エピローグ 2
右手を強く握り、爪が食い込む痛みを感じた。
専用端末を外し、テーブルの上のドリンクを飲んだ。短時間のダイヴでは、椅子のリクライニングは倒さない。
深呼吸。
僕がエンプティから離脱した時、右手を握る癖も、自分の体を確認しているのか。そうやって、痛みを伴う愚鈍な体を確認している。
その不完全な体が、僕の体なのだ。
そうやって、自分の体が、記憶が、連続していると、思いたいのだ。
生命維持が面倒だった。
食事も睡眠も着替えもシャワーもうんざりするほど、苦痛だった。そうやって、自分の体調を整えないと、更に悪化するので、仕方がなくやっていただけだ。
なのに、孔雀から体を捨てる選択を迫られた時に、断った自分が意外だった。あれは、僕が望んでいたことに、限りなく近い姿だろう。
まさに、理想的な楽園だ。
ただ、他人とコミュニケーションを取らないといけないのは、苦痛だろう。一人でいる方が好きだ。
でも、それだけが断った理由じゃない。
「ラムネさんが来ます」イオが言った。
僕は頷いた。
三秒後に扉が開いて、いつもの恰好のラムネが入ってきた。昨日の出来事から、初めて会う。ほんの僅かに警戒している自分を意識する。
「どうしたの?しかめっ面だけど」一切笑わずにラムネは言った。そして、僕の返事も聴かずにキッチンに入って行った。
紛れもなく、僕の知っているラムネだった。
ラムネは、コーヒーを淹れてテーブルにカップを二つ置いた。僕もテーブルの向かい側に移動した。カップを口に付けたが、熱かったのですぐに置いた。コーヒーは香りも楽しむことが出来る。エンプティでは、それが出来ない。
でも、些末な問題だ。
「なに?」僕はきいた。
ラムネは優雅にコーヒーを飲んでいるだけで、一向に喋ろうとしない。彼女はゆっくりと洗練された動きでカップを置いた。そして、ほんの僅かに首を傾げた。
「何か用があったんじゃないの?」僕は同じことを言った。
「コーヒーが飲みたかっただけ」ラムネは答えた。
それだったら、自分の部屋で、一人で飲めばいいのに。それに、僕の分を淹れる必要もない。
僕はコーヒーを一口飲んだ。彼女の淹れたコーヒーは、確かに美味しい。同じ豆を使っているのに、ここまで差が出るのが不思議なほどだ。
「もし、自分の肉体を捨てることが出来て、永遠にエンプティにダイヴし続けることが出来るとしたら、君はどうする?」僕はラムネに言った。
ラムネは黒く綺麗な瞳で僕を見た。ゆっくりと瞬きをして彼女は言った。
「面白い仮説だけど、私は興味がない」
「どうして?」
「運動性能を向上させる理由がない。人間を変化させるのではなく、周りの物を人間に合わせるべきだから」
「ふーん」僕は頷いた。彼女ならあっさりと肉体を捨てる、と言いそうだったので、少しだけ意外な返答だった。
「それに、心臓がドキドキしないなんて退屈だから」ラムネは、悪戯っぽく笑った。