105 赤い巨人10:声を聞くもの
かの女は眠らない。
眠る必要はないのだけれど、ミルドレが草色外套にくるまって眠るときは、かの女もその横で自分の翼にもこもこくるまる。
「一、深呼吸。騎士はゆったり、有酸素運動」
「二、待ち合わせには五分前到着。騎士は待っても待たせるな」
「三、騎士の手巾は二枚目装備、もてたいのなら三枚目」
「四、足らぬ足らぬで腹八分目、騎士は食わねどお白湯ざんまい」
「五、 ……ぐう」
ミルドレが“自分なりの騎士心得五カ条”をとなえて眠ってしまうと、かの女も目をつむり、“休む”。
でも実際には風の音から明日の朝の天気を予想したり、のみの夫婦のけんか仲裁をしてやったり、ミルドレの赤い長財布の中身の残り計算をしたりと、ずうっと活動している。
たまにふうっと、昔の事を思い出したりもする。
でも大昔、ほんとの昔の事はつとめて思い出さないようにしている、忘れた忘れたと自分に言い聞かせている。こわいから。
それに比べたら、ちょっと昔の事は、かの女の心にあまい記憶ばかりで心地よい。
塔のてっぺんでミルドレの声を聞いた日のこと……あの乾物屋の坊ちゃんは元気でいるかしら、いいとこへお婿に行けたかしら?
ぎゅうううううううううううううん!!
それは全く突然だった、耳から目から、鼻から口から、かの女の全身を急襲し貫いてきた強大な感覚!!
ちょうど曙光のさしたところ、がばりっと跳ね起きて、かの女はその黒羽を大きくひろげ構える。
≪戦場は、何処か≫
ざらざらざらざら、何て不愉快な響き!
その声は、その言葉は、かの女からずっと遠くで発せられていた。
それなのに、それなのに、ああこんな近くで聞こえる!
声と一緒に視界が届く、ああ……ああ、ころされている! 殺されている、ひとがひとり……ふたり、さん……
頭を抱え込んだかの女の下で、ミルドレが呻きながら立ち上がる。よろめく。
「うわああああっ、……ぐえっ」
だめだ、膝を折ってそこで吐いてしまった。
かの女はその背中をさする……ばさりばさり、と盾のように自分たちの身体を翼でかばおうとするけれど、“声”は“視界”は次々と襲いかかってきた。
「く……黒、羽、ちゃんっ。こ、これ、は……!!」
『深呼吸よ、有酸素よっっ。ミルドレ、耐えてぇぇぇ』
かの女も泣きながら叫んだ。
「まさか……う、ぐえっっ」
いやだ、いやだ、いやだ。思い出したくない、思い出したくない、思い出しちゃだめッッ。
ミルドレの背に顔を突っ伏す、震える手でかれの胸を抱き締める。
『こんなの、嫌あああッ』




