118 空虚二年目3:エリンとナイアル
とん。
その夜だいぶ更けた頃、ひくく扉の叩かれる音が響いて、エリンは取手に飛びついた。
「よう」
うすく開けた隙間からのぞいた顔は、一瞬知らない人に見えて、エリンは思わず息をのみかけた。……が、頭巾の下でぎらりと輝いたぎょろ目が、片方ぱちんとつぶられる。
するっと入って来た男は、ちゃんと革鎧にお仕着せ墨染上衣まで着ていて、本当にエノの平傭兵にしか見えない。
頭巾をぱっと上げた、つんつん金髪は黒く染められていて、太い眉毛もごわっと口周りを覆う髭も、黒ぐろしている。
「ナイアル君。あなただったのね、ついて行った副長って……」
「久し振りだな。よう、ケリー」
「こんばんは、お兄ちゃん」
覆面布の上の目が、笑って頷く。
「フィングラスからの街道をずっと北上した所に、火山丘陵地帯がある」
ずばりと核心から話されて、エリンはぎりっと緊張する。
「そこのアルティオって集落に住み着いた。俺っちはそこへ到着する前にメイン嫁にふん捕まったから、面は割れた。まあ、どっちみちあんな所まで行きゃあ、キヴァンの奴らに捕まってつるし上げ決定だからな」
「……キヴァンの地にいるの!?」
「メイン嫁が、ずーっと前に世話になった一族がいるんだ。対エノ意識の強い所だから、俺たちのことは割とすんなり受け入れてもらえたぞ」
「……ちょっと待って、あの子は半分エノなのよ?」
「それ言ったら、メインの娘だってそうだろがよ。とにかくそこんちのおばさん首長は、四人を保護すると決めたからな、安心していい。座っていいかい」
「え、あ、はい」
かた、とナイアルは卓子脇の腰掛に座る。
「ごめんなさい。あなたはそんな遠くから、帰って来たばかりなのよね」
エリンも側にかけた。
地図上では知っている、でもエリンは内陸部のフィングラスにも行ったことがない。その先のキヴァンの地なんて、“丘の向こう”なみに遠く遠くに思えた。
「……イリー側に入れば、馬が使えるからいいんだけどな。キヴァンの山ではどうにも歩かにゃいかんから、帰るのにひと月以上かかっちまった。まあ道慣れしていけば、これからはもっと速く行けるだろ。安心しな」
エリンはきょとんとする。
「これからも、って……」
「ああ、レイさんとも話つけたけどな、連絡係としてこれから数か月おきに、俺っちがこっちと向こうを行き来する。メイン嫁もまあ、完全に逃げたいんでなくて、こっちの状況も知っときたいんだな。そのために、またしても持ちつ持たれつだ。おばさん首長が何か向こうのお守りをくれてな、それ見せりゃイリー行商人みてえな形で、キヴァン領を通行できるとよ」
「……」
「まあ、俺っちはこう見えて健脚なのだから安心しておけ。えーとな、にしてもキヴァン語と言うのは実に難しいぞ。潮野方言どころでないから、習得も一筋縄では……おいこら、泣くんじゃねえ」
「……」
「リフィも、キヴァンの食い物とって元気だ。メイン嫁の乳のんで、坊もまるまる太ってる。石組み小屋は壁が厚くって、その中で羊皮にくるまってぬくぬく寝てんだ、心配いらねえぞ」
「……寒いところなの?」
「いや、ここと似たり寄ったりだな。まあ雨が少なくてちと涼しいか……、 あのなぁ、うーんとな、……山がすんげえ緑なのよ」
「?」
「ちょっと高い所へ登れば、見下ろす先が緑の海に見える程に、ぜんぶが緑だ。あれを見て育つから、坊の目ん玉はさらに翠色になるぞ」
「そうなの……。ところでナイアル君」
貸してもらって何だけれど、エリンは突込みを入れることにする。それが、ナイアルの必死の慰めに対する礼儀だと思った。
――この人、安心しろって何回言ってくれたろう?
