111 空虚一年目3:混成イリー軍会議
マグ・イーレ第二妃専属護衛が出て行った後、ルニエ公の執務室には寸時、重苦しい空気が満ちた。
ガーティンロー騎士団長ガーネラは、空咳をひとつする。部屋の隅の文机、迅速な手付きで脇目もふらずに筆記を続ける自軍副長を見やってから、周囲を見渡した。
「やはり、間違いないようですね。赤い巨人はエノ軍首領の支配下、指揮下にはないらしい。自軍の兵士を攻撃して殺している目撃例は、これで……?」
「重複を除いて、八件目です」
書記役副長がきっと顔を上げ、小さく口を挟んだ。
「八件。敵味方の区別がつかずにうっかり殺してしまった数として、これが多いのか少ないのかは判断が分かれると思います。エノ軍にとっては有なのかもしれない」
黄土色の外套、デリアド副騎士団長カヘルが言った。
「……価値観が本当に異なりますからな、奴らは」
ファダン騎士団長も同意した。
「それもそうですね。性急に過ぎました、面目ない」
ガーティンロー騎士団長はふっと頭を下げ、再び口を開く。
「……巨人の目撃報告まとめに戻りましょう。マグ・イーレ軍が湿地帯へ退却した途端に、巨人は戦場を後にした、と」
「はい、それは事実です」
グラーニャが声を上げた。
「自分は主に、最後尾の騎士達が退却するのに注意を向けていましたので、巨人の動作については詳しく見ておりません。しかし先ほど本人が報告しましたように、マグ・イーレ第二王子オーレイとその医療班とが、湿地帯の外側から目撃しました」
グラーニャはついと立って、オーラン公の机に広げられたテルポシエ市近辺の地図を手で指し示す。
「ふうっと殺戮の手を休めたかと思うと、軽く跳び越えるような動作で、ふわりとこちらの丘に移動しました。市内と本城を越えて、主戦場とは反対側にある東の丘にです。
そこで何やら、白いもやに包まれたり、黒っぽい網のようなものに囚われたりしていたらしいのですが、それらを振り払った後、やがて丘の中へ吸い込まれるように消えて行った、という事です」
「……」
「……」
混成イリー軍幹部の面々は押し黙った。グラーニャは静かに着席する。
今回の戦役は、オーレイの帰国がきっかけになったようなものだった。マグ・イーレ正妃である母ニアヴの要請に従い、第二王子は留学先ティルムンを後にしたのである。
恋人キュリ、ともに医学を修めたマグ・イーレの青年二人、騎士二人、そしてティルムン理術士一個隊を従えて、沙漠と山岳地帯を越えて来た。
テルポシエがエノ軍に攻略されているから、十年前の往路のようにティルムン間の定期通商船は使えない。三月がかりで陸路を辿ったのである。
ニアヴは長子フィーランも帰国するものと思っていたから、その不在には愕然とした。しかし、それでマグ・イーレ正妃の“野望”が挫かれる事はなかった。
首領が“王”を名乗るとはおこがましい――賊集団エノ。その手中に囚われたままのテルポシエ王女エリン姫を、叔母たる“白き牝獅子”グラーニャ率いるマグ・イーレ軍が奪回する。
全イリー都市国家群の、名誉を挽回するのである!
実に明朗な大義の戦いであったが、全ては陽動であった。
ティルムン理術士の援護を受けての、華々しきテルポシエ奇襲。その裏では騎士団長キルス率いるマグ・イーレ四分の一軍、デリアド・ガーティンロー・ファダンの混成イリー軍勢が速やかにオーランを包囲。
母体から完全に孤立した、在オーランのエノ一個軍団を投降させていた。こちらは闇に乗じてのまともな夜襲、念入りに張り巡らせておいた工作員や間諜との連携を活用し、まさにエノ軍の寝首をかく形となった。
今は二つの戦いの終結からようやく一日が経つ所、陽動マグ・イーレ軍がオーランまで退却した際には、黒羽の女神に薔薇の意匠の入ったオーラン旗が、開かれた城門の両脇にたなびいて、グラーニャ達を出迎えたのであった。
「ところでグラーニャ様、陽動マグ・イーレ軍の損傷数を伺いたいのですが」
デリアド副騎士団長に話をむけられ、グラーニャは再び立ち上がる。別に立つ必要はないのだが、座ったまま話していると、いかつい騎士達の装備にくぐもって、何となく声が通らない。この辺、小さいものは不便である。
「はい、十八騎を失いました。最前線にいた騎士隊の十五名、傭兵隊の三名が戻っておりません。それから、帰還した中に重傷者が八名。セイボ隊長他一名、ティルムン理術士を二人失いました」
「対するエノ軍の損失は、いまだ知れませんね」
ガーティンロー騎士団長が言う。
「仮に、向こうがマグ・イーレ以上の損失を被っているとすれば、赤い巨人がエノ支配下の精霊なのかどうか、判断する材料になりえましょう」
「いや、マグ・イーレ軍に叩かれた分は、省かねばならんでしょう?」
ファダン騎士団長バーリが口を出す。その副長が、後ろでうんうんと首を振っている。
「うーむ、仰る通りです、バーリ侯。やはりここは、間諜諸君の戦後実況報告を待ちますか……」
もみあげの辺りをかきつつ、ガーティンロー騎士団長は苦笑した。
グラーニャは、すぐ隣のキルスの顔をちろっと見る。
――ガーネラ侯は、どうでも巨人がエノ軍の支配下にないのだと、思いたいらしいな。
――ええ、そのようですね!
