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ぐうたら主の相談所  作者: 日下みる
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~月の涙~

喫茶店では、片付けが進められていた。

一名、ゴミと間違えて捨てられそうになっているが誰も止めない。

夫婦の間に口を出しても痛い目をみるだけだ。

黙々と不自然な沈黙の中、一人がハッと顔を上げた。

「葛西君?」

「思い出しました。光はともかく、あんな雰囲気の理乃を見た事があります」

「本当?!いつ!?」

誰も情報を持っていないと思った中の朗報。

「かなり昔の事なのでずっと忘れていたんですが、先輩の仕草で」

「仕草?」

「腕時計を叩いた後、天井を指したでしょう?アレに近い事を俺もしました」

まだ理乃が保育園に通っていた頃。

母に着いて本屋に来た。

だが、途中で眠くなってしまった理乃を居住区まで運び、母親の勤務時間近くまで寝かせておいた事がある。

母親の仕事が終わる前に起こした理乃は、何故か言葉が伝わらなかった。

その時、葛西は腕時計をトントンと叩き、下の階にある本屋を指差した。

言葉が分からず首を傾げていた理乃は途端に明るい顔をして、本屋へと躓きながらも足音もなく走って行った。

あの時と先程の光景は、そっくりだった。

無防備さも、似ているかもしれない。

「じゃぁ…幼児退行…?」

「楽観視して、寝ボケてる、と言った所でしょうか…」

「そういえば、昔、母親が理乃は夜中に寝ボケて起きると変な言葉を喋り、朝には覚えていない、と気味悪がってたな…」

「あら。あなた、復活したの」

「おかげさまで」

武田晴信、幸せなタイミングで復活する男である。

幼い頃の理乃は、まだ自分を縛る鎖が少なかった。

少し解けた今の理乃と似ていたのだろう。

疲れてはいるが、少し楽に、自由になった理乃と。

「うわー。外、土砂降りですよ」

立川は外へとゴミ出しをしていた。

先程までは、良い天気だったのだが、運悪く降られてしまった。

「え?今夜は晴れの筈だけど」

「予報外れましたね~」

天気予報が外れるなどよくある事だ。

だが、今日は天気が良くとも、暑くもなかった。

ゲリラ豪雨になる天候ではない。

窓の外を見ると、ゴロゴロと稲妻の音も響いている。

「今の季節に?」

秋でも雷はあるだろうが、よくある事ではない。


事務所内はカタカタとキータッチの音だけが鳴っていた。

二人とも仕事中である。

理乃のパソコンの中は持ち主の性格通り、シンプルで分かりやすく、過不足なく纏められていた。

必要なデータが何処に保存されているのか、初見で分かるほど。

依頼し、提出日までまだ日数があるにも関わらず、その分析は既に終わっていた。

一通り見て、補充も必要ないと判断した昌信は、着々とデータを自分のアドレスに送る。

デバイスに写してもいいが、送信履歴があれば理乃も困らないだろう。

これなら早く終わりそうだな、と顔を上げたら、真知子と目が合った。

「何かな?」

女性に見つめられる事には慣れている昌信は気にしない。

聞きながらも、コーヒーを一口飲み、ディスプレイを見ている。

質問したのはただの牽制。

大抵は聞いておいて視線を反らせばそこで終わる。

大抵の、美形に慣れていない女性ならば。

生憎、真知子は理乃で慣れていた。

「昌信さん、本当に美形ですね。なんで未婚なんですか?」

美形で未婚がそんなに不思議なのか。

葛西や理乃はどうなる。

まぁ、あの後輩は人間嫌いだが。

この数年は落ち着いている。

理乃の場合の恋愛感は独特だ。

選ぶ権利は女性にあると思っている。

人間は他の動物と違い、一度の出産では数に限りがある。

その為、女性がより良い子孫を残す為に相性の良い相手を選ぶ権利があると。

男性は種を撒き散らす習性があり、同時期に複数との勾配が可能。

出来の悪い遺伝よりも出来が良い遺伝の持ち主の方が権利は高い。

だが、それは女性に選ばれる可能性が高い。と同義の認識をしている。

理乃にとっては人間も他の動物も変わらない。

理乃自身に子孫を残そうとする本能はない。

書物で得た知識を元に解釈しただけ。

「仕事で忙しいからね」

「えー?それが理由になるほど仕事が出来ない人には見えませんよ?」

女性は年齢が上がると、見る目が肥えて来る。

男の判別方法や気にする所も変わって行く。

「そう?ありがとう」

未だに酒でも残っているのか。

ただの好奇心だろうが、一歩間違えると、探られている様にも感じる。

男として価値があるのか。

好みの範疇か。

口説けるのか否か。

真知子としては、未婚な理由が理乃だとあたりを着けた。

その答え合わせがしたいだけ。

だが、聞き様によっては。

理乃の存在を考慮しなければ。

「相手がいないなら立候補しちゃおうかな」という前段階のニュアンスに受け取れなくもない。

相応な経験値を積んでいる昌信はそんな勘違いはしない。

色恋沙汰に疎く、単純な理乃が聞いていたら、勘違いされるには充分な要素盛り沢山である。

(ん?聞いていたら?)

