概念抽出と符号
目が覚めたとき、僕はぼやけた視界の中で思考を整理する。
現実世界とやらに戻ったのだろうか、だが僕自身はまだ現実世界の記憶を取り戻せていないようだ。
何も思い出せない。僕はどこから来たのか、その答えを探して、目を凝らす。
そこは藁で紡がれた家屋の中だった。
ここは・・・・・・ハイネの家か。僕は生きているのか。
水を絞る音が聞こえる。寝台の横にはぬるくなった手拭が落ちていた。
トコ、トコとひどく元気の無い足音が聞こえる。
足音の主はククルだった。彼女は「あ」と声を上げると、一瞬表情を輝かせた後にすぐに泣き出した。
「ハイネがいなくなっちゃった」
いなくなった?
ククルの話によると、あの巨人の男に連れて行かれた、とのことだった。
「ねぇ、ハイネを助けて。あなたプレイヤーなんでしょ? 強いんでしょ? お願いだから!」
小さな手に掴まれて、僕は複雑な思いだった。
できることなら助けてあげたいのだが、残念ながら僕には戦闘能力がない。
かといって泣いているククルをこのまま放っておくこともできない。
たとえ、彼女が作られたNPCだとしても、自律して一人の人間として生きている彼女を放っておくことはできない。
不思議な気持ちだった。心から、助けてあげたいと、そう思う自分が居た。
「ククル、ハイネはどの方向に連れて行かれたか覚えてるか」
「助けてくれるの・・・・・・」
俯いていた小さな顔が持ち上がった。掴まれている小さな手に力がこもるのを感じた。
「ああ、助けるよ。きっと助ける」
少女は「ありがとう」とそう言って小さな手でごし、ごしと涙を拭った。
ククルから聞いた話だと渓谷を抜けた先の草原を進んだ先にある竜鱗の丘と呼ばれる、突き出た岩礁地帯がある方角だと言う。
僕は彼女に「待っててね」と告げると、ハイネの家を後にした。
村を出た僕が向かう先は草原に出るための渓谷ではなく郊外の雑木林だった。
周囲には高木が生え渡る。視界の先には小さな滝が流れていた。
光が差す、やわらかな枯葉の上で、僕はじっと落ちる水の流れを見つめていた。
プレーヤーである以上、僕にはあいつと戦える力があるはずだ。まずは自分の能力を知らなければ、あいつと戦うことはできない。僕の概念とは、何だろうか。
現実世界のことを思い出せれば、自分がどのような人間だったか、そこをヒントに僕がこの世界に来る前に行ったパズリングを類推できるかもしれない。
だが、残念ながら一向に記憶は戻らない。
どうでもいいことを思い出した気がした。僕はふとパスワードのことを考えていた。
僕はパスワードを設定するとき、類推に足る意味のある言葉を設定する。
それはパスワードそのものを忘れたときに、僕の考え方そのものに意味があるから、類推からパスワードを導き出せる。そんな気がしたのだ。
今ふと頭に浮かんだ言葉は
概念抽出と符号
それは本当に単純なことで、今の僕ならどんな能力を設定するか、そう考えたときに、真っ先に頭に浮かんだのが、この言葉だった。
物理演算
次々と頭の中にキーワードが浮かび始める。
「解錠 電卓」
「プラスマイナス・・・・・・いける。あとは抽出できれば」
僕は静かに手を差し出した。根拠は無いが自然と身体が動いた。
意識を目の前の小さな滝に集中する。
じっと目を凝らす。
射抜け。貫け。物理的に分解しろ。
救いたいんだろ。ククルの想いに応えたいんだろ!
滝の法線が見えてきたような気がした。
まるでワイヤーフレームのように、色彩が解け立体的なベクトルが見えてくる。
そうだ、後は抽出するだけだ。抽出できれば、ハイネを救えるんだよ!!
最大限に意識を集中する。頭が爆発するように痛い。
息を止めて、全力で頭に血を逆流させているような感覚だった。
そうだ、後は反転させるだけだ。
水流、という概念と、マイナス、の符号を掛け合わせろ。
頭が死ぬほど痛い。だが引く訳には行かない。
まるで、尖った桐で頭の中を何度もえぐられているかのような・・・
僕は力の限り叫んでいた。
気がつくと、僕は湿った枯葉の上に倒れていた。
僕の目の前では、今静かに滝が下から上へ昇っていた。