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今宵、仮初めを卒業したく。

作者: あさの紅茶


時は明治三十年--。


和服の着流しに海老茶色の袴を身につけるときゅっと気持ちが引き締まる。

女学校に向かうため朝の身支度を整えた奈津は「いってまいります」と告げると玄関を出た。

だがすぐに止められる。


「待ちなさい、奈津」

「はい?」

「今日は桐ヶ崎様がいらっしゃる。戻って着替えなさい」

「桐ヶ崎様?」


聞いたことのない名前に奈津は首を傾げた。


「お前の結婚相手だ」


そう告げられたとたん、奈津はカッと頭に血が上った。


「お父様、何度も言っていますが私はまだ結婚するつもりはありません」

「ふざけるな。女学生のうちに結婚するのが女の幸せだろう。今までも何度か見合い話をいただいたのに断りよって」

「私は結婚よりも勉学に励みたいのです。卒業後は師範学校に行くつもりです。だからお断りを」

「お前、世間から老嬢と呼ばれてもいいのか」

「言いたい者には言わせておけばよいのです」


大学教授の娘に生まれた奈津は、小さい頃から勉強が好きだった。

女は家庭での役割を求められ学問は不要だと言われていた時代。それが文明開化によって徐々に女子の教育が広まってきた。

だが平田家にとってはまだまだその考えは浸透していない。

現に母親は父親の言いなりであり、今も半歩後ろで意見もせず頷いている。


「お見合いの話など持ってこないでください」


ピシャリと言い放つ奈津だったが、次に父親の口から出た言葉は衝撃の一言だった。


「今回はお見合いではない。結婚だ」

「ですから……え、結婚?」

「そうだ。もう決まった話なのだ」

「……は?」


いまいち話が噛み合わず奈津は目をぱちくりさせる。


「え、嫌です。お断りします」

「断ることは許されん。これは平田家と桐ヶ崎家で決まった話なのだ。お前の意見など聞かん」


強引に話を進める父親に、奈津はギリっと奥歯を噛んだ。

自由恋愛などあってないようなもの。

大抵は親が持ってきた縁談を受けて結婚し、それに伴って女学校を辞めていく者ばかりだ。

そうして売れ残った女子のことを世間では老嬢と呼んでいることを当然奈津も知っている。


「ふざけないでください」

「ふざけているのはどっちだ」


父親の怒号と共に手が振り上げられ、反射的に目を閉じた。頬を叩かれる覚悟をしたのに、一向に衝撃は訪れない。


「き、桐ヶ崎さん……」


怯んだ声に、奈津はそっと目を開けた。

そこに飛び込んできた光景は、父親の腕をガシッと掴んで止めている一人の青年の姿だった。

さらりとした前髪から覗く切れ長で二重の瞳は酷く冷ややかだ。だが鼻筋は通りとても綺麗で目を惹く容姿は、図らずも奈津をドキっとさせた。


「これは一体?」

「い、いえ、お見苦しいところを」


あれだけ虚勢を張っていた父親が一瞬にして怯む。

それほどまでにこの青年の威圧感は凄まじいものがあった。


「初めまして。桐ヶ崎成臣と申します」


丁寧に挨拶する成臣は三つ揃えの洋服を着ており、上品でいて西洋の香りが漂う。


「あ、あの……」


奈津は拳を握り自分を奮い立たせ、結婚はしないと口を開きかけた時だった。

先に成臣の薄い唇が開かれる。


「ずいぶんと威勢のいい方だ。俺と結婚はしたくないと?」


冷ややかな視線は奈津に向けられたものなのか父親に向けられたものなのか。

桐ヶ崎は先程の奈津と父親のやり取りを聞いていたに違いない。

奈津はぐっと言葉に詰まった。

だが桐ヶ崎はふと視線を緩める。


「それは好都合だ。俺も結婚には乗り気ではない」

「え?」


予想外の言葉に思わずポカンとしてしまう。


「あ、あの、では……」

「俺も見合い話は幾度となくもらい断ってきた。けれど結婚すればお互い煩わしい見合い話が今日で終わるのです。馴れ合う気がないのなら俺とあなたは利害が一致する。俺は仕事に集中できるし、あなたも自由に勉強したらいい。だから俺はあなたと結婚したい。悪くない話ではないか?」