ここは理乃の事務所。

深夜に男女で二人きり。

理乃は隣の居住区。

隣との差は壁一枚。

理乃の聴覚。

今は抑制が緩くなっている。

慣れ親しんだ二人。

姿を、瞳を見なくても、声音である程度は読める(・・・)

声音が見える(・・・)理乃に壁一枚など関係ない。

真知子の昌信への好奇心や興味しか見えない。

一番大事な感情は理乃には理解出来ない。

慌てて居住区への扉を開ける。

「理…

ゴロゴロ ピシャーン!!

居住区の窓から、雷が落ちた音が聞こえて来た。

外は大雨だった。

事務所側は窓と隣接しておらず、音が聞こえて来なかったので気付かなかった。

「え?雨?」

今は真知子の相手をしている余裕はない。

「理乃。理乃?」

暗い部屋の窓際に理乃が座りこんでいた。

先程と全く変わらない態勢。

雨風も気にせず、ただ空を見上げていた。

幾分か気持ち良さそうにも見える。

「昌信さん?どーしたんですか?…あ!窓!理乃、窓閉めて窓!」

慌てる昌信を不審に思った真知子が後を追い掛けていた。

理乃の居住区は、窓が全開になっており、雨風が部屋に入ってきている。

慌てて窓を閉める真知子を理乃は止めない。

少し、つまらなそうな顔をしただけで。

全ての窓を閉め、カーテンまでひいた。

光源は隣の事務所から扉を通して入ってくるのみ。

「濡れてない?大丈夫?」

「問題ない。マチ、いつまでここにいるつもりだ?」

今は時刻は日付けが変わる前。

子供でもないし、急いで帰らないといけないような時間ではない。

けれど、仕事をしていなければならない職場でもない。

「えっと、ちょっと気になる事があって。残業代とか請求しないから!私用だから気にしないで」

理乃が心配だったから。

そんな事を言えば、拒絶される。

真知子はそれを知っている。

踏み込み過ぎると、理乃は逃げる。

「プライベートなら他でやれ。どうしても今日じゃなければならないようなものではないなら、もう帰れ。女が一人で出歩く時間じゃない」

プライベートの用事を職場でしては、苦情を言われても仕方がない。

それが居住区と繋がっており、住民が疲れているのなら尚更。

「理乃が心配」というプライベートな用件。

本人には言えないとは言え、そんなに冷たくしなくても良いではないか。

こちらは心配したと言うのに。

少しだけ、疲れている名残りが垣間見える。

いつもより、少し、冷たい。

普段の理乃であれば、口に出さずとも気付く。

読めるのだから。

特に真知子は素直な気性の持ち主で、裏表がなく分かりやすい。

真知子は嘘を吐いた。

それに理乃が気付いていない。

それとも、気にしていない?

理乃は女性に甘い傾向がある。

許容範囲の嘘ならば見過ごすだろう。

己を心配したのを隠したのなら尚更、平気な顔をして心配を払拭する。

理乃は何を(・・・)プライベートな用件だと判断した?

「そうだね。愚弟が車で来ているから、送らせるよ」

「…アレの運転か?」

「アレは酒を飲んでたからね。運転は結菜君だよ」

「なら良いか。マチ、それで良いな?」

「そこまで迷惑掛けられないよ。まだそんなに遅い時間じゃないし」

まだ電車も残っている時間だ。

家まで徒歩圏内なのだから、わざわざ送ってもらう程でもない。

「一人帰らせる方が余程心配だよ。良ければ、送らせてくれると嬉しいな」

送っていくのは、あくまで弟夫婦だ。

兄は弟を手下の様に使う癖がある。

「でも…」

「遠慮しなくていいよ?女性の一人歩きは、理乃の言う通り危険だからね」

二人掛かりで説得されたら頷かない訳にもいかず、お願いする事になった。

「所長。お前も帰れ。居住区への立ち入りを許可した覚えはない。残っている仕事なら明日にでも送る」

呼び方が変わっている事が引っ掛かった。

居住区への立ち入りも、先程は注意されていなかった。

急激な態度の変化に着いていけない。

会話は止めない。

正面から聞いても答えは返って来ない。

会話の中から少しでも何か掴めないか。

「依頼していた仕事は全部回収させて貰ったよ。流石に仕事が早いね。終わってなければ、別に振らないといけないと思っていたんだけど」

「用が済んだなら帰れ」

取り付く隙もない。

幾つも越えた見えないハードルが新たに設置されたような気分だ。

それとも、自分はスタート地点に戻ってしまったのだろうか?

