「地獄の島に住む少女」-3
地面が何度も振動する。
それが足音だと気付けたのは、実際に聞き覚えのあるラウルしかいなかった。
「最悪のヤツってなんなんすか!? もしかして、魔竜ギガバイト……!?」
「もしかしなくても、その通りだ」
笑みを浮かべて狩る愚痴を返すが、その表情は硬い。
地面の揺れだけではどの方向から伝わってきたのか分からないが、視界の開けた海岸線に姿が見えない以上、魔竜は密林の向こう側にいるのは確実だった。
「イリガル、お前はみんなを避難させろ。ヤツにはどんなに強固な陣地も役に立たん。逃げ場は海上しかない!」
「りょ、了解しました! 総員撤収、撤収ー! 作業中断してボートへ乗り込め! 命あってもの物種だ、さっさとケツまくんぞオラァ!」
連続する地響きは設営中だった兵たちにも伝わっており、イリガルが駆け寄りながら叫ぶと、我先にとボートへ乗り込んでいく。
だが、密林の奥で爆弾でも破裂したかのように大量の木々が上空へと吹き飛び、巨大な陸竜の叫びが空気を震わせると、兵たちの混乱が加速し、転倒による負傷者が出るなどして避難に遅れが出始めていた。
(マズい。魔物の襲撃がなかったせいで警戒が緩んでいた。このままでは間に合いそうにない)
まだ姿を見せていない魔竜の気配だけで、正規の訓練を受け、シェンバル国と戦い抜いてきた第三軍の兵士たちが戦意を喪失していく。クラエス島への出征を聞かされてから覚悟は出来てはいただろうが、話に聞くのと実際にこの島の脅威を肌で感じるのでは違いがあり過ぎた。
このままでは十年前と同じ……いや、戦う事すらできないまま一方的に惨“食”されてしまうことになる。
「………すまんな、イリガル。皆のこと、任せたぞ」
地響きが次第に強くなり、狂ったかのように咆哮を上げながら魔竜が海岸へと近づいてくる。
空へと吹き飛ばされる木々が海岸にも落下する中、海に背を向けたラウルはガチガチと打ち鳴らされる歯をキツく噛み締め、腰の魔法剣に手を伸ばす。
「大将ー! なにやってんすか、早く逃げてくださいよ―――――――!?」
逃げることはできない。
王家の者としての責任感ではなく、一人の剣士として、第三軍の将として、守らなければならないものが背後にある以上、どのような敵が迫ろうとも背を向けられない。
(………いや、これは俺の意地か)
ラウルだけが魔竜に対峙するのは二度目だ。まだ咆哮を聞いただけで前後不覚になることはなかった。
戦えるものが戦えないものを守るために時間を稼ぐというのも話は分かる。
だが将軍が部下を守るために命を賭すのは集団として見れば間違っている。統率者を失えば残された兵は烏合の衆となり、指揮系統が再確立されるまで組織だった抵抗を行えなくなってしまうからだ。今は副将のイリガルが避難指示に回ったので後顧の憂いが無くなりはしたが、暴風のように密林を突き進んでくる脅威に率先して挑むのは英雄的行動であっても、多くの兵の命を背負う将としては責任放棄も甚だしい。
もっともラウルが第三軍の将軍位に着いたのは、剣聖の称号を得た彼の力と名声を軍部に留め置くために過ぎない。
第一軍の将である次兄のディルザックは謀には向いていないため、画策したのは皇太子ハルマスだろう。大勢の命を失った調査隊の失敗の責を取らされ、王家の威信を損なったラウルには負い目があり、国のために戦えと言われれば拒めないことまで計算ずくだったはずだ。
しかし魔竜が現れた以上、神託の遂行が現実的に不可能となった。人の肉の味を知った魔竜が島内の探索をする兵を黙って見過ごすはずがないのだから。
だから、ラウルは時間稼ぎと引き換えに死を選んだ。任務失敗の代わりに最大の怨敵に一矢報いること、指揮官を失って撤退することで多くの兵たちを生き長らえさせること、そして名ばかりであっても王族である自分の死を長兄ハルマスならば最大限利用できるであろうこと、様々なメリットを得ることができる。