「エノの平傭兵が、きれいな手巾持ってちゃおかしいわよ」
「へっ、こちとら腐ってもテルポシエ男子でえ」
・ ・ ・ ・ ・
オルウェンとリフィの行方を知っているのは、ナイアルとレイだけらしい。
特に、本当に居場所を掴んでいるのはナイアルだけだった。各地に散った第九団の作る反抗組織にも、当分王子の存在を知らせないでおく方針なのは変わらない。
この人は信頼できる、いやオルウェンへの“糸”としてナイアルを信じることにしたエリンは、だから打ち明けた。
「……お前が呼んじまったっての?」
お前呼ばわりされても、どうしてか全く腹が立たない。どころか変に懐かしい、そういう風に話されるのがごく自然な気がしている。
「そう、赤い巨人の元凶はわたし」
なんか話長くなりそう、と気を利かせたケリーが沸かしてくれた白湯をぐびりと飲んで、ナイアルは鼻からすーと息をついた。
「……代々テルポシエ王家の人間だけに、伝わっていた存在とな。そんなとんでもねえのが呼べるなら、何故陥落前に呼ばねえかな」
「あやつれるものとして伝わってなかったのよ。メインが精霊使いでなければ、わたしも戦力とはみなさなかったわ」
「……レイさんやうちの連中から聞いた話でしか知らんが、凄まじい大怪物なのだろう? また暴れ出す可能性はあるのか」
「わからない。今はメインと一緒に、丘の中でおとなしく眠っているようだけど……。呼び出した時みたいに、テルポシエ王家の人間、……わたしの血を丘の上に流したり、すぐ側で戦いが起これば、血の匂いを嗅ぎつけて目覚めるだろうってメインは言ってる」
ナイアルは、じっとエリンを見据える。……メインメインと、ずいぶん言うな?
「仲良いのか。エノ首領とは」
「ものすごくぐったりしてるのよ、あの人」
ことも無げにエリンは答える。
「仲が良いわけではないけれど、傷の手当てをしてからけっこう話はしているわ。本人は丘を離れられないし、動く気力もないから、報告をしに行く幹部が毎日、食べ物や水を持って丘に行くの。わたしも、歩けるようになってからケリーと何度か行ったわ。戦いの時に姿を現しているから、彼の精霊達もわたしに慣れてるし」
「ほー……」
見えやすいナイアルとしては、鳥肌の立つ話である。だが、面白いと思った。
「マグ・イーレ含め周辺各国は、赤い巨人というどえらい怪物を従えるエノ首領にびびりまくって、テルポシエに手が出せない。その実メインは、赤い巨人にとらえられて身動きが取れない。
……お姫、これはじつに良い状況だと思わんか」
「えっ?」
「赤い巨人のことを知ってるのはテルポシエ王室の人間だけと言うが、マグ・イーレの叔母ちゃんは知っているのか」
「知らないと思う。長男長女にしか伝えられないから、母から聞いて知っていたのは兄とわたしだけ。父だって知らなかった」
「よし。……さっきお前は呼び出しちまった、やっちまった的に俺に言ったが、ここで反省してみよう。他に、打てる手はあったのかい」
ぎょろんと大きな目が、エリンを飲み込むように見開かれた。
「なかったわ」
即答する。エリン自身、何百回と自問してきた問いである。
「北部の旧本陣と東部陣営に置いた軍団を呼び戻しても、理術士隊のいるマグ・イーレにエノ軍が対抗できたかはわからない。オーランの駐在軍で挟み撃ちにする手はあったけど、こっちは理術なんて使えないんだから、湿地帯に阻まれてどうにも駆けつけられない。
極めつけにもうその時、オーランはマグ・イーレ軍の本隊とガーティンロー軍……混成イリー軍に包囲されていた」
ナイアルはうん、とうなづいた。
「俺っちも、おんなし見解だ。めちゃくちゃな展開ではあったが、理術士連れの奇襲と言うマグ・イーレの冗談作戦に、冗談怪物を呼び出してぶっつけたお姫の判断は正しかったと俺は思う。
巨人が出てこなければ、テルポシエはマグ・イーレに蹂躙されて、今頃統一イリー国家が始まっていたかもしれんぞ。ほれ、あのマグ・イーレ王妃どもの肝いりでな?」
「……」
「それを阻止して、今のにっちもさっちも行かん絶妙均衡状態に持ってきたのはお姫だ。ついでに言や、オーランの無血開城から最短解放へつなげたのも、お姫がイリー親書をルニエ公に書きまくったからだろ。
膨大な量のイリー親書での交信ができている、話のわかる奴らもいるから武力抵抗せずに投降しておけと、行動で示したんだろが。迷うなよ、お前は女王として最善の策を講じている」
ぎくっとしてエリンは胸の奥があつくなる、……実際口に出してそう呼ばれたのは初めてだ。……女王!!
