106 赤い巨人11:メイン対巨人
「精霊なんかじゃないよ。あれは……、」
特に妖精の視力の助けを借りなくても、女巨人による殺戮の様子は、東の丘からもどうにか見ることができた。
メインは茫然と立ち尽くしながら、その赤い姿から目を離さない。
「あれはここの大地母神、……女神だ」
パスクアには、いまいちよくのみ込めない。
「神?」
「そう、そしてひたすら、殺戮を求めている」
「お前が命令しているわけじゃないのか? あれ……」
「俺は何にも言ってない。あれが自分の意思で戦場に向かい、兵士たちを殺しているんだ。マグ・イーレ軍を潰すには確かに使えるかもしれないが、……じきに見境なく殺し始めるぞ」
「テルポシエの守護神なのに?」
「パスクア。仮にそうだとしても、俺たちは……エノ軍は、そもそもテルポシエ人じゃない。侵略者だ」
「……」
「そんな……。伝承にはただ、強大な存在としか……。ここまで危険な性質の事は、伝わっていなかったわ」
いまや血の気を失って、エリンの顔は真っ白になっていた。
「封じられていた三百年の間に、変化したという事もあるだろう。とにかく、皆殺しにされる前に何とかしないと。テルポシエが……」
メインは、眼下にひろがるテルポシエ城と市街の風景を見やった。
――イオナの帰る場所が。
「なくなってしまう……!」
メインは勢い良く外套と短衣を脱いだ。胸の中心から頬へ、両腕へ、腹へ、緑色の文様がぎらぎらと発光しながら走ってゆく。
そして、ぎっと目線を上げた。
大きく息を吸いこみ、はるか西にいる巨大な女に向かって叫ぶ。
「――やめろッッ」
ひゅう、と一陣の風がかれを取り巻いて、そして飛んで行く。
風は緑色の光を帯びて巨人へと吹き付け、やがてかの女はゆっくりと、東の丘を振り仰いだ。
≪ぬしの言葉は、我に届く。面白いの≫
ぞっとするようなあの声が、再びメインの心中に広がる。
巨人は、右手をふっ、と振った。そこにまとわりついていた大量の血が、足元を逃げ惑う兵士達に、ぼたぼたと降り注いだ。
≪だが、止まらぬよ。我が鍋は、まだまだ満ち足りぬまま。……それとも≫
巨人は大きく大きく、下半身をぐうんと伸ばして、テルポシエ市街と城とをひと思いに跨いだ。
音も立てずに、ふわりと東の丘の手前に着地する。いまや大きなふたつの眼球が、頂上のメインを凝視している。
≪ぬしの、その血で潤してもらおうか≫
巨大な女の後ろで、くるりとその髪が、……蛇がうねった。そいつがひゅいと空を切り、メインめがけて飛んでくる。
――頼んだぞ、皆!!
「危なっ……」
パスクアが叫びかけたその時、ずざざと滝のような音を立てて、横から突っ込んで来たものがあった。
通常の馬の二倍ほどもあろうか、ぬめぬめと光る灰色の肌と水かき様のたてがみをうねらせて、シエ湾に棲まう水棲馬が三頭、巨人の蛇髪に喰らいついている。蛇髪は怒り狂い、水棲馬を引きずってのたうち回った。
目の前の光景に、声も上げられずにいたエリンは、続いてメインを取り巻いていた風がすっと一陣、黄金色に移り変わり、そこに赤まだらの模様が浮き出て、けものの姿を取るのを見た。
――犬? 牛ほどもある犬って??
