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レムナス王子視点。


 何が起こったのかわからなかった。

 ハーナベルが殴られそうになっているのを見て、何も考えずに彼女の前に飛び出した。

 見知らぬ男の拳が私の顔面を殴打し、その瞬間、身体を魔法陣がくるりと覆って――塔の外に落下した。


 くらりとする足で何とか立ち上がり、塔を見上げる。

 丁度、ハーナベルが下を覗いたようだ。

 逆光で表情は見えなかったけれど、シルエットでそれと知れた。

 

 心配、してくれたのだろうか?


 一瞬そんな希望が浮かんで、頭を振る。

 彼女に心配してもらえる権利など、私にはないというのに。

 それでも。

 下を覗いてみてくれた事に、心がどうしようもなく喜びを伝えてくる。

 

 わかっている。

 彼女が心配したのは、私だからではなく、『王族』が怪我をしたら大変だからだ。

 主に読書時間が削られるという意味で。

 ずっと彼女を見続けていたのだから、それぐらい理解している。

 

 ……彼女の魔法は完璧だから、結果を確認する必要はなかったはずだけれど。


 彼女が相手を害する事無く塔の外へと放出する魔法を使ったのなら、結果は見ずとも知れたはず。

 落とされた恐怖にまだ心臓の鼓動が激しいけれど、かすり傷一つ負っていないのがその証拠だ。

 見知らぬ男に殴られた頬だけは、痛むけれど。


 すぐに塔の中に戻ってしまった彼女の後姿を目に焼き付けながら、私は紙袋を抱きしめる。

 紙袋は殴られた衝撃で破れたんだろう。

 周囲に本が数冊散らばってしまっていた。

 落ちた衝撃は魔法陣で緩和されて一切なかったのだから。

 

「レムナス王子? こんな所でなにやってるんだ?」


 散らばった本を拾っていると、見知った声が背後からかかる。

 振り向けば、先ほどまで一緒にいたイズにそっくりな少年が立っていた。


「エニウェア、久しぶりだね。ちょっと、本を落としてしまってね」

「すぐに俺だって分かるって事は、イズと一緒にいたんだな?」

「さっきまでね。塔の中を案内してもらっていたんだ」

「あー……彼女?」


 いい辛そうに、エニウェアがこめかみを掻く。

 ハーナベルとの婚約破棄は、彼も知っていることなのか。

 むしろ知らないほうがおかしいのか。

 私という婚約者がいたなら、ビブリオ・タワーの司書になるのは困難なのだから。


「うん。彼女と話がしたくてね」

「……その様子だと、話せなかったんだな」

「どうしてそう思うんだい?」

「ハーナベルと話せていたなら、いま王子が本を持っているはずがない」


 正論だった。

 彼女が、私と話していたならこの本に気づかないはずがない。

 流石に、さっきの一瞬では見えなかったと思うけれど。

 

「もう一度会ってみるか?」

「いや、もう閉塔時間だろう」


 いまさっき、閉塔を知らせる鐘が鳴り響いた所だ。

 少しぐらいと思う心もあるけれどね。

 王族の特権を、むやみやたらに振りかざしたくはない。


「そっか。まぁ、元気出せよ」


 肩をぽむっと叩かれる。

 困ったような、ちょっと心配するような赤い瞳と目があって、戸惑う。


「エニウェアは、私の邪魔をしないのか?」

「邪魔? する理由ないだろ。してほしいのか?」

「いや、そんな事はありえない。だが……」


 カンタール伯爵家でのヴェルムートの瞳を思い出す。

 言葉こそ丁寧だけれど、私に対する明確な嫌悪の怒りが灯っていた。

 

