赤ずきんちゃんの遺産相続
祖母が死んだ。
轢き逃げにあった。
元々病気がちな方であったが、その事とは全く関係のない。あまり理不尽で突然過ぎる別れに赤須琴姫はただ愕然とした。
幼い内に両親を亡くした彼女にとって、祖母は唯一の血の繋がった家族であった。中学、高校と面倒をみてくれた。大学に進学させてくれたのも彼女だ。通学に不便だろうといってアパートまで借りてくれて、春から別々に暮らしていたが、こんな事になるのなら多少学校が遠くなろうとも側に居れば良かった。
目撃者の証言によると、はねたのは黒いミニバンだったという。犯人はまだ捕まっていない。刑事が家に来てそう説明していたが、琴姫は半分も聞いていなかった。
他の親族への連絡や葬儀は叔父に進めていただいた。琴姫はただ見ていただけ。初七日が終わり、祖母の部屋のものを整理している時、ふと、小学校の時に描いた祖母の似顔絵を見つけた。
おばあちゃんの為に描いたのだから部屋に飾ってね、と頼んだ。祖母は自分の顔を飾るなど恥ずかしいと固辞した。それで見掛けなくなったから、存在自体すっかり忘れてしまっていたが、丁寧に押し入れの一番奥に埃を被らぬよう布に包んでおいてあった。
将来は皆に拍手されるような有名な画家になるのだと、琴姫は誓った。祖母もそれを応援してくれていた。
「もっと上手にお婆ちゃんのこと描けようになるから、そうしたらちゃんとお部屋に飾ってね」
「今だってとっても上手よ。でもそうね。画家さんになったら、またお婆ちゃんのこと描いてね」
「うん、絶対!約束だよ」
もう約束は果たせない。
琴姫は祖母の似顔絵を胸に抱いて、泣き崩れた。葬式の時も、誰の前でも泣かなかったのに。
私の唯一の家族。
多くの時間を共にしたというのに、何ひとつ恩返しが出来なかった。
二週間が過ぎた。琴姫はその日学校に退学願いを書いていった。
仕送りしてくれる祖母がいなくなり、アルバイト代だけではアパート代も学費も払えないので、学校をやめ、働くつもりだった。
まだ祖母を亡くしたショックから立ち直ってもいない上、先の事を考えると気が重かった。
意識ここにあらずという感じだったかもしれない。廊下の曲がり角の所で人とぶつかった。勢いよくその場に尻餅をついてしまう。
「きゃっ――」
「おい、大丈夫か」
聞いた事のある声だった。
「なんだ赤須か。気を付けろよ」
才良俊文――。法学部専任講師。ユニークな講義をする事で有名な人だ。顔立ちが整っている上若く、話も面白くて、女生徒から人気がある。琴姫自身は彼の講習に参加した事はなかったが、法学部の友人に連れられて合コンに参加した事があり、そこで知り合った。以後何度か世間話をしている。
才良が差し出した手に掴まって、琴姫は立ち上がった。お尻が痛い。
「なんか落としてるぞ」
あ、と思ったが遅かった。才良は欠伸をしながら手にとった封筒の中身を透かし見ると、眉を潜めて琴姫を睨んだ。
「学校やめるのか」
琴姫は黙ってうつむいた。
「お前、お婆ちゃんがどのくらい遺産もってるか把握してる?」
昼御飯を、才良におごってもらって食べた。食べながら彼は神妙な面持ちで話した。
「え……いえ、分かりません……」
「孫の学費出して仕送りして、自分もそれなりの暮らしをしていられたんだから、蓄えはあったんだろう。ちゃんと調べろよ。例えば預金とかはお前の戸籍謄本もって銀行にいけば教えてくれるぞ」
「はあ……」
「家は?婆ちゃんの家。賃貸?」
「いえ」
才良はまた欠伸をしていた。寝不足だろうか。
「じゃあその家も立派な遺産だ。誰に相続権があるんだ?」
「わからないけど……多分叔父さんじゃないでしょうか」
「遺言書は?」
「……急だったし、ないと思います」
「他に親族は?」
「いません。叔父さんとその家族だけ」
「分割協議してないだろ」
「なんですかそれ」
「相続権のある人間が集まって誰にどれだけ遺産を分けるかを話し合うんだ。この場合は叔父さんと、子供がいればその子供、それに赤須が相続権のある人間だな。赤須の場合はまだ未成年者だから、正式に協議書を記入するなら代理人を立てる必要があるんだが、叔父さんからそういう説明されてないのか」