「そ、そうかもしれませんけど……でもそんなことで結婚だなんて……」


桐ヶ崎は奈津の耳元に口を寄せる。


「結婚なんて、仮初めですよ」


父親に聞こえないくらいの大きさで囁かれ、妙な背徳感に唾をごくりと飲んだ。



桐ヶ崎は二十八歳。財閥の御曹司であり実業家として名を馳せている。若くして欧州に留学しており、その経験と知識を生かして商社を作り貿易業でも富と名声を上げた。国内外の賓客をもてなすために専用のホールまで作ったというから驚きだ。

奈津は桐ヶ崎邸を前にして開いた口が塞がらないでいた。奈津の家も旧家でそれなりに裕福な暮らしをしていたが、文明開化で西洋文化が浸透してきた今も父親は新しいものを取り入れようとはせず、西洋文化は奈津に取って憧れでしかなかった。

門をくぐれば整えられた庭が玄関まで続き、さらに大きく開かれた玄関を入ると客をもてなすためのホールがある。


「す、すごい」


感嘆のため息しか出てこない。


「一階は客間と使用人の部屋でございます。奥方様のお部屋は二階になります」


使用人に連れられて二階に上がると、大きな窓からは光りが燦々と降り注ぐ。


「こちらが主寝室になります」


案内された部屋に入ると見たこともない大きなベッドがひとつ。


「主寝室ってことは、もしかしてここに桐ヶ崎様も?」


奈津の呟きに使用人は怪訝な顔をし、慌てて奈津は口をつぐむ。

仮初めの結婚だというのは二人だけの秘密なのだ。


ーーまがりなりにも夫婦だ。自由にやってくれて構わないが、社交場ではそれなりに振る舞ってもらおう。


自由に勉強をし師範学校に進学することも許可してくれたが、最後にそう付け加えられた。奈津は自由勉学を許される代わりに、表向きは夫婦を演じなくてはならないのだ。


「それからこちらは、奥方様のためのお部屋でございます。自由に使ってよいと旦那様から言付かっております」

「まあ、ありがとう」


他の部屋に比べたら少し小さいその空間には、奈津にはもったいないくらいの大きさの机と椅子、そして本棚が設置されている。


「これは?」


奈津は机に置かれているペンを手に取る。


「万年筆でございます。奥方様は書き物がお好きだということで、旦那様がご用意なさいました」

「そうなの」


万年筆は舶来品でとても高価なものだ。

試しに筆を走らせると、とても滑らかに文字が書けた。


「いいのかしら、もらっても」


男性から贈り物をされたことのない奈津は急に心臓がドキドキと打ち始め万年筆を胸に抱えた。

成臣とは仮初めの結婚だ。こうして贈り物をされることも社交場での振る舞いと同等なのだろうか。それだとしても一言お礼くらいは言いたい。


「桐ヶ崎様はいつお帰りになるのかしら?」

「今日は商談があるそうで遅くなると聞いております」

「そう」

「お寂しいですね」


奈津の返事を落ち込みと受け取った使用人は同情の相槌を打つ。

周りからしたら奈津と成臣は新婚なのだ。それなのに妻を放って仕事を優先する夫に奈津がガッカリしたと思ったのだろう。


「え、ええ、そうね」


奈津は精一杯の笑顔でその場をやり過ごした。


一人夕食を終え夜着に着替えた奈津は急に自分の浅はかさを悔いた。

与えられた寝室はひとつであり、そこには大きなベッドを確認している。


(まさか桐ヶ崎様と一緒に……)


あらぬ想像をして一気に頬が染まる。


(や、やだ、私ったら)


