117 空虚二年目2:暗闇の中のエリン
だ、だ、だ、だ。
蜜蝋灯りのともるテルポシエ城の廊下に、エリンの怒った足跡が響く。
思いっ切り強く扉を叩き閉めて、パスクアの部屋から飛び出して来たところだった。
歩きながら、目尻にじわっと涙がにじむ。
あの子と、オルウェンと別れてだいたい九か月になる。
こびりついたように酷く長く悩まされた腰痛、無駄に出続ける乳を搾って裏庭に捨て続けた日々。
ケリーは、……あんなに明るくてひょうきんだったケリーは、覆面布の中にまがった鼻と表情を隠して、あまり喋らない子になってしまっていた。
そういう中でも、パスクアはしょっちゅう会いに来た。ただ、会いに来た。
クレアと違って気の利いたことは何もしてくれなかったけれど、それでも自分の様子を見に来た。
だからまた、以前のように優しい気持ちになれると思って、エリンは久しぶりに彼の部屋に上がって行った。
確かにパスクアは変わっていなかった、もう一度二人の時間を取り戻せると思った。
けれど彼は優しくするつもりで、まちがったことを言った。
「またきっと、産めるから」
その一言でエリンの頭の中も、心の中も、真っ白くなった。
次の瞬間、抑えようのない怒りが、彼女を支配した。
「あなたは一体、何を言うの!? 何てことを言うのッッ」
大きな声が、……叫び声が口をついた。
「おい?」
さっ、と彼の顔が翳る。
「“また”などと言わないで! あの子の代わりなんて、どこにも居ないの!!」
大きく見開かれたパスクアの目に、不可解と恐怖の色が滲む。
ぶわっと涙が噴き出して、エリンは毛皮敷から立ち上がった。
外套と肩掛けを両手に掴んで、そしてパスクアから逃げ出した。
だ、だ、だ、だ。
階段を降りかけた所で、ふっとよろめく、転びかける。ふくろ股引のたっぷりした裾が、反対の足に絡んだらしい。
鼻をすすり上げながら、エリンはちっと舌打ちする。
何故だか、乗馬用の股引はもう穿けなくなっていた。
パスクアの部屋の洗面台、大きな鏡に映った自分の姿を思い出してぞっとする。
あの部屋を使っていた母が、再び現れたのかと震え上がった。
げっそりして、ぐったりして、あんな母みたいな人はわたしじゃないと思いたかった。
彼女が日常使う小さな鏡台は、現実を少しまぎらわせて見せていたらしい。……母似のその哀しげなあわれな女が自分でしかないことを、エリンは受け止めるのが辛かった。
本城を出て旧北棟に向かう。ほとんど小走りになる。
市街へ遊びに出ていた傭兵達が帰って来たらしい、酔った明るい声が降りかかる。
「おや、女の子だよ」
「どこへ行くんだい」
通りすがりに腕を掴まれそうになって、エリンは爆発した。
「うるさぁぁぁぁいッッ」
気合じゃない、誇りじゃない、ぎぃんと甲高い咆哮は、自分の耳にすら攻撃的だった。
「うっわ、病気だよ、この女」
「くるっているよ、しょうがねえなあ」
「きたなく泣いて、みっともねえ。行こう行こう」
酔っ払いどもの真言が、ぐさぐさぐさりとエリンの心に突き刺さった。
旧北棟、地下階の自室に転がり込んで、錠を下ろす。
続きになった湯沸かし場の方から、にぶい灯が近づいてきた。
「……どうしたの」
寝じたくをした少女の姿が、エリンの目に白く映る。
「ごめんね、驚かせて。……ちょっと喧嘩、しちゃったわ」
違う。自分で激高しただけだ。エリンはひとりで怒って、ひとりで爆発して、勝手に飛び出して、ひとりで泣いているのだ。……自分で決めたことのせいで。
「しょうもないな、パスクアさんてば」
手燭をことりと、粗末な卓子の上に置くと、ケリーはエリンの顔に向かって両腕をひろげた。
自分よりずっと小さな少女の、そのほっそりした肩に目を、……惨めにあかく腫れそぼっているだろう目を埋めて、エリンは嗚咽する。
――本当に、この子がいてくれて良かった。でなきゃわたしは壊れていた、……いいえ今もうすでに、壊れてしまっているのかもしれないけれど。
エリンは辛かった。ひたすら辛くて、すべてが痛くて、悲しかった。
例えば十年後の未来が見たい、と彼女は思う。
そこに期待ができるのならば、今の痛みも何とか耐えられる。けれどエリンには何も見えない。
精いっぱいのことをしたつもりだけれど、それは“つもり”だ。
今と変わらない真っ暗な日々がどこまでも続いているだけなら、自分がしていることは何も意味がない、逃げ出そうか。
でもどこへ? そこでどうする?
「リフィ姉ねなら、こんな時なんて言うかなあ」
ぼそりとケリーが言う。
「え?」
エリンは顔を上げた。
「お白湯をちょっと飲んで、お腹あついうちに寝ちゃおうって言うかな」
「そうね。リフィっぽいわね」
リフィ。
言ったその名前がほんのちょっとだけ、エリンのお腹を温かくした。
・ ・ ・ ・ ・
翌日の分の書類は、出納係エルリングが届けに来た。
パスクアじゃなくてほっとしている、同時にかなしさが胸の奥にしがらみ続けている。
「……天気が良いし、さきに日向水をこしらえましょうか」
裏庭の近くにある井戸で、エリンとケリーは釣瓶の水を汲む。
確かに白く陽はさしているけれど、凍るような空気が頬と手に痛い。
「……姫様、」
ふっとケリーが言った。
「こっち」
「?」
井戸の後ろ、もちのきの樹垣に、うっすらと人影が透けて見える。
エリンはどきりとした、全然気づかなかった。
「ごきげんよう」
女とも男ともつかない声が囁いた。
「ごきげんよう。来てくださったのね」
エリンも囁いた。シャノン直属の間諜だ!
「あなた、大丈夫?」
「……何とか。私も遠方まで行ってましたので、お待たせして申し訳ありませんでした」
今日は少し、感傷のにじむ間諜氏である。当たり前だ、シャノンはもういない。
「王子様と、セクアナ嬢についていった“第十三”の副長が戻りました」
「……!」
「まずは皆様、安全な地にてご無事でいらっしゃいます。本人が今夜、報告に参りますので、必ずお部屋にいて下さいましね」
「はい」
「こちら、私の分の報告いろいろ。読んだら燃やして下さい」
さわさわさわ、葉の間から手が出てくる。
「はい、……」
小さく巻かれた布を受け取り、エリンはその指先を握った。
きれいな長い指が、やさしく握り返す。
「私のことは、レイと呼んでください」
出会って数年、ようやく名を知った。
「ありがとう、レイさん」