「……はい」
「叔父さんに独り占めされてないか。お婆ちゃんの遺産」
「……」
琴姫はアイスクリームを口に運んだスプーンを口にくわえたまま黙った。
そうは言われても、今回の事だって祖母の葬儀から何までお世話をしてくれたのは叔父だ。自分は何もしていない。遺産がどのくらいあるのか知らないが、当然の権利だからって、自分にもくれだなんて、あつかましい事は言いたくない。
それで当面の生活が成り立つにしてもだ。
「……だとしても構いません。遺産は叔父が受けとるべきで、私に当たらない事には、なんの不満もありません」
「それでお前はどうなる」
「……」
「学費も払えなくて学校を辞めるんだろう。それはお前、争うのが嫌だからって、強引に自分を納得させようとしているだけじゃないのか」
「……」
「百歩譲ってお前はそれでいいとしよう。でもお婆ちゃんはどうだ。お前を大学に行かせたお婆ちゃんは。こんなの、本当に望むと思うか」
涙腺が緩んできて、琴姫は才良から顔を背けた。
「いいよ。僕がなんとかしてやる」
「……え」
「赤須の代理人になるよ」
近所の喫茶店で叔父と会う約束を取り付けた。叔父は会社帰りで、スーツ姿で現れた。外資系の仕事をしていると聞いたが、あまり詳しくは知らない。
叔父は、一言で言って、苦手な人だった。厳格で、芯というものがある方だと思う。話す時、じっとひとの目を見て話す。威圧的というか、口を挟ませない凄みがある。すると琴姫のような小心者は、何も悪い事をしていないというのに、怒られている気になる。
悪人ではない。ただ怖い。だから苦手で接しづらい。深い理由はない。
「琴姫ちゃん、この方は?」
琴姫が答えようとしどろもどろしている内に、才良が口を出した。
「はじめまして石筒亮司さん。僕はこの子の大学で法学を教えています、才良俊文といいます」
「ええ、はじめまして先生」
と二人は簡単に握手をした。
「で、琴姫ちゃん、大学の先生を連れて一体何の用?」
「今回お話しさせていただくのは僕です石筒さん。つまり、僕はこの子の代理人として来たわけです」
「代理人?」
「ええ、貴方のお母様の遺産相続分割についての」
「……」
「お母様の遺産は血族であるこの子にも等しく分割されるべきだ。それをこの子に一切話していないというのは、アンフェアじゃありませんか」
「分割するさ。ただこの子はまだ未成年者だから、一時的に預かっているだけだ。成人したら話す予定だった」
「成人といってもあと1年と少しくらいですよ。代理人である僕を介して、今、この場で決めてしまいましょう」
「分割協議に参加する特別代理人は家庭裁判所への申請が必要な筈だよ。その審査にも一月から二月は要すると聞いている。まだ母がなくなって一月と経っていないのに、貴方が特別代理人である筈がないだろう」
「この場合私が家庭裁判所で認められた代理人かどうかなどどうでもいい事です。公的な書類にサインするわけではありませんから。私などいなくても、この子が二十歳になってから分割の異議申し立てをすれば同じです」
「では二十歳になってからとしよう。母の遺産を琴姫ちゃんが管理するのはまだ早い」
「しかしこの子には当面の生活がかかっていますので、その点ご理解の程を」
なんだか穏やかな空気でない。琴姫は口を挟みたかったが、何も言葉が浮かばなくただおたおたしていた。少し沈黙があったのち才良が続けた。
「あまり乗り気でないようですね。ではこちらをご覧下さい」
「何だね」
彼が鞄から取り出したのは一枚の紙だった。事前に才良から頼まれて、琴姫が用立てたものだ。
「貴方が不動産に提出された遺産相続分配協議書のコピー。まあ、コピーのコピーですか。貴方と、息子さんの名前だけが書かれていますね」
「……」
「本当に貴方にこの子にも遺産を分割する意思があるならこういった書面にはならないと思いますが。そうなると先程貴方がおっしゃった成人になってからという話も怪しいですね。これを裁判所に持ち込めば面倒な事になるかもしれません」
