花香る、そして佇むは洞園
存在する世界には光がまるで木漏れ日のように差し込んでいた。
切り取られたように抉られた洞窟の内壁には輝きを帯びた緑色の苔が繁殖している。
周囲には赤や青、紫、黄色といった美しい花々に囲まれ、その花畑の中で僕は死んだように横たわっていた。
何故、僕はこんなところで横たわっているのか。
そんな疑問が浮かぶんですけど。とりあえず、とても心地が良く、しばらく寝転びながら考えてはみるものの、さっぱりなわけで。
少し状況を整理したいところなのですが、繰り返しますけど、何故僕はここにいるんでしょうか。
ここにくるまでの経緯が本当に思い出せない。
名前は思い出せる。逆に名前以外の何も思い出せませんね。
見渡す限り、四方は一面の色鮮やかな花々と苔に覆われている。
まずはここに居ても始まらないので、向かうべき方向を定める為の根拠が必要なんですが、都合の良い事に壁にはいくつかの穴が開いてますね。
前方に七つ、左右に三つずつ、後方に六つと。消去法には少し辛い数だ。どの穴が正解なんだろうか。
幸いにも推測をする思考力は自分には備わっているようで、風の流れを感じる。真後ろからだ。
背丈の中腰くらいの穴は、正面斜めに真っ直ぐ上っている。
不思議と落ち着いてますね。
こんなわけもわからない世界に突如として放り込まれて名前以外、何も思い出せないというのにです。
夢なら覚めるんでしょうけど、残念ながら五感の一部が働いている。
地表を踏みしめる足の裏の触覚、清涼感漂う花の香り、耳をすっと抜ける柔らかいそよ風の音、そして絶景とも言うべき美しい花園が映し出されている。
向かう先は天国なんでしょうか、それとも地獄か。
僕がここに存在する事には何かしらの意味があるのだろうと思います。
自分の意思でここに来たのであれば、その理由は思い出せないですけど、ただ何者かの意図でここに来たとも思えないですしね。
まぁ、いい。まずは穴だ。
穴から出てみると、まぁなんというか。
ますますわけがわからないというか、森です。
ただの森ではなく村です。
いや、ちょっと落ち着きましょうか、緑々しい森の中にある水郷です。
蔦に覆われた藁小屋が点在しています。
その隙間を縫うように水路が通っています。
手前の家屋では水車がカタコトと音を立てて回っており、その傍に佇むお団子頭にピンクのリボンをつけた可愛い少女が、大きなカゴを腕に下げたままポカンとしています。
気のせいでしょうか。ん、なんか呆けていたのは束の間で、ぐんぐんと近づいて・・・・・・
「あなた誰!?」
突然の大声にまずは驚いたんですが、なんと答えるべきか。
「公太です」
「コータ、どこから来たの!?」
わかりません、自分もそれが知りたいんです。
「どうも記憶喪失みたいで、名前以外は何も思い出せないんです」
「何も思い出せないの? 大変、ハイネのときと一緒だ!」
「はいね?」
「いいから、あたしと一緒に来て!」
ぐいぐい、手を引っ張られて、入り組んだ水路に沿って折れながら、枝葉が垂れた水車横の坂道を上がり、森の中の小道を進み、木々が払われ、急に視界が開けると、光が溢れて、思わず眩しさに手を翳しました。
目が慣れた頃、そこは一軒のログハウスの前でした。
鳥の鳴き声の下、純木で組まれたその家屋は、飾り気はないものの、自然と調和している、とでもいうべきか。家屋の前には小さな花壇が有り、紫陽花に似た広がりのある紫の花と、茄子のように艶やかな野菜が育てられていました。
「ぼけっとしてないの!」
小さな引率者に手を引かれて、連れ込まれたものの。
「ここで待ってて、絶対動いちゃダメだから」
少女の牽制に抗う理由も特に無く、ただ言われるがままにこの場に佇んでいるわけですが、明らかに場違いであったのは言うまでもないです。
どのくらいの時間が過ぎたのか。
キコ、キコ、キコと。何か車輪を引くような音と共に彼女は現れました。
「ハイネ、この人だよ。きっと外側の世界から来た人だよ」
外側? 僕は言葉には出しませんでした。
さらさらと窓を抜ける風に金髪をなびかせる、透き通るように青い瞳を携えた彼女は車椅子に座り、じっと視線を向けてきました。薄紅の小さく愛らしい口をそっと動く。
「ククルから、あなたのことは聞きました。コータさん、と言うのですね」
「ええ、初めまして」
初めまして、だよな。多分。
「ここへ来る前のことは、どこまで、覚えていますか?」
「それが全く覚えてません、悲しいぐらいに」
ハイネは静かに頷くと、こう切り出しました
「あなたが私と同じであれば、きっと」
彼女は静かに息を飲むと、手をそっと前に差し出し、こう告げました。
「解錠 自己情報」
その瞬間、閃光が迸り
度肝を抜かれて言葉を失った僕の目の前には携帯型のデバイスのようなものがふわりと浮かんでいました。
「な、何すか。このパソコンみたいなの!?」
「パソコン、なるほど。ということはあなたは出世は西暦二千年台のいずれかですね」
「西暦・・・・・・って」
いや、待て。そうだ、彼女の言葉で少し何かが引っ掛かる。でも、思い出せそうで、今は何も思い出せない。
「私は元々この世界の住人ではありません」
ハイネの言葉に驚愕の連続だった。
このまま、成り行きに身を任せてしまうと、とんでもない事になりそうで、正直僕は、心の底から怖くなった。