「呼びやすいから、お姫お姫と言うがな。お前はここんち、テルポシエの女王だ。お前にしかできない、正しいことをしている。そのまま行け、迷うんじゃねえ」
エリンはうなづいた。
「……続けるわよ」
「よし。そいでな、提案がある。もっと、メインと話せ」
「えっ?」
「敵を倒すにはまずそいつのことを良く知れ、つうのは本当だぞ。赤い巨人が精霊なのか別もの怪物なのかはよくわからんが、少なくともメインは、常人よりよっぽどそいつに近い存在なのだろ?
ともかく奴は精霊の専門家だ、何でも聞いて学んで来いや。一緒に、巨人の対抗策を考えてみたって良いだろう」
きらっ、とエリンの瞳が輝いた。
「今のところ、マグ・イーレの奴らは赤い巨人がエノ軍の味方と思っているだろう。どうやって巨人を封じるかを先に見つけ出した奴が、今後のイリー世界の覇権を握る。お姫はメインの側から、それを探すんだ。おっと、嫁と娘の居場所は言うなよ? もちろん」
「……わかったわ」
「お姫は巨人を呼び出した張本人だ。お帰りいただく方法にだって、一番近いかもしれんぞ」
いつの間にか、エリンは笑っていた。久しぶりに、あの挑戦的な光をともした笑顔で。
「と言ってもな、今はその……騎士姉妹もいないのだし、無理はするなよ?」
シャノンのことは濁して喋るナイアルである。
「東の丘は、北門出てすぐ右なのよ。気楽に通えるわよ」
「あたしが一緒だしね」
ぽそっと、でも力強くケリーが割り込んで来る。
「それに、ろばちゃんを借りられるから大丈夫だよ」
「頼もしいな? さすがだ、187年度槍試合大会、優勝者め」
ケリーがすぽん、と覆面布を下ろす。目をまん丸くして、……驚きの笑顔がそこにあった。
「……なんで知ってんの、お兄ちゃん」
「けっ、全市民の度肝をぶち抜きやがってよ? あんな栄光のお子さまを、忘れられる奴がいるかい」
・ ・ ・ ・ ・
「じゃあこっち、裏口から帰るかんな。すぐ鍵かけろよ」
「ええ。気を付けてね」
グラーニャ達マグ・イーレ軍が侵入してきた旧い地下道、“おしもの道”は奇襲後に全て封じられていたが、新北棟の地下牢から北の墓所へと繋がる“通路”はいまだエノ軍に知られておらず、機能している。
「次にアルティオへ行くまでに、まだたっぷり時間があるからな。便りをこしらえれば、俺が持ってく。……ああ、リフィに姉ちゃんのことを知らせないといかんが」
「わたしが書きます。ナイアル君は、説明しなくていいようにするから、心配しないで」
ナイアルはちょっと安堵した。どっちみち悲しいが、エリンから伝えられた方が、リフィのためにもいいような気がする。
「何かあったら、俺の実家“紅てがら”に連絡しろよ。わかってんな、ケリー」
「例の符牒だね、“干しなまこ”」
「そうそう。にしても寒いなあ。お前ら風邪とかひくんじゃねえぞ、体冷やすなよ」
ナイアルが裏戸に手を掛けかけた所で、エリンはふと言ってみる。
「ね、ナイアル君。わたしたち、どこかで会ってたかしらね?」
「ああ? 陥落のすぐ後にだろ」
「じゃなくて、エノ軍が来るずっと前に」
太い眉毛を寄せ、ぷっと吹き出してナイアルが苦笑した。
「おいおいおい、お姫のくせに逆なんぱしてんじゃねえよ。お兄様が嘆いちまうぞ」
「逆なん……ふあっ、いやだ、してないわよッッッ」
