10 還り来た女5:優しすぎる父親
その日の暮れ方。
例の若い上司の天幕で報告を済ませたニーシュは、陣営からわずかに離れた小さな入り江に向かって、杖をつきつき、ゆっくりと歩いていた。
イオナ一家は、彼の天幕からあまり離れていない所に、支給された天幕を張ったようだ。先ほど寄ってみた時、ヴィヒルが腕まくりをして外まわりの張り具合を直しているのが見えた。
その天幕影から、巨大な杯を手に、ふらりとアランが出現した。すっかりくつろいだ様子である。
「シュウシュウを連れて、イオナは浜へ行きました……。炊事場の奥様方が、貝をとりに行くと聞いて、貝好きの姉のためにどっさり採って来る気なのです。何て良い子なのでしょう」
そこでぐびりと杯をあおる。ニーシュを見上げて、にっこりした。
「義姉としましては、あの子を幸せにして下さるまじめな殿方を、絶賛募集中であります。いかがですかなニーシュさん、立候補してみては」
ニーシュは吹き出した。
「無理だよ。俺、子連れのやもめだもん」
「何をおっしゃる、人生当たって砕けて立ち直れ、ですぞ」
「砕ける前提ですすめんのかい……」
その時、ヴィヒルが天幕の表面を軽くはたいた。
「あっ、終わった? ……そうだね、イオナちゃんが帰って来ないうちに、かまども積んじゃう? そうそう、そうだよね、うん、あたし塩買ってこよ。そいじゃまたね! ニーシュさん」
瞬時に別の人間に成り代わったように、口調まで変えて、女はぱっと駆け出して行った。
――酔っ払ってたんじゃなかったのか?
ヴィヒルの方を見ると、口角を上げて、少し笑ったらしい。
最初からこの男は一言も発していないのに、そしてその分アランが二倍の話量を引き受けているような感さえあるのに、どうもこの夫婦間では当たり前のように会話が成立しているようだった。
・ ・ ・ ・ ・
夏の近づく浜辺は、この時間帯でも十分に明るい。
イオナの提げた借り物の籠の中には、棒状の細長い貝がぎっしり詰まっている。数人の炊事場賄いおばさん達のあと、最後尾をゆっくり歩く彼女の耳には、押しては寄せる穏やかな波の音が満ちていた。
周りをうろちょろしながらついてくるシュウシュウが、手にしたふるふる白っぽいものを、イオナに向かって突き出す。
「これだけあれば十分だよ、もう拾わなくっていいよ」
名前は忘れてしまったが、煮るととろみの出てくるこの海藻は、ヴィヒルが好んでいる。明日の朝、杣麦粥を作る兄が使うかなと思った。天日に干しておいてもいいが、弱い雨が降りやすいのだっけか、この土地は。
「ね、シュウシュウの母ちゃんはさ、今どこにいるの?」
気になっていたことを聞いてみた。できるだけ深刻にならないようにして。
「しんなーい」
甲高い声が答える。
「シュウシュウに、おっぱいくれる前にしんじゃった」
「そっか……」
黒っぽい猫っ毛に小さなまるい瞳、本当にニーシュそっくりの娘だ。
この時代、傭兵になる人間は何かしら事情を抱えていた。
大方は経済的な理由で、手っ取り早さを最優先させるために、男は雇われ兵士になるのが定番と言えた。
生命と身体をはった仕事だから報酬は大きいけれど、食い詰めて元いた生活から追われて来た者、世間のはみ出し者として、蔑みを受ける機会も多い。
例えば、敵と殺し合うという仕事内容だけ見れば、都市国家群の貴族民である騎士と、やっている事はさして変わらない。なのに、騎士が受ける尊敬を傭兵が享受する事は、ほぼあり得ない。
どこだったかの小国では、お妃様に取り入って、側近並みの待遇を受けている凄腕の傭兵がいるとか何とか聞いた事はある。でもそんなのは、夢を膨らませたい人のための作り話に決まっていた(そもそもアランが聞きかじって、面白おかしく話すのを聞いただけだし、信用できない)。
イオナ自身は慣れて理不尽とも感じなくなってしまったことではあったが、無邪気な幼児の様子を目にしていると、やりきれない感傷がよみがえってくるようだった。この子ももう少し大きくなれば、傭兵の子として、いわれのない不愉快な扱いを受けるようになるのだろうか?