長い長い付き合いだから、このくらいは視線だけで意思疎通できる。
本当はグラーニャは、キルスもテルポシエに連れて行きたかった。
こんなに温和な佇まいの老人だが、その実はマグ・イーレ軍最強の手練れ騎士である。ひしゃげていた十代のグラーニャを、ウセルとともにずっと見守ってくれた大事な人物でもあった。キルスが隣に居れば怖いものなんて何もない、いつか言った事は本当である。
だからこそ、肝心かなめのオーラン奪回で、大将に立ってもらう事にした。
キルスが敗けるわけがない、そう信じてはいたけれど、オーランの城門近く、高く掲げられた黒羽の女神のマグ・イーレ軍旗の下に、ひょろっと細長い老侯の姿を見つけた時は心底嬉しかった。
思わず駆け寄って胸に飛び込んだ、グラーニャは湿地帯の泥にまみれていたけれど、キルスの濃灰外套と鎖鎧には染み一つついていなくて、出陣した時と同じ格好でぴかぴかしていた。
「ああ良かった」でもずうっと上の方にある顔が、涙に咽んで濡れていた。「心配しましたよう」……。
テルポシエ・巨人戦の惨状に比べると、ここオーランでの戦況はかなりあっさりしていたようだ。元々が規模の小さい公国である、エノ軍もあまり多くの人員を配置させる事ができなかった。
間諜の暗躍によって中隊長格の数名が同時に失踪、連絡系統を乱したところで、突如イリー勢の包囲がぐるりと完成しているのを見せつけられれば、オーランにおけるメイン名代の大隊長は動揺せざるを得ない。
城門付近でほんの少しの小競り合いがあり、やがて大隊長は投降してきたのだった。
オーラン宮へは、混成イリー軍の騎士達よりも早く市民らがなだれ込んだ。宮内に軟禁されていたルニエ公と家族を連れ出し、地下牢からオーラン騎士達を引っ張り出して解放した。
今、その牢には入れ替わりに、エノの傭兵達がぶち込まれている。
と言っても百人単位の一個軍団はもちろん入りきらないから、市内各所にも小分けにされて拘束されている。それを町内会の皆さんがじっとりねっとり見張っているという、これはこれで恐ろしい構図なのであった。
「ただ、留意すべきなのは」
声を受けて、グラーニャはキルスからデリアド副騎士団長カヘル若侯へと、視線をうつす。
「……今後テルポシエのエノ軍と交戦する場合は、その怪物が敵に回る可能性を常に考えなければならない、という事です」
若いのに、慎重を絵に描いたような人である。
ニアヴの故国デリアドは、今回の軍役に一番早く協力を申し出てくれていた。
イリー世界の最西、位置的にはテルポシエとエノ軍の脅威から最も遠い所にあるものの、他の都市国家群なしに単独では存続など見込めない小国である。同盟に参加して、対エノ戦線の根回しをしておくのは必須だった。
騎士団長ではなく副団長が精鋭を連れて来たのにも、実は納得の理由がある。彼はニアヴの兄の子、つまり甥なのであった。
「理術が全く通用しない精霊、とな」
ファダン騎士団長がごん太い猪首を傾げて、渋面を作った。
「単に今回、理術士の数が少なかった、という事はないのでしょうか? 五人一組の一個隊では撃破できなかったが、例えば二十五人の一個軍団であれば……」
「ティルムンは、動きませんよ」
冷たさを含むような低い声で、カヘル若侯がガーティンロー騎士団長を遮った。
「今回の戦いも、ひとえにマグ・イーレ王室の訴えに、亡くなったセイボ隊長が個人的に動いてくれたというだけなのですから」
これも本当である。王子達が留学している間、ニアヴは付き添いの騎士らを通して、ティルムン理術士との関係開拓につとめた。
本来ならば、イリー諸国を含む東側世界の政治軍事には一切関与しないのが、文明地ティルムンの意向である。
軍を離れ、故国を後にしてまでオーレイについて来てくれたセイボ隊長は、グラーニャの訴えた大儀、“蛮族に囚われた姪を救出したい”と言う部分に心を動かされたらしい。珍しい、例外中の例外である。
「そうでしょうか」
ゆっくりと、グラーニャは言った。
「あの巨人の出現は、むしろイリー都市国家群への大きな好機だと、自分は考えています」
その場の空気が、一気にびきっと張り詰めた。
「好機ですと?」
「何を仰る」
「これだけ、あなたの騎士を失ったと言うのに」
グラーニャは頷いた。見なくてもわかる、隣のキルスがはらはらしている。
「あの巨人はイリー都市国家群にとっての、いいや東側世界全体の存亡に関わる、大きな脅威です。ティルムンの協力を引き出す、絶好の口実になると思いませんか?」
「グラーニャ様。あなたはまさか、ティルムンを介入させる気なのですか?」
静かに、デリアド副騎士団長が問うてくる。
この時ばかりはガーティンロー騎士団長も、ファダン騎士団長も、彼らの副長達も、カヘル若侯と同じ思いを腹の底に抱いた。
――介入させて、テルポシエのエノ軍と巨人とを滅して、それで済むのか? それはティルムンによるイリー支配を、受け入れ始める事になりはしないか?
