ドラゴンスケッチ
これから隣町の動物園に、ドラゴンをスケッチしに行こうよ。
夏の日の土曜日。玄関の前に立っていたクラスメイトのミヤコちゃんは、挨拶もなしに、開口一番そう言った。ミヤコちゃんは右脇にスケッチブックを挟んでいて、肩からは画材を入れた小さなバッグをかけていた。首筋にはうっすらと汗が浮かんでいて、幅広の帽子のつばから落ちた影は日差しの眩しさをひっくり返したくらいに暗かった。
空は青く澄み渡っていて、太陽の日差しが地面を反射して、眩しい。開けた玄関からまとわりつくような湿気を帯びた風が入り込んできて、近くに海なんてないはずなのに、どこか塩気を感じた。
この前はずっと空を飛んでて結局うまくスケッチできなかったじゃん
だから、そのリベンジかな
この季節は地面が熱いからなかなか降りてこないらしいよ
今日は地上に降りてくる予感がするの
私は深く息を吸ってため息をつく。早く支度して。ミヤコちゃんはそれだけ言って、私を急かす。
一分で支度するから待ってて。
さっすがー。
ミヤコちゃんが笑う。私も笑い返して、とりあえずリビングに上がって涼んでとミヤコちゃんを招き入れる。それから私は2階にある自分の部屋へと急いで向かった。下のリビングからはミヤコちゃんとお母さんの話し声が聞こえてきたけど、何を話してるのかまではわからない。水筆ペン、水彩パレット、鉛筆に練り消し。必要なものをリュックに入れる。最後に本棚にぎゅうぎゅうに突っ込まれていたスケッチブックを掴んで、グイグイと縦に揺らしながらなんとか引っ張り出す。それからふと思い出し、部屋の外に出て一階にいるお母さんに向かって尋ねた。
ねえ? レジャーシートってどこにある!?
畳の部屋に入れっぱなしなんじゃない!?
ありがとー!
私は畳の部屋からレジャーシートを持ってきて、ぐるぐると丸めてリュックに押し込んだ。適当に選んだ帽子をかぶって姿見の前に立ち、やっぱり違うなと思って、また別の帽子を被る。ちょっと納得はできなかったけど、別にいいやと思ってリュックを背負い、ミヤコちゃんが待ってるリビングへと降りていく。ミヤコちゃんはクーラーの効いたリビングのソファに座っていて、膝の上に乗せていたうちの猫と戯れていた。支度できたよと私がミヤコちゃんにいうと、ミヤコちゃんは別に腕時計なんてつけてないのに左手を見て、ただいまの記録は1分23秒ですとおちゃらけた。
一分という高い壁は越えられませんでしたが、マリコ選手、今の心境をお聞かせください
はい、反省すべきところを反省し、きちんと次に活かしていきたいと思います
ミヤコちゃんが笑いながらバッグとスケッチブックを手に取る。膝の上に乗っていた猫が飛び降りて、太り過ぎた身体で大きく伸びをした。
行ってきまーす
熱中症には気をつけなさいよ
わかってるってば!
私はミヤコちゃんと一緒に外へ出る。ちょうどそのタイミングで風が吹いて、熱気と湿気が身体を包み込む。太陽の日差しがアスファルトを反射して眩しく、私は思わず目を細めてしまった。暑さが体にまとわりついてくる。やっぱり家にいない? と私が言うと、何言ってるのとミヤコちゃんが私の背中を叩く。
私たちは他愛もない会話をしながら、できるだけ日陰を選んで歩いていった。深く息を吸い込むと、土と若い緑の匂いが肺に満ちる。大きな木の下をくぐると、木漏れ日の光が半歩前を歩くミヤコちゃんの帽子に、模様のように映し出される。私は空を見た。隣町がある方向に、一匹の大きなドラゴンが空を優雅に飛んでいる姿が見えて、夏だなという実感が心の内側から湧いていくるのがわかった。
ドラゴンと言えば、私のおじさんが昔南米でドラゴンの肉を食べたことがあるらしいよ
すごいね、どんな味なんだろう
おじさんが言うには、エビの味に近いんだって
へー、意外
十分ほど歩いて、ようやく私たちは街中を走る路面電車の停留所にたどりつく。ミヤコちゃんが時刻表を見て、もうすぐ来るっぽいよと教えてくれる。ベンチに腰掛ける。さっきまで日差しが当たっていたのか、硬いシートはほんのりと熱かった。目の前の電車の線路は夏の太陽に熱せられて、目をこらせば湯気が見えるんじゃないかと思うくらいに火照っていた。
私たちはベンチに腰掛けながら待ったけど、なかなか電車はやってこない。遅いねとミヤコちゃんと話していたら、近くの駅でちょっとした事故が起きているらしいという話が聞こえてきた。なんか線路上に車が立ち往生しちゃってるんだって。ミヤコちゃんが携帯で調べて教えてくれる。ここで時間を潰すのも悪くはなかったけれど、何もしてないのも暇だねと言って、近くにあったコンビニにアイスキャンディを買って戻ってくる。
路面電車の停留所で、私たちはアイスキャンディを食べながら遅れている電車を待った。ほんのりと香る夏の風が髪を揺らす。甘いアイスを口に含むと、夏の暑さを忘れさせてくれるほどの冷たさが広がる。隣を見ると、ミヤコちゃんもアイスを口に含みながら笑いかけてきてくれて、私も思わず笑ってしまう。
そうそう、言い忘れてた
何?