「またなぁ」
すいっと暗闇の中へすべり出し、きいんと凍る空気の中をナイアルは歩いて行った。
・ ・ ・ ・ ・
ずらっと並んだ地下牢のひとつ、房の壁に四角くあいた穴の中にもぐり込んで、反対側から角石を押し込む。
後は、暗い地下道をひたすら北へ行くだけだ。
小さな松明をかざしつつ、空気の悪さにナイアルは顔をしかめた。
――何とか、別の侵入方法を考えないといかんな。
久し振りに見たエリンの姿は、かなり衝撃的だった。
王子を運び出した時はまだ腹が膨らんだままだった。疲れ果てた様子ではあったけれど、頬も唇もきれいにあかくて、“生”をめいっぱいに湛えた若い母親の姿だった。光々しかった。
けれど今日会って話した女は、別人のようだった。
青白くやつれて、長く病んだ人に見えた。
彼より幾つも若いはずなのに、顔のあちこちに暗い陰をこしらえて、その全身に痛み哀しみをまとっていた。
話しているうちに丘の向こうに行ってしまいそうで、ひっ抱えてこの世に留めてやりたいと思ったくらいだ。
一番初めに見た時の、あのうで卵のような娘の姿を憶えているだけに、ナイアルの胸は苦しく詰まる。
彼の姉は姪を産んだ後、ひと月寝て過ごした。
非情な頃合でマグ・イーレ奇襲という一大事があったのは避けられないが、どうもエリンは一番重要な産後の回復を、とり逃がしたように見える。
――旦那という奴は、一体何をしてやがったのだ。あほうめ。
生前、シャノンからちょいと聞き出した話では、エリンとそいつとはほんとに想いあって通じた仲らしい。
いずれ結婚するつもりで出産までもずうっと面倒を見ていたようだが、あんなよれよれのエリンを見る限り、その後捨てられたのではないかと心配になる。
本人に直接聞けるわけはなかったが、“紅てがら”に連絡に来るケリーを捕まえれば、その辺突っ込んだ状況を聞けるかもしれない。
――兄貴でもない俺っちが、何でそんなとこまで心配しなけりゃいかんのだ……。さすがにここまでは、頼まれてねえぞ??
げんなり思うも、脳裏にはあの、のんびりした声が蘇ってくる。
::頼むから――。
はぁ、と溜息を一つついてから、ナイアルは首を左右にごきゅごきゅ曲げた。
――ま、とりあえず……。あのおっかねえような、ぎんぎらお目々は復活したわな。その調子だぞ、お姫よう。
そして、エリン自身が無意識のうちに見せたエノ軍首領への態度に、彼は活路の尻尾を見たと思う。
――ぶち当たってへこますだけが、喧嘩じゃねえ。要は一番いい結果を、最後に出せるかどうかだよな? ……なりふり体面どうでも結構、こいつはお姫だからこそ、できる戦いだぞ。でもってしまいに笑うのは、俺たちだ。
そこまで考えた時、ナイアルはふと遠い昔、友と二人で眺めた蜂の巣籠のことを思い出した。
裏の隠居じいさんは蜜を採る時しか籠を開けなかったから、蜜蜂の巣の中がどんな風になっているのか、女王蜂がどんな姿をしているのか、ナイアルは今も知らない。
特に女王蜂は、ぱりっと誇り高く美しい姿をしているのだと勝手に想像していた。けれど実際はそうじゃないのかもしれない。
げっそりやつれた哀しい姿で、それでも気力一本だけを支えにして、城というくらい巣籠の中でひっそりと独り突っ張っている、それがほんとの女王様なのかもしれない、と思った。