――ニーシュには奥さんがいて、そして亡くなってしまった。でもって傭兵業で生きている、……好きこのんで選んだ手段ではないのだろうな。
「あ、とうちゃん」
陣営の方へ戻る砂道を示して、幼女は叫ぶ。
確かに杖をついて大儀そうに歩く、それらしき人影が手を振っている。
シュウシュウはひゅうっと駆けてゆき、その脚に抱きついた。
「傷口が開いちゃうよ、こんなところまで歩いてきて」
「……話があるんだ」
先を歩くおばさん達とは、だいぶ距離があいた。
「その……、君らがここにとどまってくれて嬉しいし、感謝もしてる。けど、あえて危険な俺の部隊につくのは、どうかと思う」
並んで歩きつつ、ちらりと見れば男の横顔は硬かった。
「傭兵業が危険なのは、当たり前じゃない」
「……」
「わたしもあなたに聞きたいんだけど。じゃあそんな危険な部隊に、なぜあなたはいるの」
「そりゃあ、……報酬がかなり違うからな」
ニーシュは溜息をついた。
「ちっと事情があって、……俺とシュウシュウはなるべく早いうちに、遠い土地を見つけなきゃいけないんだ。そうするためには、普通の稼ぎじゃ時間がかかって仕方がない。特典の多い先行部隊で、手っ取り早く稼ぐ必要があるんだよ」
「特典?」
「歩哨に立たなくて良くて、任務外は自由な時間が多いから、シュウシュウと長く一緒にいられる」
「ああ、そっか……なるほど」
「……話をはぐらかしてないか?」
「べつに、はぐらかしてなんかいない」
そこでイオナは、はっきりニーシュの顔を覗き込んだ。
「荒地でテルポシエ兵をのしてから、どうも引っかかってた。瀕死のこの人、本当はたぶん強いんだろうに、何でこんなに弱いんだろう? って」
見返した男の顔が、固まった。泣き出すのか吹き出すのか怒り出すのか、自分でも決めかねて無理やり凍らせたような、変な顔だった。
ずっと若い、女の自分にここまで言われて何も反論しない事を、賞賛すべきか呆れるべきなのか。イオナ自身もつい、もどかしさに負けそうになる。
けーん、と甲高く鳴く声が聞こえて、大型の浜鳥がつと低空を横切って行く。明るい金色の陽光が、少し弱まっていた。
「……でも、この陣営に連れて来てみて、わかった。あなたは、優しすぎるんだと思う」
父親なのに。いいや父親だから、なのか。とにかく優しくて、……それが弱さになっている。
「は??」
ますますわけがわからなくなったらしい。イオナは口をぎゅっと上向きに曲げた。
「だって、一緒に居たあの二人。あなたを囮に押し出して、その隙に逃げ出そうとしてたよ」
一番伝えたかったのは、これなのだ。
あくまであの時、後からたどり着いた自分から見ての感覚でしかない。だが二つの遺体とテルポシエ兵、なぶりものにされていたニーシュの立ち位置から見て、明らかに彼は、仲間から見捨てられていたのである。
ただし、ニーシュはテルポシエ兵士たちの予想以上に速くて、急所を外す才覚もあった。逆に及び腰になっていた二人は、格好の的としてされるべく撃墜された、という事である。
ニーシュはうつむきかけ、唇を噛んだ。お人好しそうな丸みのある目元が、これ以上はないという風に悲しげな色に曇る。
――気付いてなかったんだ……やっぱり。
イオナ自身もがっくり来た。どうせならこう、何をどう見ても強くて強くて揺るがない、そういう種類の男に惹かれたいと思う。
ふと、今日会ったエノ王の姿が頭をよぎった。
今はもうおじさんだけど、例えばあの人が二十歳くらい若かったのなら、自分は夢中になるかもしれない、……いや、ならないかもしれない、多分ならない。
こればかりは理屈どおりにならない。自分のなかの自然に、従う他はないのだ。
それに、強く見えた人の弱いところや、頽れる姿を見るのは辛い。それなら、自分の弱さと共存できている人の方がいい。
短い溜息をついて、イオナは再び話を継いだ。
「ニーシュ。先行部隊って、戦況の一歩先に、まず飛び込んでいく人たち、ってことだよね?」
「ああ」
「あなたが危険な目に遭うのと同じ数だけ、シュウシュウも危険にさらされているんだよ?」
男は、傍らの幼女に目を落とした。
「この子の身内、他にいないんでしょう。シュウシュウのことを考えたら、先行から退くべきは、むしろあなたなんじゃないの」
男は、ふと苦笑を浮かべたらしい。
「確かにそうだ」
ぽつりと言う。
「けど今更、やめることはできない」
林の中を突っ切る小道を越えれば、陣営の周りに張り巡らせた柵がある。その内側の方がぼんやり明るく見える程度に、薄闇が落ちかけていた。
「……そう言うと思った。だからね、」
少し急いで言いかけて、イオナは一拍ぶんの瞬間を呑み込む。
全力でさりげなさを装いつつ、自分側、杖をついていない方のニーシュの肘にてのひらで触れて、そして離した。
「……少しでも手伝おうかなって、思ったんだ。ニーシュが一人で、何でもかんでも背負っちゃわないように」
―――あらららら言っちゃったよ! 申し出ちゃったよ! ど――したのイオナちゃん、そりゃまあ明日の運命をも知らぬ傭兵ならばこそ、せつなの瞬間を大事にしろとはいつも言ってるけどね、にしてもその人ニーシュさん、きのうの今日で野垂れ死に一直線だったのを拾ったばっかのおじさん、……もといお兄さんでしょ!? どの辺がどう気に入ったの!? あなたほどの子が――!
――うるさい。
自分の内面に棲息するアランを一喝して、イオナは沈黙に耐えた。
ニーシュの側に顔を向ける事ができず、ひたすら前を見てすたすた歩く。
耐えた。
耐えた。
ちょっと挫けそうになる。
「ありがとう」
通門のすぐ手前でぼそりと声がして、はっと男の顔を見る。
とてつもなくきれいな笑顔が、自分をまっすぐに見つめていた。
その目尻が、ほんのちょっと潤んできらついていたようにも見えたが、あれは門のところの吊り下げ燭台が明るすぎて、イオナの目が錯覚を起こしたのかもしれなかった。
そう、確かにこの時、イオナは珍しく油断していた。
明るみのすぐ近くにあった林の途切れの暗がりの中から、彼女を食い入るように凝視していた存在に、ほんのちょっとも気づけなかったくらいなのだから。