メインは、そのけもの犬の首に腕を回して、背に乗った。
「パグシー!」
早口で呟く。
「結界を張って、パスクアとエリンを守るんだ」
『おうよッ』
メインの髪の間から出て来た、藪にらみの小さな妖精騎手は、すすいとパスクアの元へ飛んでいく。
かれの愛馬、毛が丁度たてがみのように見えるいも虫・流星号のお尻の針からちらちら光る糸が出て、パスクアとエリンの周囲をふわりと巡る。不可視の結界に守られた事を知らず、パスクアは友に向かって叫んだ。
「メイーン!」
「跳べ、ジェブ」
けもの犬はメインとともに宙を突っ切り、水棲馬に絡まれた蛇髪に到達した。
一体いつの間にわいたのか、巨人の下半身、いや腹の辺りにまで、重苦しい霧が立ち込めている。
ただの霧ではない、重みのある明らかな拘束である。灰白色のもやに混じって、七人の霧女が顔を見え隠れさせながら、巨人の視界を妨げるべく、どんどんと上昇を続けていた。
凶暴なけもの犬は、するりと蛇の口の中に潜り込むと、ぐいいと身体をのばして突っ張り、勢いよく蛇の舌を食いちぎった。
ほぼ同時に、メインが手にした長剣を蛇の目に突き立てる。
「プーカっ! ここだ!」
橙色に輝く小妖精は、ひらひらと飛んで蝶のように長剣の柄にとまると、かあっと全身を赤く染める。
「皆、離れろッ」
『おんどりゃああああああ!!』
けもの犬の背にメインが飛び移り、水棲馬がずたずたに引き裂いた蛇の首から離れると、炎の妖精のとまった長剣から火柱が噴き出す。
蛇の頭は苦しみながら焼かれていき、断末魔を轟かせる。炎は蛇の胴体を伝って、巨人本体へと迫って行った。
けもの犬とメイン、水棲馬たちは宙を駆り、巨大な女の顔の前まで来た。
既に巨人の首の下まで、霧女たちの拘束が上がっている。顔だけ出した巨大な女は、メインを見据えて問うた。
≪これほどの精霊らを使役する者なら、わかりおろうに。何故こんな馬鹿な真似をする≫
そしてかの女は気付いた、ふと目線を左右する。
霧女の拘束の外側には、芋虫妖精たちがめぐらせた鉄色の糸の網、さらにその外側を取り巻いて、数十体の海の娘たちが水柱を引きながら巨人を囲んでいた。
三重の妖精の環が、完成していた。
「“海神の網”に縛られて、冷たい海底に永久にくくられるのと、おとなしく封印の丘に戻るのと。どちらが良い?」
持てるだけの力を解放して、メインは逆に女神に問う。
巨大な女と小さな男は、しばしの秒間、無言で見つめ合った。
と、女がゆっくり目を閉じ、そして開いた。
重い霧の中から、にゅうっと右の手が出現したかと思うと、蛇の頭から伸びた髪を引っ掴み、ぶちりと握り切った。
一瞬遅れてぼたり、と音が響く。黒焦げの蛇の頭が落ちて、炎は煙になってしまった。
女はその手をそのまま後方に向けて、何気ないようにゆっくりと振り払う。
めきめきめきめき、と硬い音がして、芋虫妖精の鉄の網が砕け散る。
さらに前方に返す手で、いともたやすくメロウ達の水柱を吹き飛ばした。海の娘たちが勢いで薙ぎ倒され、逃げ惑う。
メインの耳元に飛んでいた小さなプーカは、口をあんぐり開けた。
その時。
ぬううううう、ともう一方の巨大な手が、真下からけもの犬ごとメインを掴み取った。
ジェブは荒々しくもがいて抵抗し、水棲馬たちが鋭い水かきと牙でこじ開けようと奮闘するも、手は微動だにしない。
ぐ、と力が込められて、メインは思わず叫んだ。
「ぎゃあああああああ」
絞め殺される! とエリンが思わず両手で目を覆いかけた時。
≪おや? ぬしは……≫
巨人が驚いたように、目を少し見開いた。
握りかけた手を緩めると、けもの犬の姿は既にかき消えていて、代わりに緑色にゆらゆらと光り揺れる影が、ぐったりと動かない男の体にかぶさっていた。
よく見るために、女はその巨大な顔を寄せてみる。
それは何だか、人間の女の姿を取っているように見えた。
なつかしい香りがした。太古のむかしに味わった芳香が、かの女の心の中に蘇る。
≪そなたは、“ブリガンティアの娘”ではないか。何故、精霊のような姿をしておる?≫
緑に光る女は、何とも答えない。哀し気な目で、巨人をじっと見ていた。涙が流れるように走る頬の文様、それは女の首から胸、腕へと繋がっていて……。
≪ああ、そうであったか。その者は、そなたの……≫
巨人は理解した。記憶が徐々に鮮明になる快感を経て、かの女は口元に笑みを浮かべる。
≪“ブリガンティアの娘”の子であったか≫