まだ寝室には一人だというのに奈津はやたら緊張してしまう。

成臣の帰りを待っているべきか先にベッドに入っているべきか悩んでウロウロと歩き回っていると、ふいに部屋のドアが開いた。


「奈津、まだ起きていたのか?」

「き、桐ヶ崎様っ。お、おかえりなさい」


ぎこちなく挨拶をすると成臣は不満そうな顔をする。


「奈津、仮初めでも夫婦なのだ。名前で呼んでもらわないと困るな」

「あ、すみません。えっと……な、成臣様」


言って胸がぎゅんと震える。名前で呼ぶことでこの人と結婚したのだという実感がじわりとわいて焦りを覚えた。


「そんな緊張しなくとも。別に取って食おうというわけじゃない。それから、様は少々他人行儀だな」

「はい、えっと、成臣さん」

「今日は学校へ行ったのか?」

「いえ、今日は荷物を整理しておりました。あ、万年筆が置いてありましたがいただいてもいいのですか?」

「もちろんだ」

「でも舶来品はとても高価なものでは?」

「そうだな。だが奈津なら使いこなしてくれるような気がした」

「ありがとうございます。大事に使います」


お礼を言うと成臣は目を細める。


「もう遅いから先に休むといい」

「はい。その、同じベッドで……?」

「別々の部屋で寝ると使用人たちに怪しまれるからね。だが奈津が嫌なら私は書斎にでも籠ることにしよう」


成臣はそう言うと寝室を出ていこうとする。

奈津は無意識に成臣の洋服の裾を掴んでいた。

振り向いた成臣が怪訝そうに首を傾げる。


「あ、えっと……成臣さんはベッドでお休みになってください。私が書斎に行きます」

「それはダメだ。奈津がベッドで休みなさい」

「いえ、ダメです」


二人の押し問答はしばらく続き、やがて答えの見えない終着点は“同じベッドで寝る”ということになった。

背中合わせでなるべく端によって身を縮める奈津は、静かな寝室で布団の擦れる音にすら敏感に反応してしまうくらい神経が研ぎ澄まされていた。

何をするわけでもない、ただ隣に成臣がいるだけなのにドキドキと鼓動が早くなる。ときおり深く息を吐き出すもその緊張がほぐれることはない。


「奈津、眠れないのか?」


突然の成臣の声にビクっと体を震わす。返事をせずとも起きていることがバレバレで奈津は小さく「はい」と返事をした。


「少し話をしようか?」


言われて奈津は少しだけ顔を後ろに向ける。すると思ったよりも近い位置で、しかも片肘をついて頭を支え僅かに体を起こした成臣と目が合い慌てて目を背けた。


「奈津はなぜ師範学校に進学したいんだ?何か夢でも?」

「いえ、特にこれをというのはありません。ただ勉強が好きなのでもっと知識を得たいですし、教師になるのも悪くないと思います」

「なるほどね」


成臣は納得しつつ、しばし黙る。

沈黙が奈津にプレッシャーを与え、暗闇のなか成臣の表情を確認しようと少しだけ顔を向けた。オイルランプの僅かな明かりで見えた成臣の横顔は奈津が思っているよりもずっと凛々しくて、心臓がドクンと高鳴る。