引越しの日、決まったよ。8月25日。
ミヤコちゃんの言葉と同時に、カンカンという路面電車の到着を告げる音が停留所に響き渡る。私は食べ終わったアイスキャンディの棒を包装紙に入れ、立ち上がる。口の中には甘さと冷たさが残っていて、夏の暑さとはアンバランスなくらいに身体は涼みきっていた。
隣町とか、隣の県とかだったら簡単に会いに行けるかもしれないけど
さっきまではおとなしかった蝉たちの鳴き声が、山の方から聞こえてくる。ゆっくりとやってくる路面電車の方を見つめながら、私は独り言のようにつぶやく。
アメリカは遠いよー
路面電車がゆっくりと私たちの前に停まる。空気が抜ける音とともに扉が開いて、空調の効いた車中から冷気がこぼれ出てくる。乗客は少なくて、席はまばらに埋まっていた。私たちは空いていた運転席の真後ろのシートに腰掛ける。電車の出発とともに大きく車内が揺れ、ミヤコちゃんの髪が私の右肩にかかった。
窓越しに聞こえてくる蝉の鳴き声は耳鳴りのように現実味がなくて、路面電車の中で聞こえてくるのは、低い空調の音と、停車駅を知らせるアナウンス音だけ。電車がカーブに差し掛かるたびに吊り革が振り子のように触れる。私とミヤコちゃんは何も言わず、窓の外の景色を眺めていた。だけど、ただ過ぎ去っていく景色はいつもと変わり映えがなくて、考え事をしている頭の中をただ右から左へと流れていくだけだった。
アメリカのドラゴンってどんな感じなの?
でかいよ。なんてったって、アメリカだから
どれくらい?
スケッチブックには収まりきらないくらい
聞きたいのはそんなことじゃないのに、どうでもいい言葉しか口から出てこない。でも、じゃあ何を聞きたいのかって考えても、答えは見つからなかった。ずっと友達でいてくれるよね、とか。夏休みとか春休みに会いにいくね、とか。そんなありきたりの言葉なんかじゃない。ミヤコちゃんはいつの間にか、何か私に言いたいことでもある?というような目でじっと私を見つめていた。私もミヤコちゃんの方を見つめかえす。それから私は、脇に挟んだスケッチブックの端を手で触りながら、ミヤコちゃんに話しかけた。
今日は上手にスケッチできるといいね
どうして?
だって、アメリカだとデカすぎてスケッチができないから
ミヤコちゃんが呆れた表情を浮かべる。そんな表情を見ていたらなんだか馬鹿らしくなって、私は思わず吹き出してしまう。そしたらミヤコちゃんも私に釣られて吹き出して、路面電車の中、私たちは声を押し殺して笑いあった。
アメリカに行ったらさ、アメリカのドラゴンの絵を送ってあげるよ
ミヤコちゃんは涙を拭いながらそう言ってくれた。
だから、マリコもさ、スケッチを送ってね。見せ合いっこして、どっちが上手か競争しようよ
いいの? ミヤコちゃん、私よりも下手っぴだけど
アメリカに行ったらもっと練習するから、見ててよね
それから私たちは再び笑いあう。鮮やかな夏の光が窓ガラスを通して電車の中に溢れていて、誰かが開けた窓からは夏の湿気を帯びた風が、私たちの頬を撫でながら流れていった。次は動植物園入り口前、動植物園入り口前。そのタイミングでちょうど、路面電車に目的地を告げるアナウンスが流れる。電車を降りると、夏の日差しに目が眩んだ。それから、動物園へと向かおうとする私の肩をミヤコちゃんが叩く。
ほら、あれ!
ミヤコちゃんが指差した方向を見上げる。動物園の上空には、隣町からも見えたドラゴンが空を泳いでいた。私たちがじっとその姿を眺めていると、優雅に両翼をはためかせながら、ゆっくりと動物園の敷地内へと降りていくのが見えた。私はミヤコちゃんの方を見る。ミヤコちゃんも私の方を見て、得意げな表情で私に言った。
言ったでしょ。今日は地上に降りてくる予感がするって
ミヤコちゃんが私の手を握り、早く行こうと私を急かす。私は笑い返しながら、リュックを背負い直し、スケッチブックをしっかりと脇に抱えた。それから私たちは動物園の入り口へと走り出す。蝉の鳴き声をかき消すように、遠くからドラゴンの鳴き声が聞こえたような気がした。