昌信には判断が出来ない。

今の理乃は、まるで施設にいた時のよう。

「ちょっと理乃!そんな言い方ないでしょ?」

余りに冷たい態度に、真知子は口を挟まずにはいられなかった。

自分の事は心配してくれたのに。

昌信の事は小蝿のように手で払っているような態度。

今まで、疲れもあったのだろう。

煩わしそうな視線。

それでも温度があった。

それが、唐突に冷ややかな視線に変わった。

余りの冷たさに身体が固まった。

まるで氷にでもなかったかのように。

「帰れと言った。続きは勝手に外でやれ」

「「・・・」」

答えないのではない。

答えられない。

余りの圧力に。

重く、冷たい空間。

重力をここまで感じたのは初めてだった。

いつまでも動かず、何も言わない二人に苛ついたのか。

「消えろ。目障りだ」

冷たい視線。

冷たい態度。

中学の時の冷たさとは意味が違う。

明確な拒絶。

何処からか、喫茶店で見た閃光もパチパチと室内を走り始める。

「理乃。俺は怒らせるような事はしてないよ」

完全な誤解。

真知子が昌信を気に入ったという誤解。

女の真知子が気に入ったのならば、理乃にとっては男の昌信の意思は後回し。

昌信が選んだのは理乃。

けれど、繁殖する気がない理乃は他の女性よりも自分は後回し。

だが、そんな価値観は理乃くらいしか持っていない。

確かに、お茶会の前に比べたら、親しくはなった。

けれど、それは理乃を真ん中に置いてこその立ち位置。

「何の話か分からない。帰れ」

その立ち位置すらも、理乃には理解出来ない。

距離が分からない。

立ち位置など、目に見えない立体的な感覚。

そんなものを認識出来る能力は理乃にはない。

理乃は自分すら認識出来ていないのだから。

理乃の世界は一人きり。

他の人間は理乃を除いた世界にいる。

「とりあえず、真知子君を送る様に頼んでくるよ。理乃、話は後でね。さっ。遅くならないうちに行こうか?」

「あ、はい…」

真知子にとっても、話が見えない。

ただ、理乃が不機嫌な事は分かった。

疲れて拒絶している理乃に近寄れば悪化するだけ。

それくらいは知っている。

今日は大人しく帰ろう。

明日、ちゃんと話をすればいい。

いつも通り、ダラダラとした理乃と。

二人は階下に降り、片付けが終わっていながらもダラダラと話ている仲間達と遭遇した。

まだ居るとは思っていたが、何をダラダラと。

明日も仕事があるだろうに。

「お前達、何をしているんだい?さっさと帰りなよ」

「あ。お義兄さん。雨が凄いから真知子ちゃんを送っていこうと思って待ってたのよ。もう良いの?」

「わぁ!ありがとうございます!すみませんがお願いします」

「気にしないで。夜中に女の子を一人で帰させるわけにも行かないでしょう」

「結菜さん、ステキ!」

同じ内容なのに、理乃とは正反対。

結菜と真知子の雑談で盛り上がる。

話の内容は先程の理乃の冷たい態度について。

「先輩。理乃は?」

「疲れてるみたいだね。この後にまた顔を出してみるよ」

「任せました」

「はいはい」

疲れている理乃に大勢で会いに行っては、負担が増すだけ。

扱いに慣れている昌信に任せるしかない。

一番大変だったであろう、施設時代に面倒を見ていたのは彼なのだから。

皆がそれぞれ帰途に着き、それを見送った昌信は気合いを入れ直して理乃の元へ向かう。

戻った事務所は先程と何も変わっていなかった。

出しっ放しのマグカップ。

着いたままの照明。

立ち上げたままのパソコン。

昌信はマグカップを片付け、パソコンの電源を落とす。

そして、理乃がいるであろう扉をノックした。

反応はなかった。

恐る恐る、試しに開けてみる。

鍵が掛かっていて、ガチャッと物音がするだけかと思った。

けれど、予想に反して、扉は簡単に開いた。

「話は後で」と言っておいた。

だから鍵を開けておいてくれたのだろうか?

「理乃、さっきのことだけど…」

言葉はそこで途切れた。

部屋の中には、誰もいなかった。

シャワー室にも、奥の給湯室兼調理場にも姿はなかった。

逃げられた。

それしか思い当たらない。

溜め息を吐きながら、居住区へ戻ると、ベッドの上で淡い光を反射している小さな物があった。

近寄ってみると、雪とのピアスが片割れを失い、一つだけ転がっていた。

お付き合いいただき、ありがとうございました!

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