「算術や商法を学んではみないか?」

「え?」

「俺はいろいろなことに手を出しているが、とりわけ今は貿易に力を入れている。そこで働きながら勉強してみないか?」

「働きながら学校へ行けとおっしゃっているのですか?」

「違うよ。俺と一緒に貿易を学ばないかと言っているんだ」

「貿易ですか?」


思わず奈津は体を起こし成臣に対峙する。


「日本は貿易でもっと国を豊かにしなくてはいけない。その手伝いをしてほしいと思っている」

「貿易……舶来品等に関われるのですか?」

「もちろんだ」

「うわぁ、すごい」


奈津のテンションの上がりように成臣はふっと笑みをもらし、


「向上心のあるやつは好きだな」


とさらりと言った。

成臣の言葉を素直に受け取ってしまった奈津は一気に顔を赤くし、目を伏せてまたしずしずと布団に潜り込んでいく。


「えっと、よろしくお願いします」


モゴモゴと呟く奈津に、成臣は人知れず微笑んでいた。


成臣の仕事に着いていくようになると、学校で勉強する以外の社会のことがたくさん見えてきて、奈津は楽しくて仕方がなくなった。

奈津の貪欲に学ぶ姿勢は見習うべきものがあり、他の従業員にも良い刺激を与える。

成臣にもらった万年筆と雑記帳を携え、逐一書き記す姿は見ていていじらしくなるほどだ。


「うわぁ、すごく綺麗」


テーブルに並べられた品物の中で、ひときわ目につくもの。細かな細工が施され、宝石が付いている指輪があった。


「奈津、手を出してごらん」

「はい」


成臣に言われるまま手のひらを上にして差し出すと、その手を反転させられる。

成臣の大きく節張った男らしい手に触られて、奈津は一気に体温が上昇するのがわかった。


「あ、あの……」

「巷では結婚指輪が大流行しているらしい」

「……はい」

「これは俺から奈津への贈り物だ」


スルスルと指にはまっていく指輪をスローモーションのように見ながら、奈津は胸のときめきが抑えられなくなってくる。

薬指に嵌められた指輪をまじまじと見れば、細かな細工と装飾が相まってまるで夜空の星のようにキラキラと輝いていた。


「気に入ってくれるといいが」

「はい。はい、もちろんです。とっても嬉しいです。ありがとうございます。流行するのがわかる気がします。これはもうどんどん宣伝すべきかと……」


真っ赤な顔で訴える奈津に、成臣はクスクスと笑い出す。


「な、何か変なことを言いましたか?」

「いや。奈津は本当に向上心があるね。教師よりも商人に向いているよ」

「そうでしょうか?」

「うん、そういうところが俺は気に入っている」

「気に入って……え?」

「好きだという意味だ」

「ひゃっ」


顔がボンっと音を立てたかのように、奈津は口をパクパクさせて驚く。そんな初心な仕草に成臣はまたクックと笑いながら奈津の頭を優しくポンポンと撫でた。


「期待しているよ、奈津」

「……はい」


何に対して期待されているのか、よくわからないまま奈津は小さく返事をした。



桐ヶ崎おかかえの運転手によって女学校まで通う奈津は、注目の的になっていた。


「奈津、見たわよ。どこのお嬢様かと思ったわ」

「やめてよ、小夜ちゃん」


同級生の小夜はニヤニヤと奈津をからかい、奈津は苦笑いだ。


「それにしても結婚したのにまだ学校に通うなんて、奈津ももの好きよね」

「そうかしら?」

「そうよ。だって普通結婚が決まったら学校を辞めて旦那様に尽くすものよ」

「だって、成臣さんも自由に勉強していいって」

「もー、そんなの真に受けてるの?優しいのね、成臣さん」

「そうね。優しい」


言葉にして、改めて実感する。

最初の出会いこそ最悪なものだったけれど、結婚してからは優しい言葉をたくさんかけてもらっていた。

奈津の勉学に対する向上心も認めてくれる成臣はいつしか奈津にとってよき理解者のような存在だ。


「それはそうと、子供ができたらさすがに学校辞めるのよね?」

「ええっ?」

「いいなぁ、憧れる。私も早く結婚して学校辞めたいなぁ」

「子供って……」

「だって夫婦になったんだから、当然経験済みよね。あー、奈津に先を越されたぁ」

「ちょ、ちょっと小夜ちゃんったら。やめてよ」

「いいじゃない。羨ましいのよ、私は」


あっけらかんと口にする小夜に、奈津はタジタジだ。"経験"だなどと、奈津は考えただけで耳まで真っ赤になってしまう。そんな様子を見て小夜は羨望の眼差しで奈津をいじり倒した。

そもそも奈津と成臣は仮初めの結婚なのだ。

お互い利害の一致で結婚を選んだにすぎないため、間違いが起きるわけがない。

同じベッドを使っているのも使用人たちに仮初めだとバレないようにしているためだし、そもそも広すぎるベッドでは肌が触れ合うことすらない。

いつもベッドの端で丸まるようにしている奈津は、成臣の方に背を向けている。

それが寂しくないかと言われれば、最近は少しだけ寂しいような気もしている。

一緒にベッドへ入ることへの抵抗はすでに無くなっており、背中越しに感じる成臣の呼吸に安心感さえ覚えているのだ。


(……何考えてるのよ、私は)