(敵わぬことなど、この俺が一番よく判っている)
例え魔法剣と剣聖の技であっても、もはや災厄に等しい魔竜を倒せるとは思ってもいない。
この島へ来ることが判ってから考えていた事と言えば、いかに自分の命を使い切るかだ。
死ぬ覚悟なら、とうに出来ていた。
「来るがいいトカゲ野郎! このラウル=ソル=ラザレスがお前を――――――!」
『GURUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!』
ラウルの名乗りは、密林を吹き飛ばしながら姿を見せた魔竜の咆哮に掻き消された。
そして同時に「死ぬ覚悟」というものが、いかに甘えた考えであるかも思い知らされた。
土煙から飛び出してきたのは、まぎれもなく≪巨顎≫。この十年の間にさらに巨大になっていたが、眼前で大勢の仲間を貪り喰らった相手を見間違えるはずがない。
この島で戦い抜いたからか、その体には幾筋もの巨大な傷跡が刻まれて竜鱗がえぐり取られており、凶暴な見た目がさらに凄みを増していた。
その姿はまさにクラエス島の絶対的王者。
人間にとっては地獄という言葉すら生ぬるいこの島で、最大の体躯を誇る暴力の化身。
「っ……!?」
刃の如き鋭い牙が並んだ口内を見せつけるように、ラウルへ向かいながら魔竜が咢を開く。
涎を湧き上がらせる喉奥から放たれた咆哮を正面から浴びたラウルは、まるで魂まで揺さぶられたかのように決意が揺らぎ、後退さってしまう。
「―――ふざけるなァ!」
だからこそ、ラウルは前に出た。
怖さで気が狂いそうだった。震えで剣を取り落としそうだった。自分への怒りで脳の血管が破裂しそうだった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!」
叫ぶことで恐怖をねじ伏せ、抜き放った魔法剣を振りかざす。
狙いは眼前に迫る左足。見上げんばかりの巨体を支える強靭な脚部に損傷を与えられれば、高速での移動を遅らせ、避難に必要な時間を稼ぐことができるからだ。
でも同時に、それが不可能であることを悟ってしまう。
竦んだ心、委縮した体が刃を握らせる。一瞬の激情が突き動かしたとしても、剣線の乱れまでは隠しきれない。そんなものでは竜の鱗を切り裂くことはできないと感じた瞬間、
ラウルは前へと向かう砂の流れに足を取られて仰向けに倒れ込み、
魔竜は腹部を突如隆起した大量の砂に打撃され、つんのめるように空中で前転した。
「「「………は?」」」
ラウルも、イリガルも、避難中の兵たちも、魔竜ですらもが驚愕に目を見開く。
咆哮を聞いただけでも避難中の兵たちには正気を保てず、卒倒する者が続出した。まさに迫りくる絶望そのものであった魔竜が走行時よりも盛大な地響きをたてて背中から引っ繰り返り、手足や尻尾をばたつかせるなどと誰が想像できるだろうか。
身を起こしたラウルは魔竜を突き上げた砂に目を向ける。
それはまるで巨大な拳そのもののような造形がされており、天へ向けて突き上げられるそれを見て、
「―――勝手に一人で盛り上がって、俺は馬鹿か」
『GURUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!』
座したまま身を回し、手にした剣を横凪ぎに振るう。立ち上がる最中、目の前にいたラウルを噛み殺さんとした魔竜はすんでのところで顎を引き、一閃を回避するが、その動きがラウルに確信を抱かせる。
「人に……武器に怯えているな」
『GURURURURURURURURURU………!』
引っ繰り返ったこと自体は大したダメージにはならなかったらしく、ふらつくことなく二本足で立ちあがる魔竜。