「どうせ、なんかの誤解だろ? 王子がハーナベルを手放すなんて思えないしさ。

 何があったか詳しくは知らねーけど、まぁ、俺が邪魔する理由はないぜ」


 にかっと笑うエニウェアに、肩の力が抜けるのが分かる。


「なぁ、その本、ハーナベルに渡しておこうか?」

「いや、出来れば直接渡したいんだ。本があれば、彼女も話を聞いてくれるだろう?」

「そうだなー。読んだ事の無い本なら、完璧だろうな」

「昨日入荷したばかりらしいからね。彼女でもまだ読んでいない事を祈るよ」

「えっ、昨日?」


 エニウェアの赤い瞳が、きらきらっと輝いた。

 そうだった。

 イズもエニウェアも、本が好きだった。


「一冊読むかい?」

「マジ? 王子、最高だな!」


 本を袋から取り出して見せると、エニウェアはその内の一冊を手にとって、お礼と共に革のかけ鞄に詰め込んだ。

 一瞬見えた鞄の中身は、やはりというかなんというか、本でぎっしりだ。


 この時間に外にいるということは、恐らく貸し出した本の回収に行っていたのだろう。

 ハーナベルがよく言っていた。

 ビブリオ・タワーの本を借りて、期限を過ぎても返しに来ない人もいると。

 そういった困った相手には、司書自らが回収に行くのだとか。

 借りたものを返さないという感覚が理解できないけれど、この塔の司書達は皆強いから、問題なく回収できるのだとか。

 どのように回収するのかは、たぶん聞かないほうがいいのだろう。

 私は、肉体言語はあまり得意とは言い難いから。


 またこいよと手を振るエニウェアと別れを告げて、王家の高速魔導馬車に乗り込んだ。


 


 

 

 







◇◇


 

 王都に入った瞬間、高速魔導馬車が急に停止した。

 魔法が施された車内は通常、わずかな振動も伝えてこない。

 それが、はっきりと分かるほどの急停止。


「何があった?」


 私の問いに、御者が青ざめた顔で振り向く。


「急に、道に女の子が……」


 窓から顔を出して前方を確認する。

 馬車の前に倒れこむように少女が座り込んでいる。

 あの特徴的な桃色の髪は、パレヴィオ男爵令嬢?


 私は、馬車を降りて彼女に近付いた。

 瞬間、ふわりと香る甘い香り。


「レムナス様、お会いしたかった……っ」

「このような場所に、何故一人で?」


 抱きつかれそうになり、身を引く。

 男爵令嬢とはいえ、貴族の子女が共もつけずに一人で出歩く時間ではないだろう。


「わたくし、一人でいるのが好きですの」

「……家まで送りましょう。馬車に乗ってください」


 妙に距離の近い彼女といるのは、あまり望ましくない。

 彼女とは、あらぬ噂も立っている。

 けれど、共の者も連れずにいる彼女をここに置いてはいけなかった。

 王都は治安が良いとはいえ、日が暮れて大分経つ。


 高速魔導馬車に彼女が乗り込むと、より一層、甘い香りが充満する。

 くらりと、視界が揺らぐ。

 意識が遠のきそうになるのを、頭を振って堪えた。


 ……いったい、何だ?

 疲れているのだろうか。


「ねぇ、レムナス様。そちらの本を見せてくださいませんか?」


 紙袋が破けてしまったので、座席の片隅に積んで置いた本をパレヴィオが指差す。


「すまないが……」


 これは、ハーナベルの本だ。

 彼女以外の女性には触れさせたくはない。


 動き出した高速魔導馬車の中に、甘い匂いがどんどん強まってゆく。


「見るだけ、ですから」


 甘い香りを漂わせながら、パレヴィオがなおも言い募る。


 ……見せるぐらいなら……。


 ぼんやりとする思考が、パレヴィオの願いを後押しする。

 私は、数冊とって彼女に見せた。


「どの本を読みますか」

「全部ですわ」

「それは……」


 にこり。

 赤い瞳が真っ直ぐに私を見つめ、甘い香りで息が詰まる。

 無意識のように身体が動き、本をすべてパレヴィオに手渡した。


「ありがとうございます。素敵な本ですね」


 ふふっと笑うパレヴィオ。

 あぁ、そうだね。

 すべて素敵な本だ。

 パレヴィオが読むのだから。


 ……いや、そうじゃないだろう?


 本が素敵なのはハーナベルが好きだからで。

 本を求めているのはハーナベルで、だから……。


 窓を開け放つ。

 甘い匂いが霧散し、私はほっと息をつく。

 ぼうっとしていた思考が、戻ってくるようだ。



「わたくし、いつか王宮図書館の本を読んでみたいと思いますの」

「あれは、許可を与えられた者のみが閲覧できる本です。貴方に閲覧権限は降りないでしょう」   

 

 ハーナベルが私の婚約者として唯一喜んでくれたのが、王宮図書館の閲覧権限だった。

 王族と、その婚約者、そして上級貴族が権限を持っている。

 伯爵家のハーナベルでは、読むことができなかった本だ。


「まぁ……とても、残念ですわ」


 言葉とは裏腹に、少しも残念そうに見えない。

 愛おしそうに本を撫でる彼女に、何故か背筋が泡立った。


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