第二章 5
エレベータに乗りサナギの部屋についた。そこに孔雀がいたので、二人で出口まで向かった。仏像の下まで来て、孔雀が先に梯子を登った。上の部屋には、ディアブロがいた。ディアブロもエンプティだったのか。人間のように動くので、わからなかった。
二人に挨拶をして、別れた。後は道沿いに走って帰った。ステーションまでついて、離脱した。
…………。
溜息。
右手を強く握った。
ゆっくりと専用端末を外して、しばらく横になったまま目を瞑った。
椅子のリクライニングを起こして、デスクの上のドリンクを飲んだ。
「ログはどうなっている?」僕はイオに言った。
端末に今回ダイヴしたログを表示してくれた。それを眺めると、僕は蔵の前で孔雀に見つかって、話をした後、ステーションまで戻っていた。当然、僕が書き換えたわけではなく、グリーン・ピースがやったのだ。恐らく、普通に探したくらいでは、その痕跡を見つけられないのだろう。
彼はこうやって、これまで逃げ延びてきたのだ。
無理やり書き換えるのではなく、鍵を予め持っているので、証拠が残りにくい。これが出来る人物は限られている。僕の知っている限りでは、グリーン・ピースとイオとミクとアミダとルビィ・スカーレットの五人だ。アミダの権限が一番低いだろう。
グリーン・ピースと話すのは、久しぶりだ。彼の話がわかりやすいと思ったのは、彼が僕の知能に合わせて話してくれたからだろう。彼は、それ位には大人で、余裕がある。僕よりも、ずっとずっと天才だ。
「ラムネさんが来ます」イオが言った。
「へぇ。どうぞ」僕は言った。僕が黙っていても、ドアの鍵は閉めていないので、入ることは出来る。
ドアが開いた。
いつもの恰好のラムネが腕を擦りながら、入ってきた。彼女は僕を見て、キッチンに入って行った。戻ってくると、グレープジュースをグラスに注いで、二人分持ってきた。食事用のテーブルに置いたので、僕もそっちに移動した。向かい側にラムネがいる。
ラムネがコーヒーや紅茶以外の飲み物を選ぶ時、グレープジュースが多い。僕はあまり好みじゃないから、彼女の好みなのだろう。
「どうかしたの?」黙ったままなので、僕は言った。彼女はグレープジュースを半分ほど一気に飲んだ。
「ゲームはやらなかったの?」ラムネはグラスを置いて言った。
「ああ。そういえばやっていないね。折角だから頼めば良かったかも」話の意図が見えないが、なんとなく微笑んでおいた。
「………。あのゲームの後」ラムネはゆっくりと喋った。いつもよりも声が小さいし、高い。甘えるような発音だ。
「体中が……なんというか、落ち着かない」彼女は自分の腕を擦った。
「そんなに変なゲームだったの?」
「それは間違いない………」ラムネは下を向いた。
どうしたのだろう?いつもの彼女とはかけ離れた仕草だ。僕が見ていた映像は、彼女が体験した映像とは違っていたのだろうか。エターナルトイの一部のゲームは、性的な快楽を得ることも出来るそうだ。スライムがそれに該当するかまでは、調べていない。
「それで……」彼女は下を向いたまま言った。「その…。体中がフワフワしているというか、体の形がよくわからない。だから……抱きしめて欲しい」
「はっ?」聴き間違いかと思ったが、ラムネは頬が少し紅くなっている。「どういうことかな?もっと適切な処置があると思うけど。メディカルケアを受けた方がいい」
「それだと、ゲーム内容を報告しなければならない」俯いたまま彼女は言った。
「別に仕事の一環なんだから、そのまま報告したらいいと思うけど」
「わかってる。……でも、今だけ」彼女は立ち上がった。そして、ゆっくりと近づいてくる。
溜息。
どうしたのだろう?普通ではない。
別人の可能性があるので、彼女を注意深く観察した。
ラムネは、僕と同じくらいの身長だ。見た目は、エンプティのように整っている。人間とは思えないほど綺麗だ。それは整形したのではなく、元々その顔だった。体型も全く変わらない。ラムネは、見紛うことなくラムネだった。黒く艶やかな髪や、白く綺麗な肌も彼女のままだ。
