プロローグ
わたくしは、今日この日をずっと待っていましたの。
わがカンタール伯爵家に届いたわたくし宛の手紙は、王家の紋章入り。
封をする銀の蝋印は、この国の第二王子レムナス様が好んで使われる蝋印です。
わたくしは、使用人から渡されたその手紙を、ペーパーナイフでそっと封を切りました。
レムナス王子は余り手紙を書く方ではございません。
その彼が、送ってくれた手紙。
中にはきっと、わたくしが望む言葉が書かれているに違いありません。
どきどきと高鳴る胸は、まるで恋する乙女のよう。
指先が少しばかり震えているのは、期待が高まるせい。
王家の紋章が透かし模様で浮かぶ紙には、こう書かれておりました。
『ハーナベル・カンタール様
貴方に折り入って話したいことがあります。
明日の午後三時。
エンデール王立学園の第八中庭にいらして下さい。
レムナス・リッチフレウド・エンデール』
丁寧で流麗な文字で綴られた短い言葉は、文字と同じく丁寧。
王子であると言うのに伯爵令嬢である格下のわたくしにも、決して命令形でないのはあの方のご性格ゆえでしょう。
明日の午後三時。
それが、わたくしの運命の時間。
決定的な言葉が綴られていなかったことは、とても残念ではございますが……。
わたくしは、大切なその手紙を抱きしめ、明日を待つ事に致しました。
陽の光を集めたような、長い金の髪を、使用人が丁寧に編み込んでゆきます。
普段は読書の邪魔にならないように、緩く一つに束ねているだけの髪ですが、今日は特別です。
珍しく学園にゆくので、使用人が心を込めて整えてくれています。
しばらくして、合わせ鏡のようにして見せられた後頭部には、金色の薔薇が咲いていました。
何をどのようにすれば、このように複雑に編むことが出来るのでしょうか。
わたくしの髪は、長いだけでなく、真っ直ぐ過ぎて扱い辛いのです。
ですが髪の毛を一部だけ薔薇の花の様に編み、細かな細い三つ編みが周囲を飾っています。
残った髪は背中から足元まで、長くサラサラと揺れています。
とても華やかです。
……なにも、おかしな所はないかしら。
わたくしは、姿見の前で自分自身の姿を確認します。
使用人が整えてくれたのだから、問題があるはずもありませんが。
強いていうなら、久しぶりに袖を通したエンデール王立学園の制服が似合わない事ぐらいでしょうか。
わたくしの瞳は、瞳孔がエメラルドグリーン、虹彩がリーフグリーンなのです。
上品な臙脂色の学園の制服には浮いて感じます。
……読書をする時間は無さそうですね。
約束の時間は午後三時。
もうそろそろ、家を出ておいたほうが良いでしょう。
わたくしは、使用人達に見送られながら馬車に乗り込みました。
一瞬のように時間は過ぎ去り、わたくしは学園についてすぐにレムナス王子の待つエンデール王立学園の第八中庭に向かいました。
エンデール王立学園は、この国の貴族ならば必ず通うことになっている学園です。
平民でも、高い魔力や武力、学力等があれば通うことが出来ます。
国中から貴族の子息と令嬢、それに平民が集まる学園なのですから、敷地は広大で、中庭も何個も設けられています。
第八中庭はエンデール王立学園の中でも小さく、また、正門から一番遠く離れた場所にある為、学園の生徒はまず立ち寄りません。
裏庭と呼んでしまっても良いようなそこは、されど王立学園。
我が伯爵家の庭に負けずとも劣らずきちんと手入れがなされていて、薔薇の花が見事に咲き誇っています。
わたくしが来るのをずっと待っていたに違いないレムナス王子と、そして隣にいらっしゃるご令嬢を祝福するかのようです。
薔薇のアーチの下で、二人寄り添う姿はまさにお似合いの一言です。
この国では珍しい、黒と見紛う赤い髪のレムナス王子と、隣に寄り添うピンク色の髪の少女は、まるで一枚の絵画のよう。
あぁ、そうでした。
クラスメイトに、以前言われていました。
男爵令嬢がレムナス王子と一緒にいるのを何度も見たと。
婚約者として、止めるべきではないのかと言われた事もございましたのに、すっかり忘れておりました。
いけませんね。
本以外のことは、なかなか記憶に残らないのです。
学園の授業も飛び級でほぼ習得してしまったわたくしは、そもそも学園に余り登校しておりませんでした。
わたくしが学園を訪れるのは始業式と修了式、それと、学園の図書室に新しい本が入荷した時でしょうか。
その他は、今日のようにどなたからか呼び出されたときですね。
主に学園の先生方でしたが。
ご令嬢のお名前は、なんと言ったかしら。
エンデール王立学園の臙脂の制服が、とてもよく似合っていらっしゃいます。
金の髪と、明るい緑の瞳を持つわたくしには、学園のワンピースは少々、いえ、とても似合わないので羨ましい限りです。
そんな事を思いながら、わたくしは二人に歩みを進め、記憶を手繰ります。
確か……パレヴィオ・デミートリー男爵令嬢。
そう、確かそういうお名前でしたわ。
ふんわりと柔らかく、淡いピンク色の髪。
大きな赤い瞳。
真珠のように滑らかな白い肌に、ほんのりと薔薇色に染まる頬。
ふっくりと小さな唇は、艶やかで愛らしく。
とても可憐なご令嬢ですね。
貴族が通う学園だけあって、エンデール王立学園では容姿の整った方は多いのです。
ですが、パレヴィオ様のご容姿は、か弱く繊細で、同性であっても守ってあげたくなるような魅力があります。
だからでしょうか。
温和で優しいレムナス王子が、その羊皮紙のように淡いクリーム色の瞳に、隠しもしない怒りを灯しているのは。
パレヴィオ様を守るかのように、近付くわたくしと彼女の間にレムナス王子は割って入ります。
いまだかつてレムナス様から向けられたことの無い冷たい目線は、まさしくわたくしを貫抜く勢いです。
もしも眼差しが武器となり得るならば、わたくしは今この薔薇の園で命を散らしていた事でしょう。
わたくしはその目線を避ける事無く受け止めながら、王族への最上級の礼をし、二人に向かい合います。
けれどレムナス王子は、わたくしを睨むだけで、何も言いません。
何か言いかけては、辛そうに、口を噛み締めます。
……言えないのでしょうか?
そうですね。
レムナス王子は優しい方ですから、言い辛いのでしょう。
わたくしから、何か言った方が良いのでしょうか。
これから何が起こるかは、察しています。
けれど、呼び出してきたのはレムナス王子です。
わたくしから、話すことなどありません。
いえ、話せることではないというべきでしょうか。
レムナス王子の隣で不安げなパレヴィオ様は、王子の手をそっと握りしめました。
王子が、彼女を振り返ります。
その愛らしい瞳を、羊皮紙色の淡い瞳でじっと見つめて。
レムナス王子がわたくしに視線を戻した時には、もう迷いは感じられませんでした。
パレヴィオ様に手を握られ、レムナス王子は重い口を開きました。
「……ハーナベル・カンタール伯爵令嬢。貴方との婚約を、ここに、破棄する!」
一際強く、風が吹きました。
わたくしの足首まである長い、長い金の髪が、舞い散る花びらと共になびきました。
―――……すべては、そう、願い通りです。