奈津はブンブンと頭を振る。

そもそも勉学に励みたくて無理やりながらも窮屈な家から出たのだ。のびのびと学ぶことができるこの環境を大切にしていきたい。


(でもこの環境をくれたのは成臣さん)


いつだって奈津のことを想い、奈津のためにといろいろと先回りして準備をしてくれている成臣。

仕事に打ち込みたいと言いながらも奈津に貿易や商法のいろはを惜しみなく見せてくれる。

そして奈津を"好きだ"と言う。


(勘違いしちゃダメ。私の勉強に対する姿勢を評価してくれているだけなのよ)


奈津は自分を戒めるように、より一層勉学に励んだ。



しばらくそんな生活が続いたある日のこと。


「奈津、すまないが一月ほど家を空けるよ」

「はい、どちらへ?」

「神戸に来る外国商人とようやく会える目途がついたんだ。大きな商談になると思う」

「わかりました。いってらっしゃいませ」


成臣を笑顔で送り出し自分もいつも通り学校へ通う。

学校では勉学の傍ら小夜たち同級生と談笑し、いつもと変わらない時間に帰宅し食事を取る。

夜着に着替えて寝室へ行くことだって、普段と何ら変わらない。

それなのに、ベッドに潜り込むとひどく背中が凍えた。


「……寒い」


奈津はいつも以上に身を縮こまらせてシーツを手繰り寄せる。

いつもは背中越しに成臣がいる。

触れなくとも、その気配や温度は知らず知らずのうちに奈津に安心感を与えていた。


「……成臣さん」


呼んでみるも当然返事はない。

一人の夜はこんなにも冷たいものかと奈津はひしひしと肌で感じたのだった。



「寂しそうね」


言われた言葉が一瞬理解できなくてきょとんとしてしまう。


「え?」


顔をあげれば小夜が弁当をつつきながら怪訝な顔をした。


「だから、奈津のことだってば。成臣さんがいなくて寂しそう」

「そうかな?」

「そうだよ。明らかに静か」

「私は小夜ちゃんと違っていつも静かよ」

「何ですって?」

「あはは、ごめんごめん。うん、でもそうね。寂しいかもしれない」

「あー羨ましい。私も寂しいとか言ってみたいわ」

「いつも近くにいた人がいないって、寂しいものなのね」

「愛してるのねぇ」

「えっ、いや、えっと」

「照れなくてもいいじゃない。だってそうでしょう?結婚していつも近くにいた両親と離れて暮らし始めたのに少しも寂しそうにしないで、成臣さんがたった数日いないだけでこの落ち込み様よ?」

「落ち込んではいないけど。なんか背中が寒いなぁって」

「は?何それ」

「いつも背中越しに感じていた成臣さんの体温が感じられなくて、寒くて寝不足なの」

「ちょっと奈津、それって惚気って言うのよ。自覚ある?」

「へっ?ち、ちがっ」


小夜に指摘されたとたん、カアアッと体温が上昇する。


「わ、私はただ単に寒いってことを言いたくて……」

「ああ、はいはい。わかったわかった。もう私はお腹いっぱいだわ」


奈津は困ったように反論するが、小夜はカラカラと笑いながら早く自分も結婚したいと思いを馳せた。


奈津が桐ヶ崎邸に戻ると使用人たちは慌ただしくしており、奈津の姿に気づいて駆け寄ってくる。


「ああ、奥方様、大変でございます」

「どうしたの?」

「旦那様が何者かに襲われて負傷されたようです」

「え……」


事態を飲み込むのに数十秒はかかった。持っていた鞄が自然と手から滑り落ちる。


「成臣さんは?」

「まだ詳細はわかっておりません。先ほど一報が入ったのみでございます」


カタカタと震え出す自分の手をもう片方の手でぎゅっと握る。どうしようと思う前に奈津は声を上げていた。


「私も神戸に向かいます」

「ですが……」

「準備をしてちょうだい」

「はい、承知致しました」


成臣の安否はわからない。

けれど奈津はじっと家で待っていることはできなかった。

成臣の笑顔を思い出すと鼻の奥がツンとしてくる。「奈津」と優しく呼びかけてくれることも今はもうずいぶん遠いことのようにすら思えて胸がぎゅっとなった。


(襲われたってどういうことだろう?)