僕は自分の体を見た。小さい掌と膨らんだ胸が見える。
もう一度ラムネを見た。
目の前にいて、少し見上げなければならない。彼女は、僕を見降ろしている。
何も言わない。
グリーン・ピースの言っていたことを思い出した。
例えば、触れ合うことで、自分の体の表面を簡単に意識することが出来るだろう。相手の熱と柔らかさを、感じることが出来る。それは、自己を認識するには、うってつけなのかもしれない。過去の全ての文明で、人間以外の動物でさえ、行う動作だ。ただ、相手が望まない場合は、迷惑が掛かるけれど。
僕は、立ち上がった。ラムネが目の前にいる。
彼女は、真剣な顔でも、笑うわけでもない。視線は僅かに僕の方が高かった。
彼女はさらに接近し、彼女の腕が僕の腰に回った。腕の力が強く、体は完全に密着した。
彼女の顔は、僕の顔と触れている。
彼女の熱。
彼女の匂い。
なんだか懐かしい、と思った。
僕は彼女の背中に腕を回して、同じくらいの力で抱きしめた。
「そのまま動かないで」ラムネが僕の耳元で囁いた。「君の今回のログは書き換えられている。私は今回の真相を、上には報告しない。彼の居場所がバレると、不都合があるから。だから、君も今回のことは誰にも言わないで。君はログの通りの行動しかしていない。わかった?」
耳元がもの凄く、くすぐったい。
力が抜けそうになるのを、堪えなくてはならなかった。だから、余計に腕に力が加わっていた。
僕は僅かに頷いた。
「因みに、僕が会ったのはエンプティでの姿だった」僕は、彼女の髪で口元を隠したまま囁いた。
ラムネは腕を解いて、一歩下がった。
目が合う。
「だいたい良くなったかも」ラムネは、少し照れて笑った。頬も紅いままだ。
それを全て演技で行うのだから、とんだ役者だ。
完璧に騙されてしまった。
「それは良かった」僕はなんとか平静を装って答えた。
「もしかしたら、また頼むかもしれない」そう言って、ラムネは悪戯っぽく笑って舌をだした。
とても、魅力的だと思う。もう一度その顔が見られるなら、何度だって応えるだろう。
「グラスは片付けておいて」ラムネはそう言って、一度も振り返らずに、部屋に戻って行った。
扉が閉まった後、大きなため息をついて、崩れるように椅子に座った。テーブルの上のグレープジュースを一気に飲んで、また、溜息をついた。
彼女が囁いた方の耳に違和感が残ったままなので、右手で抑えた。普段は存在も忘れている耳は、ちゃんとそこにあった。
彼女の熱も匂いも鼓膜を震わせる声も、まだ、僕の中に残っていた。
僕とラムネがコミュニケーションを行う上で、直接会って、小声で話すのが、最もセキュリティの高い手段となる。メールは、見られている可能性があるし、通話も勿論駄目だ。エンプティにダイヴしても、例えば、グリーン・ピースなら、会話の内容を知ることが出来るだろう。ヴァーチャル世界に行っても同じだ。この部屋も、会話は聴かれている。ラムネなら常に知ることが出来るだろう。
普段は、ラムネが上に報告をするはずだが、もし、ラムネも疑われている場合は、ラムネの上の人が直接見ることになる。その場合は、さっきの方法が一番いい。
誰にもバレないし、記録も残らない。
頬を紅くしたのも、声色を変えたのも、全て演技だったのだ。
見事に騙された。
彼女は、表面上だけ変化させて、冷静にことを遂行したのだろう。それに彼女は、ゲームを体験した後から、腕を擦る仕草をしていた。あれは、こうなることを予測して、伏線を張っていたのか。思慮深さと、抜け目のないプロの仕事に感心した。
大きく深呼吸をした。
最近のどの仕事よりも、疲れた気がした。
「僅かに体温が上昇し、心拍数が上がっています」イオが言った。
照れ隠しで笑った後、一瞬だけ間を置いた。
「さっきダイヴした時のことを、思い出していたんだ。スリリングだったから、そのせいかもしれない」僕は嘘を付いた。
「いえ。お二人から同じ症状が確認されたので、原因は別にあると思われます」