物の魂が変化したものもある。うちの母さんとか」
エリンは樫の樹を振り仰いだ。
昔から生えているような隆々とした大樹ではあるが、“緑樹の女”と化したメインの生母ヴァンカの、擬態なのである。
「“丘の向こう”に旅立ちかねている魂を助けて、精霊にすることも昔はよくあったらしい」
その秘術を自ら使ってしまって、哀しい結果になったことを、メインは今でも後悔している。フィンバール以来、さまよう亡霊に会っても決して近寄らないようにしていた。
「ジェブやパグシーやプーカも、昔は人間だったのかしら?」
「うーん、それがね。あんまり永く生きてると、そういうことを忘れちゃうらしいんだ。緑の猫やパグシー、プーカなんかは母から引き継いだ精霊なんだけど、母もその前の代から継いでるし、もう何世代も一緒なんだよね。もしかしたらご先祖本人たちなのかもしれないし、全然違うのかもしれない」
『ジェブ、ずっと犬だもん』
ぬうっと割って入って来たけもの犬が、エリンの膝に頭をのせた。
『なでて』
「はいはい」
「母も、精霊としては新参者なんだけど。既に人間の言葉をかなり忘れちゃってるし……」
メインへの想い、その父への憎しみ、……そういった濃い感情は強く残る。
エノ亡き今、精霊としてのヴァンカの心は、ひたすらメインを巨人その他から守ることにのみ、注がれているようだった。
エリンに両腕で抱え込まれ撫でられて、やがてジェブが気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らし出す。
「……? 犬って、言ってなかったかしら」
「あやしいもんだよね」