奈津は考える。

廃刀令は奈津が生まれる前に出ているし、士族の反乱も西南戦争後は穏やかになっている。


(じゃあ外国との戦争?)


それならばもっと世間は大騒ぎのはずだ。新聞にもそのような記事はなかったし、街の雰囲気もいたっていつも通りだった。


(ああ、わからない。とにかく無事でいてください)


神戸に着くのは今日だろうか、明日だろうか、それとももっとかかるのだろうか。

時間の感覚すら忘れるほど奈津は成臣の安否を想い、無事を祈り続けた。

気を抜くとカタカタと震えそうになる体を両手でぎゅっと抱きしめる。

もしも成臣がいなくなってしまったら……?

そんな不吉なことが頭を過り、奈津は身震いした。

もう奈津にとって成臣はなくてはならない存在になっている。

それは奈津が自由に勉学に励めるためではない。

奈津のよき理解者だからでもない。


(私は成臣さんのことが……好き)


例え仮初めだとしても、この先も夫婦でいたい。

成臣が奈津のことを好きだと言ってくれるように、奈津も成臣に好きだと伝えたい。

奈津と成臣の"好き"の意味が例え違っていたとしても、それでも奈津は自分の気持ちに気づいてしまったのだ。


(成臣さん、成臣さん!)


心の中で何度も名前を呼びながら自分を鼓舞し、奈津は神戸までの長旅を切り抜けた。



神戸の宿場町に降り立った奈津は、療養施設である宿坊を訪れていた。


「ごめんください。ここに桐ヶ崎がいると聞いて来たのですが」

「はい、どちら様でしょう?」

「私は桐ヶ崎の妻の奈津と申します」


自分の口から"妻"を名乗ると、得も言われぬ感情が体を駆け抜ける。


「あらぁ、可愛らしいお方ですね。ご案内しましょう」


女将さんに着いて二階へ上がる。

一段一段踏みしめるたび、成臣との距離が近づくことに奈津は緊張して身を固くした。


「こちらですよ」

「はい、ありがとうございます」


小さく深呼吸してから、襖越しに「成臣さん」と声をかけた。

しばらくの沈黙の後、


「……奈津?」


と声がする。

その一言だけで奈津は胸がいっぱいになった。

まだ成臣の姿は見ていない。

ただの襖越しだというのに、成臣の落ち着いて優しい声は奈津の心をあたたかく包んでくれるようだ。


「どうした?入らないのか?」

「……今、行きます」


込み上げてくるものを抑えながら、奈津はゆっくりと襖を開けた。

その目に飛び込んできたのは奈津の知っている洋服を着た成臣ではなく、ゆったりとした着物をまとった成臣だった。


「……成臣さん」

「奈津、わざわざ来てくれたのか」

「……はい」

「長旅だっただろう。疲れてはいないか?」

「……はい」

「どうした?入らないのか?」


廊下に立ち尽くす奈津に、成臣はこちらに来いと自分の横をトントンと指す。

畳張りの部屋は桐ヶ崎邸とは違い、歩くたびにギシギシと小さな音を立てた。

和布団を敷いた上に上半身を起こした状態の成臣に近づくたび、奈津の胸はどんどん締め付けられていく。


「ここに座りなさい」


言われた通り成臣の横にストンと座ると、奈津は唇をぎゅっと噛みしめた。


「あの、お体は……?」

「うん、大したことはないよ。心配をかけてすまなかったね」

「……いえ」

「アヘンの闇取引きに巻き込まれて負傷しまってね。ああ、俺の身の潔白は証明されているから安心しなさい。すぐに帰ろうとも思ったのだが、ここで療養しろと医者に言われてしまったんだ」