「……」
「おじさん」
琴姫は勇気を振り絞って言った。初めから、言いたい事なんて、これだけしかなかったのだ。
「私、大学を辞めたくないんです。お婆ちゃんが行かせてくれた大学を卒業したい。ご迷惑になる事は分かってます。でも、どうか、お願いします」
「赤須、迷惑じゃない。遺産の相続はお前にとって当然の権利だ。そうですね、石筒さん」
石筒亮司は短い嘆息のあと、
「……そうだな」
と言った。
「通常、遺産相続分割書が提出されたあとに新しい相続人が見つかった場合、遺産相続分割書を作成しなおす事が義務付けられているが、それだけで裁判で有罪になることはないだろう」
帰り、才良は車を運転しながら呟いた。
「そうなんですか」
「故意か否かなんていくらでも言い訳できるからな。脅し程度にしかならない。まあしかし結果的に、このコピーは必要なかったな」
返すよ、と言って才良は遺産相続分割書を琴姫に手渡した。自分の名前のない遺産相続分割書。家族と呼べるものはない。改めてそう言われている気がした。しかし、結果として、琴姫は祖母の遺産を――思いもしない程の額のお金を――叔父から分けて貰う事となった。卒業までの資金は心配はしなくて済むようになりそうだ。しかし不思議と喜びも安堵もない。
理由は分かっている。琴姫は深くため息をついた。
「先生……ありがとうございました」
「いいよ。それより今度は別の事で大変だぞ」
才良は言った。
「相続税、っていうのがあるんだ。思いの外まとまった金額だったからな。払わずに済む事はないだろう。それなりの金額を国に納めなければいけない」
「はあ」
興味なさげに琴姫は呟いた。
「真っ当な労働で得た金じゃないから当然と言えば当然だが、それでもふざけた話だぜ。国は国民から、とれるときにとってくる事しか考えてないのさ」
「かもしれませんね」
「でもまあ、その税金を軽減する手段がないわけじゃない」
「そうなんですか」
「興味なさそうだな。まあ聞けよ。この相続税というシステムは、個人の相続した金額に応じて納税率があがる。相続した金額が多ければ多い程国に払う金額も大きくなるんだが、ミソは個人を対象にしてる事だ。遺産総額は関係ない。だから分割する人間が多い程、税率も下がる」
「……」
「例えば、赤須の相続した遺産の半分を更に俺に分割するんだ。勿論名目上の話だ。俺の名義の銀行口座に、一時的に金を預ける。そうすれば個人として受け取った金額も半分。あわよくば税金を免除出来るかもしれない額になる」
琴姫は黙って才良を見た。彼は運転しているのでこちらを見ようともしないが、多分、本気で言ってるのだと思う。
「私はどちらでも構いません」
琴姫は言った。
「どの道、先生に助けて頂かなければ手に入らなかったお金です。先生の好きになさって下さい」
才良の表情は変わらない。しかし、少しして、馬鹿、と言った。
「お前、本当に人がいいな」
ちょっと寄るぞ、と近場のガソリンスタンドに入った。スタンドの店員が出てきて、才良の顔を見て、おや、と言った。
「先生、お久しぶりじゃないですか」
知った顔らしい。彼は慣れた手つきで給油をはじめ、そして、客商売特有の明るいトーンで才良に訪ねた。
「車、変えたんすね。前の黒いミニバンはどうしたんすか」
シャルル・ペロー著『完訳ペロー童話集』赤ずきんちゃんより。
これでお分かりだろう、幼い子供たち。とりわけ、若い娘たち。
美しく、育ち良く、品の良いお嬢さんは、誰とでも気安く話すものではない。
その挙句、狼に食べられたとしても、少しも不思議ではないのだから。
一口に狼といっても、すべての狼が同じとは限らない。
抜け目なく取り入ってくる、少しも粗野でない、物静かで優しくて愛想が良くて朗らかなヤツもいる。
ヤツらは若い娘さんについてきて、家の中まで、果ては寝室にまで入りこむ。
ああ、心得ていなくちゃいけないよ。
あらゆる狼の中でも、こういう優しげな者こそが最も危険なのだということを。