120 空虚二年目5:ナイアル、タエに出会う
みどり薫る、峠の細道。
路傍にうずくまった老婆は不安と焦燥で、もう何度目になるか知れない、深い溜息をつく。
せっかく早い時間帯に里の市まで行ってこれたのに、帰り道で足を挫いてしまった。
自家製タエがよく売れたものだから、食料を買い込み過ぎて背負い籠を重くしたのがいけなかったのだ。
そして今日は、たまたま杖を持ってこなかった。
こんなにたくさん美味しいものを手に入れても、家に帰れなきゃどうしようもない……。
山間のうちまではあともう少しなのに、本当にどうしよう?
人通りの全くない道、助けすら呼べない。
情けなくって涙がにじむ。先立った夫が恋しくて、そうっと樹々に向かって呼びかけてみる。
〔あなたー〕
時々、彼は彼女に応えてくれるのだ。離れやしないよと言った約束を守って、やさしく励ましてくれることがある。
ざく、ざく、ざく……。
老婆ははっとして、うずくまったまま道の彼方を見る。
人影がこっちに向かってのぼって来る。麓の集落の誰かが、珍しくやって来るのだろうか?
期待はやがて不安に変わる、近づくにつれて全然見知らぬ人とわかったからだ。
その人はまっすぐ、老婆に向かってきた。
〔コンニチハ〕
〔……こんにちは〕
男の言葉があんまり変な言い方だったから、彼女は怖くなってしまって、必死に挨拶をかえす。
〔オカアサン、ドウシタノ〕
――ええ? 誰よ、わたしはあなたのお母さんじゃないわよう!
恐慌をきたした老婆は、自分の目の前に男がしゃがみ込み、外套の頭巾を跳ね上げるのを見て、もう泣きそうになる。
――いやああああああ! 外国人だわあああああ!
先がつんつんはねる短髪は金色、なま白い肌の顔にぎょろりとした翠色の瞳が光っている。
――持ち物を全部取られちゃう! 殺される! 助けて、あなたー!!
思わず彼女は起き上がって逃げ出そうとした。しかし挫いた左足首がぐきりと痛んで、みじめに転びかけた、
……ところを男に受けとめられる。男は老婆を優しく地べたに座らせると、言った。
〔ケガ? ビョーキ?〕
〔あ、足を……〕
しどろもどろに言う間、男は自分の背の麻袋をするっと前に回した。
脇に置かれた老婆の背負い籠を持ち上げる。あ、やっぱり取られてしまうのかしら……。
男は彼女の前に再びしゃがんだ。そして背中を向けて、肩越しに笑ってみせた。
・ ・ ・ ・ ・
山肌にひっそり建った老婆のうちは、なかなかに風情のある木組みの家で、ナイアルは感心してしまった。
「すげえなあ、こんな見晴らしのいいとこに、婆ちゃん一人で住んでんの?」
峠道で助けた老婆は、恐怖を通り越して安堵すると、すっかりナイアルに心を許したらしい。
小鳥がさえずるような早口キヴァン語でさまざまをまくしたて、杖をついてしゃかしゃか家の中で立ち回り始めた。
タエ・ノンデガンショー!! 満面のくちゃくちゃ笑顔でそう言うと、台所へ引っ込んだもようである。
「うーん、しっかしわかんねえぜ。何を言ってるんだ」
しゅんしゅん、こぽぽぽ……とお湯の沸く音がして、やがて老婆は片手に杖、もう片手に浅い籠をさげて居間に戻って来た。
ひくい木の卓子に、厚みのある小さな陶器椀を並べてこし器をかぶせ、急須の中のものをそうっと注ぐ。液体の濃さがみえた。
「?」
――おっ? 香湯かな?
老婆は何を淹れたのだろうか。全く知らない香りがして、ナイアルは興味をそそられる。
〔コレハ、何デスカー〕
ほげっ、と口を四角く開けて、老婆は驚愕したらしい。
〔いやだ、お兄ちゃんタエ知らないの!? これは、タエよ!〕
〔タエ??〕
〔イリーの国には、タエがないの?〕
〔ナイネー〕
〔おいしいのよ、飲んでごらん。熱いからふうふうするのよ〕
「ほんじゃ、いただきます。……」
ナイアルは飲んでみた。そうして、言葉を失った。
「……」
空になった椀に、老婆がお代わりを注いでくれる。
立ち昇るかすかな湯気の向こう、小さく干からびた老婆は心からの笑顔で、ゆっくり言った。
〔多恵にして、妙なるものだから、タエと言うのよ〕
腹の底に“熱”を感じて、ナイアルはふーっと息を吐いた。
「……ありがとう。タエ」