「……そう、ですか」

「おかげでせっかくの商談がなくなってしまったよ」

「……はい」

「奈津?」

「……はい」

「泣いているのかい?」

「……っ」


じわりと滲んだ目頭を目ざとく見つけられ、奈津は瞳を揺らす。成臣はそれをそっと指で掬った。


「成臣、さ……ん」

「奈津」

「うっ……ううっ……」


成臣に触れられたのはいつぶりだろうか。

ほんのわずかに指が触れただけだというのに、そこから熱を帯びていくように奈津の体の血が巡り出す。ずっと冷え切っていた体がぽかぽかとあたたかくなっていくようだ。


「泣くなよ」

「だって、成臣さん……私、心配で……」

「心配してくれたのかい?奈津は優しいね」

「……優しいのは……成臣さん……です」

「それにしても、よくここまで来たね。もしかして俺の言葉を気にしているのか?」

「え?」

「社交場ではそれなりに振る舞ってもらおうと言ったことだ。奈津は頑張って妻の役目を果たそうとしてくれているのかと……」


言って、成臣は口をつぐんだ。奈津がひときわ大きな涙を流し眉を八の字に下げてわなわなと震えていたからだ。


「……奈津?」

「な、成臣さんは、か、仮初めでしかないでしょうけど……私は……成臣さんのことが……」


震えながらその先を口にすることはできず、奈津は唇を噛んだ。

やはり成臣が奈津のことを"好きだ"などと言っていたのは、奈津の思っている"好き"とは違っていたのだ。

やはり仮初めは仮初めだったことを痛感してそれ以上何も言えなくなった。


「奈津、続きを聞かせて」

「……嫌です」

「奈津。聞きたい」


成臣は奈津の手を取る。そこには成臣が贈った指輪が嵌められており、成臣は嬉しそうに微笑んだ。


「ほら、私は成臣さんのことが、何?」

「ひえっ」


みるみるうちに真っ赤になる奈津が可愛らしくて、成臣は助け舟を出す。


「俺は奈津のことが好きだ。奈津は?」

「私は……」

「うん、私は?」

「成臣さんのことが……」

「うん、成臣さんのことが?」

「す……」

「す?」

「……好きで好きでたまらないです!」


半ばやけくそで叫ぶように言った奈津だったが、思いのほか成臣のほうが照れて頬を染めていた。


「え、ちょっと、何で成臣さんが照れるの」

「だって、奈津があまりにも可愛いから」

「ひえっ」


奈津の悲鳴は成臣の逞しい胸板によって遮られた。


「ずっとこうしたかった」


頭の上から降ってくる優しい言葉に、奈津は思わず目を閉じる。恐る恐る成臣の背に手を回せば、見た目よりも大きいその背中に男らしさを感じた。


「これからは背中合わせで寝るのはやめよう」

「はい。でも、いいのですか?」

「何が?」

「だって、成臣さん、馴れ合う気はないって」

「俺は一目惚れだったけど、奈津の態度があれだったし」

「えっ、私のせいですか?」

「それに、そう言わないと結婚をしてくれなかっただろう?」

「そうかもですが、そんな賭け事みたいに」

「商売は賭け事だ」

「私は物ではありません」

「それはそうだな」


成臣は穏やかに笑う。

つられて奈津もクスクスと笑った。


「奈津、仮初めはもうやめよう。正式な夫婦となってほしい」

「はい、成臣さん」

「好きだよ、奈津」

「私もです」


成臣が奈津の頬を撫でる。その手つきは優しく、奈津は自分から寄り添いながらうっとりとした。

見つめ合えば見つめ合うほどお互いの想いが高まっていく。

そして--。

求めあう二人はどちらからともなく口づけを交わしたのだった。


【END】

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― 新着の感想 ―
[一言] 明治の世の初々しいラブストーリーに読んでいてほっこりしてしまいました。そうですよね、当時の女学校は結婚したら辞めてしまうんですよね。 奈津の向上心の高さも、成臣さんの彼女を包み込むような優し…
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