おお、おお、おお、輝かしきむかしの追憶がよみがえる、ひとと神とが近く親しく、畏れのみならずその儚きまごころをも捧げられていた、あの頃。死の闇に縁どられてこそ生命はまばゆく燃えていた、咲き散る生と短い時をともに慈しんだその末裔が、長き代を経た現世に続いていようとは、今ここに相まみえようとは……。
≪よかろう。太母に免じて、これの生命は取らず、我が手中にとどめ置くとしよう≫
メインを手にしたまま、巨人は丘の頂上に立った。
小山のような赤い衣の裾が、徐々に地中へ沈んでいく。巨大な体は色を薄くしてゆき、やがて空気に紛れ込むようにして、静かに見えなくなっていった。
≪久し振りに起きてみれば、“あやつ”は留守。これからは毎日、稀なる熱を吸いながら、うたた寝するのも愉しかろうて≫
はははははは、と乾いた笑い声が丘に響いた。
倒れた石々の真ん中に、ぼろきれのようになったメインの体が取り残された。
「……何が、どうなってるんだ。あの大きな精霊を、封じる事ができたのかな……?」
パスクアはエリンに問うつもりで言ったのだが、彼の右脇にうようよと浮いていた、流星号上のパグシーが答えた。
『だーがらー、精霊じゃねえっでの。俺にもよぐ分かんねっげどはぁ、でかいのはとりあえず、消えだみたいだなす』
「メイン……」
恐る恐る、パスクアは小走りで友のところへ近寄った。
「大丈夫か!? 生きてるよな!?」
「う……うん」
呼びかけに応じて、伏せた身体がもぞつくのを見、パスクアは安堵の溜息をもらす。
そっと抱き起すと、青ざめてはいるが、目立って酷い外傷は見当たらない。
あんな化け物に握られたのだから、臓物のひとつでも飛び出ているのではと想像していた分、なおさらほっとする。
精霊を召喚する時に浮き出る文様は、すっかり消えていた。
「よし、とにかくここから離れよう」
肩を貸して立たせ、歩もうとしたその時。
『あっ……! ま、待でっ!』
パグシーが悲鳴を上げた。
ぶしゃっっっ。
同時にメインの裸の肩口と上腕の辺りから、勢いよく鮮血がほとばしった。一瞬だがその箇所に、真っ赤な鎖の残像が見え、そして消えた。
顔を苦痛に歪めて、メインはパスクアを突き飛ばす。
「!?」
メインとパスクアとは反対方向に転び、倒れ込んだ。
「なっ、……何だこれ!? おいメイン!」
友の返り血を浴びたパスクアは、恐怖と驚愕で顔が引きつるのを止められない。それでも素早く、這いつくばってメインのもとに近づいた。
『あの、でっかい奴の仕業だ! メインは、丘さ括り付けられぢまっだ……』
パグシーが藪にらみの瞳いっぱいに涙をためて、泣き声で言った。
『丘から離れっぺどすれば、体中ぶっちぎられてしまうぞう……』
荒い息をつぎながら、メインは何とか座り直した。
「……そういう事だ、パスクア。俺はここから、しばらく動けそうにない。代わりに、動き回ってくれ」
「は? 動くって……」
「直ちに帰城して、態勢を立て直せ」
右腕を伸ばし、メインは震える手でパスクアの左肩を掴んだ。思わずその上に重ねた自分の右手を通して、パスクアは彼が氷のように冷え切っているのを知る。
苦しそうに下を向き、息を整えようと懸命に試みながら、メインは再びパスクアを真っすぐに見た。
「損害が酷ければ、周辺陣営の二個団をテルポシエまで戻せ。東部に出ている小隊にも召集をかけろ」
頷くパスクアの横に、エリンがしゃがみ込む。
「オーランが、危ないのね」
拾い上げたメインの外套を、震える身に羽織らせてやる。
「マグ・イーレ軍がここまで来たという事は、オーランが地理的に孤立したと同じ。いくら敗走しているとは言え、帰りがけに寄って行かないとも限らないわ。ファダンとガーティンローがいきり立てば、挟み撃ちになってしまうのは必至」
「そういう事。王女は、俺と戦略観が合うね」
ようやく笑顔が出た。
「さっ、パスクア。急いで」
「……けど、お前は怪我もしてるし、ここに置いていくわけには……。マグ・イーレの落ちた奴が、出たらどうする」
「大丈夫だよ。彼女がいる」
その時メインの両肩の辺り、もやりと湧き出たものがある。手巾を出して、腕の傷の手当を始めていたエリンは、思わず身を引きかけた。
豊かな髪が、ちょうど樫の木の梢のように柔らかく流れ広がって、その中心で女性の顔がにこにことパスクアに笑いかけていた。
「おぼえてるだろう? 二人とも」