「選択肢として、彼らの特殊な軍事力をたのむのは、大いに有だと思っております。駒は、多ければ多いほどよろしい」
肩をすくめながら軽く付け足して、グラーニャは着席した。
本気かい、と言いたげな目つきで、ファダン騎士団長が彼女とキルスを見やっている。
「あのう……」
机の向こう側からおずおずと放たれた声に、一同がはっとしてそちらを見た。
「はい、ルニエ公?」
ガーティンロー騎士団長が答える。
「すみません。……ちょっとわたくし、引っかかったのですが」
「どうぞ?」
「その巨人と言うのは、エノ首領が呼び出した強い精霊である、と言う可能性が依然あるのですよね?」
「ええ、さようですね。素性は知れませんが」
「仮に、そうとした場合ですが。別の精霊使い……東部ブリージ系でそういう方をこちらからもお呼びして、封印なり退治なりしていただく、という風には行きませんのでしょうか?」
「……」
皆が無言となる。
「ああ、すみません。年寄りが、馬鹿な事を申しました」
老公は穏やかな人だった、もじもじとはにかむ姿すら気品満載である。
「そうか。向こうの強さばかり印象に残ってしまって、正体を探らねばいかんという事を忘れてましたな。メインの能力も含めて、その辺の調査を……」
かたん、じゃりっ、ガーティンロー騎士団長の鎖鎧を擦って立ち上がる音が、ファダン騎士団長の言葉に割って入る。
「そうッ、仰る通りです、ルニエ公! こちらでもブリージ系精霊召喚士を起用して、巨人退治を試みる! 大いに有です、素晴らしいッ」
妙案を得たとばかりに満面の笑顔である。
「ですがガーネラ侯、あてはあるのですか?」
大柄なファダン騎士団長の後ろに座していたその副長が、首を伸ばして問いかける。
「我らがファダンの認識では、東部ブリージ系の人々と言うのは、エノをはじめとした賊の略奪でほぼ壊滅状態です。生き残った人々は穀倉地帯やイリー諸国へ流入するばかり、そういった特異な人材が残っているとはとても思えません。
メイン自身が示すように、滅びかけたブリージ文化そのものをエノが吸収してしまった、という見方もできます。その線ですと、メインが最後の精霊召喚士であるとも考えられるでしょう」
さすがテルポシエに近いだけあって、ファダンの動向観察は現実的である。
さっきまでの勢いはしゅうんと失くしてしまったようだが、それでもガーティンロー騎士団長は笑みを絶やさず、まっすぐ立ったままだ。
「正直、あては全くありません。しかし……、ぱんはぱん屋で、精霊には精霊使いを、という考え方がたいへん理にかなっていると、自分には思えるのです」
「少なくとも、巨人ないし精霊の詳細調査につながるんじゃないでしょうか? 探してみる価値はあると思いますよ」
キルスの地味な擁護発言に、ガーティンロー騎士団長は頷いてみせる。
「では、この件については皆さま、私ガーネラに一任させて下さい。情報共有にも、ぜひご協力いただければと存じます」
そんなもんだろうなと皆が思って、この議題については終了となった。
オーラン騎士団の回復、エノ軍捕虜たちの扱いについても話し合わなければならない。
――自分たちの帰国を決めるのは、最後になるのだろうな。
さすがにちょっとくたびれ始めた、マグ・イーレの“白き牝獅子”グラーニャであった。




