114 空虚一年目6:グラーニャの不調
対テルポシエ奇襲作戦の戦後処理がぐいぐい進み、ゲーツも強烈うさ菊軟膏を必要としなくなった頃であった。
「……おや。まただ」
明日の定例会議に備え、ニアヴや幹部騎士らとの打ち合わせを終えた昼休み。
マグ・イーレ城の地上階、食堂を出る途中で、グラーニャは足を止めた。
昨日、一昨日と午後立て続けに胃の辺りがむかついていて、妙にふらつく。
「どうしたの」
すぐ脇を歩いていたニアヴが、腕に触れて来る。
「ちょっと、お腹のあたりが」
「あら……? 別に重いごはんでもなかったのにね? すぐ横になっていらっしゃい。ゲーツさん」
ニアヴが振り返ると同時に、ゲーツはグラーニャに背を向け、片膝をつく。あばらの心配はもう要らない、治りの早さも伝説級なのかもしれない。
「いや、そこまでは……。さすがに、恥ずかしいな」
ちろ、と肩越しに見てくるゲーツに首を振るが、男は体勢を変えない。
「ここのところ、皆そうだけど大忙しだしね。大事にしないと、テルポシエ落とせなくなっちゃうわよ。ほら」
ニアヴに言われて、グラーニャはしぶしぶゲーツにおぶさった。
「午後の軍会議まで、寝てなさいよ。ゲーツさん、かみつれ湯でも淹れてあげて」
やさしい声が送る。ぐっと視線が高くなって、グラーニャは運ばれて行った。
・ ・ ・ ・ ・
――胃弱なんて、珍しいな。
城内二階、静かな一画にある自室に戻って花湯をすすると、グラーニャはそのまま寝入ってしまった。
――俺も毒見してるわけだし、他の皆もどうともないから、食あたりじゃない。つうか今日も昨日も、杣麦と豆のお粥だぞ? 何をどうすれば、こんな粗食でもたれるんだ? おかげ様で、俺の腹は絶好調だしなー。
窓際に寄せた椅子に腰掛け、ゲーツは外を抜かりなく監視しつつ、寝台で丸くなっているグラーニャに時折目をやっていた。彼の膝の上には、老猫こうしがふんぞり返っている。この頃は、ゲーツに撫でられるままにごろごろ喉を鳴らして、満足気であった。
――あー、ということは何か別の病気なのか? じゃあ若僧に診てもらった方が良いな。医者に見せんのは、早ければ早いほど治りも早いって誰か言ってたしな、よしそうしよう。
表情を全く崩さず音も立てず、気配すら消してはいるが、内面ではかなりの量の軽口を飛ばしている男なのである。
毛布のかたまりがもぞりと動いて、髪をぼさぼさにしたグラーニャが起き上がった。
「ああ、良く寝た」
円かな笑顔がゲーツに向けられる。
「さあ、軍会議に行くぞ。ゲーツ」
・ ・ ・ ・ ・
軍会議の後、ゲーツは夕食前にオーレイを捕まえて、とにかく診てもらった。ニアヴも口をきいてくれたから、グラーニャは渋々ながら従うしかない。
本城の入り口近く、近年改装した小部屋を医務室という事にしてある。オーレイの幅を考慮すると、もう少し広い部屋をあてがった方が良いんでないのかと誰もが思うのだが、使っている本人はいたって快適そうである。
「全く、ニアヴもゲーツも心配し過ぎだ。実際寝てれば治るんだから、大事なわけないのに。オーレイ、ただの疲れか何かだろう?」
短衣の前をはだけて、巻いた晒布を取ったグラーニャは、きまり悪さ満載でオーレイに話しかける。
本当にこの継子も大きくなってしまったから、診察とは言え裸を見られるのも実に気まずい。
だがオーレイ自身はさすが医師、実に淡々としていた。
「うん、どころかぴんぴんしてるね。絶好調」
「そうだろう、ふふん」
「ちなみに、一番最後に月のものが来たのはいつ頃?」
「はあ? 何言ってる、オーレイ。俺は石女だぞ。それは来ないのが普通だ」
「全くないってわけじゃないだろ」
「……。そう言えば、テルポシエ攻めの前に来たっけか……」
医師はうなづき、そしてふっと席を立った。
「扉の外のゲーツ、入ってもらっていい?」
・ ・ ・ ・ ・
マグ・イーレ城離れ、ランダル王の居住する一軒家の質素な居間に、緊張が張り詰めていた。
卓子を挟んで隠居中の王と、正妃ニアヴおよび第二妃グラーニャが向かい合っている。
王と暮らす第三妃ミーガンは、気を利かせて自室に籠っていた。護衛の近衛騎士ふたりに人払いをたのめば、夜の離れはいとも簡単に静寂に支配される。
「……」
ランダル王は、内心で恐々としていた。
第二妃とは近年わずかに氷解しかけているものの、とてつもない距離を開けている正妃がここに足を踏み入れるのは、前代未聞のことである。
彼としては最大級の危機、つまりニアヴによってとうとう自分が断罪され、市外追放や幽閉や……下手をしたら(暗殺にみせかけた)処刑の宣告を下される時が来たもの、と予想したのだが。
「……懐妊? 御方グラーニャが?」
目の前にいる妃二人は、どちらも蒼白だ。
「はい。オーレイと、城下の産婆両者の見立てです」
ニアヴの声は事務的である。
「申し訳ありません」
ずっと目を伏せていたグラーニャが、頭を下げた。
その小さな肩が、ふるふると震えている。
ランダルは呆気に取られて彼女ら二人を交互に見ていたが、やがてきゅっと唇を引き絞り、グラーニャに話しかけた。
「……御方。父親はゲーツ君なのでしょう? もちろん」
「はい」
「それじゃあ……」
かたりとランダルは立ち上がる。
ぎくりとした風に、妃二人は顔を上げた。その脇をするりと抜けて、王は居間の扉を開けた。そこに直立して控えていた男に言う。
「君も、入りなさい」
ゲーツはいつも通りだ。音も立てずにグラーニャの背後に寄る。護衛としての位置取り。
しかしランダルは、卓子を回り込んで自席に戻る代わりに、グラーニャのすぐ側にしゃがみ込んだ。
「おめでとう」
小柄な第二妃は両肩を寄せたまま、純粋な驚きをもって“夫”を見つめる。
いつものランダルのぼそぼそ調だが、その言葉に聞き間違いはなかった。
一瞬ためらい、だがランダルは片手を差し伸べて、グラーニャの肩をそっと掴む。
「大事にして、大切に産みなさい。ね」
グラーニャもニアヴも、衝撃で口がきけない。中でもゲーツが一番、度肝を抜かれていた。だから彼は顔をうつむける。
――うーーーーーそーーーーーー。
無理やり我を取り戻したのは、グラーニャだった。
「陛下に、マグ・イーレにご迷惑をかけぬよう……。身を隠して産み、すぐに里子に出すつもりです」
「何言ってるの」
久し振りに、ちょっときっぱりした声が出て、ランダル自身が驚いた。
「そんなことは、してはいけません。マグ・イーレ王家の子として、堂々育てるんですッ」
「あの……陛下……」
「御方ニアヴ。第二妃を、少しの間テルポシエと赤い巨人との戦いから、離脱させましょう」
すっと立って、ランダルはゲーツの腕をぽんぽん、と叩いた。
「良かったねえ」
偽りのない笑顔が、ずっと背の高い男を見上げ、――そしてふいに横を向いて、ぷしゃんと一発くしゃみをした。