けれど相対していても、ラウルの体はもう震えてはいなかった。敵わないことは変わらないが、それでも怯えという感情を見せた魔竜への認識を改めると、わずかながらにでも体が軽くなる。
魔竜と言えども怪我を負わないわけではない。死なないわけではない。目の前にいる獣は絶対的な絶望ではないのだ。
ならば勝ちの目を手に入れるまで、幾千でも、幾万でも、幾億でも攻撃を加えればいい。可能性がゼロでなければ、その可能性を手繰り寄せるためにも怯えてなどいられない。
自分の現金さに苦笑しながらもラウルは立ち、剣を構える。
牙でも爪でも攻撃ならば全て躱し、魔法剣で切りつける。自分を縛り付けていた余計な考えを排除してシンプルな思考に切り替え、集中力を高めるラウルだが、魔竜はそんなラウルを元より見ていない。
だから魔竜が選んだのは、体の前後を瞬時に入れ替えて振り回す、防御ごと根こそぎ吹き飛ばす尾による横殴りの一撃だった。
「しまっ……!?」
『GURUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!』
飛んでも伏せても回避しきれない、広範囲の薙ぎ払い。
まさか背を向けるとは思わず対処が遅れたラウルは咄嗟に剣を縦に構えて身を守ろうとするが、対人における戦いを主とする剣聖故に悪手を選んでしまう。どれほど頑強な魔法剣でも、質量も速度も違い過ぎる魔竜の尾による一撃を防げはしない。
だから、魔竜との間に何かが落下してこなければ可能性を掴むことなく圧死していただろう。
「やぁあああああああああああああああっと追いついたぁあああああああああああああああああ!!!」
魔竜転倒した時以上の轟音が大気を震わせる。
衝撃が砂浜にクレーターを作り、間一髪のところで死を免れたラウルも衝撃で吹き飛ばされた。
けれど見た。はっきりと見て、そして聞いてしまった。
落ちてきたのは黒髪の少女だ。
正しくはラウルの頭上を越えて落ちてきた少女の飛び蹴りが地面を大きく穿ったのだ。
攻撃の予備動作を捉えていたのだろう、魔竜は背を向けて駆け出し、少女の着弾する前に逃走し始める。
そしてそれを追いかけるべく、舞い上がる砂ぼこりの中から小さな体躯が飛び出してきた。
「待っっっちやがれ、私のお肉ぅうううううううううううううううううううううううううっ!!!」
『GUGYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!』
(え、あれ食べるの?)
少女が魔竜を猛追し、一人で取り残されたラウルは突然の出来事の連続に理解が全く追いついていなかった。
なぜ、少女が魔竜を猛追しているのか?
なぜ、少女の細腕が彼女の身の丈をも超える巨大な石剣を二本も担いでいられたのか?
なぜ、こんなところで肌も露わにした小さな子供が生きていられるのか!?
ていうか、あれなんなんだ!?
『GURUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!』
……何故だろう。あんなに心胆を寒からしめた魔竜の咆哮が、今は哀愁を誘う。
けれど、それがかえってラウルの意識を呼び戻した。遠く離れていく魔竜の姿が瞬く間に小さくなり、とりあえず危険が去ったと判断したのだろう、イリガルや数人の兵が駆け寄ってくるのを見て取ると、すぐさま指示を飛ばしていた。
「警戒態勢はそのまま! いつでも島を離れられる準備をしておけ! 俺は“アレ”を追いかける!」
「追いかけるって……いくらなんでも無理でしょ!? あんなの追いつけませんって! てか無茶し過ぎですよ大将! 今度こそ死ぬかもしれないんですよ!?」
「それでもだ! 俺は、この目で見なくてはならないんだ!」
剣を預け、鎧も脱ぎ捨てる。そうして少しでも身軽になると、ラウルは引き留めようとする部下たちを置いて、魔竜と少女が走り去っていった方へと駆け出していた。