頭上の女とパスクアの顔を見比べつつ、メインはくすりと微笑した。
「お……」
パスクアは口を開けて、仰天していた。
「おばちゃん……ヴァンカおばちゃん!」
あまりの懐かしさに、思わず目尻に涙が滲んだ。忘れもしない、メインの実母。
自らの母を亡くした後、幼いパスクアはこの人に長い間、抱き締めてもらっていた。言葉少なだったけれど、ひたすら優しかった人……。
「そうか」
――精霊になっていた。……生き続けて、いたんだ。
「わかった、行ってくる。指令を出したら、すぐに薬翁を連れて来るからな」
パスクアは立ち、長く口笛を吹いて丘の麓にいる自分の馬を呼ぶ。そして駆け出した。
「おばちゃん、エリンの事もついでによろしくな!」
「ついでって何よッッ」
手持ちの手巾を全て使って、メインの傷をきれいにしてしまうと、エリンはメインが短衣を着るのを手伝い、外套の前をしっかり閉めさせ、さらに自分の肩掛けを一枚とって、首に巻いてやった。いつまでも顔が真っ白で、小さな震えが止まらない男は、見るからに寒そうだった。
「……エノ首領。パスクアに、最後まで言わなかったわね」
メインの馬を呼び、括り付けてあった毛布を持ってきて、身体と地面の間に敷く。エリンは自分も、その端っこに腰をかけた。
「君は、軍事顧問として雇うべきだったかな」
生気のない顔で笑いつつ、メインは言う。
「あと、“エノ首領”じゃなく、メインって呼んで欲しい。軍の名前はもう変えようがないんだけど、父と俺とは、別物だから」
エリンは首を傾げた。
「そう言えば君、俺の恩人だっけ」
「え……?」
「君があの時、毒矢であいつの頬をかすめていなかったら、……」
――俺はあいつを殺せなかった。あいつは今も生きていて、俺と俺の世界を支配していただろう。
「……いや、何でもないんだ。本当に、ありがとう」
手巾にくるまれた部分を触れながら言ったものだから、エリンはその感謝が、手当に向けたものだと受け取った。
「どういたしまして」
薄くのびた雲の動きが速い。また、風が吹く。あまり強くならないうちに、パスクアが帰って来るといいなとエリンは思う。
そっと布帯を締め直す。腰もいよいよ、辛い。
「エリン姫」
少しの静寂のあと、メインがぽつりと言った。
「俺は、ひとの心や考えは読めない。……けど、その人が抱いている悲しみや、喜びの大きさを感じ取る事は出来るんだ」
これまで軍総統、あるいは精霊使いとして見てきた男とは別人のような、か細い青年がすぐ横で静かに話すのを、エリンは無言で聞いていた。
「今の君は、悲しみで狂いそうなくらいなのに……。ものすごい意思でそれを抑えつけているのは、単に王族の誇りだからと言うわけじゃないよね」
話しかけてくる男の瞳こそ、昏さ哀しさをいっぱいに湛えていた。
その深さに、つい共鳴を許してしまったのかもしれない。
ぽろり、つう、と涙が頬を伝って、顎からぽたりと落ちて行った。いまだに膨らんだままの、しかし空っぽの腹に両手をあてる。
「最後の騎士をなくしてしまったら。……もう嘆くべきものなんて、何もないわ」
さいごに見たシャノンの背が、長剣の刃に貫かれていた。
「俺は診られなかったけど……シャノンは」
「ええ、致命傷だったの」
メインは低く長く、溜息をついた。
先ほどパグシーが拾って引っ張って来てくれた、焦げついた長剣を杖にして、ゆっくりと立ち上がる。
雲が急ぎ流れる青空の下、東の丘の頂点からは、テルポシエ以西の丘陵と海に切れ込んだ幾つもの半島が見渡せる。
「君の考える通り。テルポシエはイリー諸国を、これで完全に敵に回すことになった。……けれど」
エリンは何も言わず、メインの言葉を聞いていた。
「もう二度と、何者にも侵させない。俺はテルポシエを強くして、この都市を守る」
自身の想いをのせて飛べる精霊がいない事を、メインは悔しく思った。
いいや、やはり自分のことばで伝えなければ、……想いは届かないのだ。
――だから早く、なるべく早く、帰っておいで。俺はこの丘であなたを待とう。この高みからならば、戻って来るあなたの姿を、必ず見つけられる筈だ。
オーラン、ガーティンロー、マグ・イーレへと伸びるなだらかな海岸線の緑の岬、さらに白雲が遠くたなびく藍色の北方の山々。
広すぎる世界の前に、小さな精霊使いの男は内心泣きそうになりながら、それでも虚勢を張って立ち尽くしていた。
――イオナ。




