112 空虚一年目4:マグ・イーレ軍の凱旋
青月、というのは透き通るような空の具合から名付けられたのに違いない。
林檎の花がそろそろ終わって、全ての緑が活き活きと伸び始める季節だ。
午後の優しい陽光を全身に浴びて、若い市民傭兵はあくびを噛み殺す。
マグ・イーレ城壁東側、海を右側に臨みつつ、すぐ下にこちゃこちゃとかたまる市街があって、もひとつ外壁の向こうにはクロンキュレンの原が広がっている。
すうっと白く筋つくように見える街道、昼の食事のあと彼はずうっとここで歩哨に立っているけれど、のんびり平和な景色は動かなかった。
それでもさぼるわけにはいかない。今日この場所で歩哨に立つことは、絶対に重大な意味があるのだ。その証拠に、横にはマグ・イーレ正妃様がずどーんと腕組みをして、同じ方向を眺めている。
「来ないわねぇー。君、何か見えない?」
不意に言われて隣を見る、がしっといかつめな横顔はこっちを見ていない。ものすごい量の鳶色巻き毛が、微風にそよそよ揺れている。
「何にも見えません。さっき、驢馬を三頭連れた人が向こうへ行ったっきり」
「おっそいわねぇぇぇ、早く帰ってくればいいのに」
はあー、特にいらついた様子でもないけれど、待ちくたびれたという声の調子は彼の母親とおんなじだった。
第二王子とその市民傭兵は同い年だった。ニアヴ様と呼びかけはするけれど、感覚としては“オーレイ君のお母さん”、“おばさん”そんなもんである。
息子と計算教室が一緒だったから、しょっちゅう顔を合わせて喋っていたし、今だって全く気負わない。それは向こうも同じだった。
「こんなにお天気が良いんだから、どこかで足止め食うって事もないわよね?」
「そりゃないでしょ。出陣してから雨も降ってないし……。あ、負傷者八人を運ぶのに、難儀してるのかなあ?」
「いえ、重傷者はオーランで預かってもらうの。回復してから迎えに行く事にしてあるし、普通の速さでちゃっちゃと帰ってこれるはずなのよ」
「ああ、それじゃデリアド軍と何かあったとか……」
「不吉なこと言わないでちょうだーい。はあ……リンゴウ君がゆうべ早馬で一足先に帰って来た時には、何も問題ないって言ってたのよ……」
ふるふるふる、ニアヴはかさばる頭を揺らした。
「オーレイ君も、彼女ちゃんも、無事に早く帰ってくるといいですよね」
気休めを言ったつもりなのに、ニアヴはこちらをじとっと見上げて来た。
「彼女ちゃん……」
「女の子で、理術士って珍しいですよね。すごいっす」
「……」
ニアヴは口角を片方だけ上げて、苦笑する。
――あの子は“自称”理術士、つまりもぐりなのよー!!
約十年ぶりに見た次男は様変わりしていた。
縦方向だけでなく横にもぐうんと大きくなっていて、顔も腕も指までもじゃもじゃ、まさに鳶色ぽっちゃりくまちゃん、とグラーニャはひたすら喜んでいた。
まあ、どんな風に成長するかは個人の自由、しかしニアヴが引いてしまったのは彼が連れて来たティルムン女性である。
ふくよかになった次男よりさらに横幅のある体躯、オーレイの豊かな鳶色巻き毛がささやかに見える程に勢いのある特別級のもこもこ髪、そこにとんぼ玉やてがらや飾り布などをこれでもかという程つけているから、何だかよろず屋の屋台が動いているような、じゃらじゃらした娘なのである。
百歩譲って、見かけに目をつむるとしても。あいその欠片もないぶっきらぼうな唐変木と来ては、迎える側だって慎重になるのは当たり前だろう。
ただ、正規の理術士ではないが腕は確からしい。“白き沙漠”を徒歩で越えてくる事ができたのも、ひとえに彼女のおかげなのだと息子は言う。
これはあやしい、だってそもそも“本物の”理術士五人、一個隊が一緒だったのだもの。
今回のテルポシエ攻めでの活躍を見てから判断して欲しい、とオーレイは言う。まぁ母さんがどうこう言うにせよ、俺は彼女と一緒になるって決めてるからさあ?
――ああ、やんちゃでも単純にかわいかったオーレイが、こんな風になっちゃうなんて……。
この所、そんな風にもやもや悩み続けるニアヴであった。
――はあ……。それでもフィーランが帰ってくれれば、例の計画が活きてきたのに……。ほんとに手放すんじゃなかった、大誤算だったわ。
ぐるぐる後悔の止まらないニアヴをよそに、若い市民傭兵はちゃんと街道を見張っていた。
「あっ、来ました」
はっ、と目を上げ彼方を見る、ニアヴの顔がほころんだ。
「先頭旗、白っぽいです! うちの軍だ……あっ、ちゃんと黄色いデリアド旗もついて来てますよッッ」
「よおおっし! お出迎え準備ッ」
ニアヴは若者の背中を、革鎧の上からぽーんと景気よく叩いた。
「俺が連絡に走りますか?」
「何言ってるの、わたしが行くのよッ」
・ ・ ・ ・ ・
わああああああ! うわああああああ!
市門から城へと続く一本道の両脇は、マグ・イーレ軍の凱旋を出迎える市民で埋め尽くされた。
「グラーニャ様ーッッ」
「お帰りなさーい!」
白馬のポネオにまたがった、おらが町の王妃様“白き牝獅子”は老若男女に大人気である。
特に子どもは大興奮、グラーニャもよくわかっているから、白鳥飾りのわんさかついた銀兜に鎖鎧を顔だけあけて、にこやかに手を振りつつ過ぎてゆく。
そのすぐ後ろ、濃灰外套の騎士団にまじって、一人だけ鎖鎧を着ない男が脇目もふらずに黒馬を駆っていた。
「オーラン奪回、大成功ーッッ」
「よくやったーッッ」
「あっ、デリアド騎士団だ!」
「お疲れさまー!」
長いながい拍手が続く。
細長い軍旗を掲げながら、デリアド副騎士団長キリアン・ナ・カヘル若侯は、ついっと目を上げて市内壁の向こう、高みに見えるマグ・イーレ城を見た。
――そう、作戦は大成功。五割成功は大成功。けれど叔母上の目論見はほぼ実現せず……。これを成功って言いますかね?




