~誰も代わりなんていないんです~
真知子さんが入社した経緯
真知子がこの相談所に入社して三ヶ月の月日が経った。
一般的には、試用期間中の新人。
この相談所が設立してから、一年以上くらい経っている。
「くらい」というのは、所長の理乃がいつから始めたか覚えていないせいだ。
話によると、そもそもこの事務所のあるフロアは、
理乃の知り合いが扱いに困っていた物件らしい。
駅から遠く、通勤の便は悪い。
その上、一昔前の古い雑居ビル。
借り手も見つからず、かと言って売るにも大した値段など着かない。
そこへ、理乃が借りた。という訳だ。
借り手がなく、手に余ってた物件というのと、知り合いということで、
管理費に多少色を着けた程度の売り上げ最低限の友人価格の家賃で借りている。
空き部屋にするよりは、多少でも金が入ること。
使わない物件は寂れていく一方。
一体どこからそんな人脈を作ってい
るのか不思議だが、相互に損がない、win-winな取り引きらしい。
知り合いは、家賃も今以上の低値でいい、と言ったらしいが、理乃が断った。
充分、破格の値段なのだ。
「これ以上の借りは面倒」とのこと。
一年以上、一人で相談所を運営していた。
最初は知り合いの相談や、知り合いに回されて、と
そこまで多くはないが依頼は入っていた。
理乃は、過去の経験から、雑務や経理は、物によるが大抵は一日掛からずに
片付けてしまう。
タイピングなど、真知子と比べるのがバカらしくなるほど早い。
そして相談所運営というのは、役所に提出しなければならないことは少ない。
色んな手続きが必要で、かつ人数が多く、雑務が多い大手企業に比べれば簡単に済む。
理乃は簿記の資格を持っている。
基本ソフトを使う技術や知識も持っている。
確定申告など、造作もない。
理乃の高校は商業科だったのだ。
本人曰く「学校で休日返上で無理矢理試験を受けさせられただけ」とのこと。
それでも受けさせられた試験は全て合格しているらしい。
簡単な試験な様に聞こえるが、初級の試験でも、合格者は学年の半分以下。
学年が上がる度に試験の階級、難易度は上がり、
合格者は1/4が受かればいい方だそうだ。
実際、三年間で一つも合格しなかった人は多数いたらしい。
理乃曰く「知ってること、出来ることをやっただけ」
不合格になった人間が聞いたら怒ること間違いなしだ。
真知子とは接点のない中学時代の友人が大学だか専門学校だか、
理乃が知らないので詳しくはわからないが、課題を抱えた友人が教わる…なんて事もあったらしい。
実際、真知子が相談所で出来ることなどたかがしれている。
相談所という依頼内容から、まったくの畑違いではないとはいえ、
新人である真知子がお客さんの相手をすることはまずない。
入社三ヶ月なのだから当然といえば当然だ。
そんな真知子が、この霞沢相談所へ入社した切欠は四ヶ月前に遡る。
真知子は、元々は弁護士を目指していた。
弁護士になるには、莫大なお金が掛かる。
真知子の家は一般家庭で、ポンと出せる金額ではなかった。
それでも夢は諦められず、親に頭を下げ、如何に弁護士になりたいかを語り、
何日も掛けて話を聞いてもらった。
粘りに粘った結果「そこまで言うなら」と、許してもらえた。
必死に勉強し、大学を卒業後、ロースクールという専門大学院に通い、
法務博士号を取得。
その段階で脱落者は嫌というほど出る。
真知子は運良くストレートで合格した。
だが、弁護士への道はまだまだ遠い。
新司法試験という国家試験に合格しなければならないのだ。
何度も不合格になると、大学院からのやり直しが義務付けられている。
この時点でも脱落者は出る。
不合格というのもあるが、毎日難しい勉強の日々。
遊ぶ暇もなく、人によってはアルバイトをしながらだ。
身体を壊して諦めてしまう人も沢山いた。
この時点で数百万~一千万の学費が掛かるのだ。
司法試験に合格した後は、司法研修所で一年から二年ほど雑用の毎日。
雑用をこなしながら、勉強もしないといけない。
体力がなければやっていけない。
その研修試験に合格すれば、晴れて弁護士の道が開かれる…のだが。
世の中の就職難は弁護士にも当てはまる。
司法制度改革推進法により、弁護士が大量に増えたのだ。
日本は昔よりも裁判が増えたとはいえ、米国ほどではない。
需要と供給が成り立たず、仕事量に比べると弁護士が多過ぎる。
という結果になり、弁護士同士で仕事の取り合いである。
大抵は、有名な弁護士に仕事を取られてしまう。
依頼する側も、無名な弁護士よりも、実歴がある弁護士を頼るからだ。
その結果、弁護士になる資格を有していても、弁護士として働けない人が溢れかえった。
真知子は運良く、研修所でお世話になった事務所から内定が貰えた。
弁護士とはいえ、新人に仕事などこない。
先輩方の雑用を片付け、安い賃金で毎日遅くまで走り回る。
これも修行!!と割り切り、文句も言わず
ーー言う暇も余裕もないともいうーー
毎日精一杯頑張った。
いつか、弁護士として困っている人を助けるんだ!と夢を抱いて。
だが、現実は容赦がなかった。
弁護士は正義のヒーローではないのだ。
弁護を依頼した人が加害者だろうと、依頼を受けたからには、
依頼人の罪がなくなるか、せめて軽くなるよう弁護しなくてはならないのだ。
被害者の過失を揚げ足取りの難癖のように提示する先輩方。
私がなりたかった弁護士とは、夢物語でしかなかったのだろうか……?
それでも、私は私。と割り切り、私がなりたい弁護士のようになれるよう頑張った。
オシャレや遊びに行く時間なんて皆無。
それでも、叶えたい夢があるのだから、一時の娯楽は諦めざるを得なかった。
法律や条文など、数年経てば代わってしまう。
増える事だってある。
世界は毎日動いているのだ。
少しでも立ち止まってしまえば、置いていかれる。
学費のローンだって残っている。
こんな所で投げ出しては、親に顔向けが出来ない。
必死に仕事をしていたある日、事務所の所長さんに呼ばれた。
なんの話だろう?と所長室に向かい、勧められるまま席に座る。
何だか嫌な予感がした。
的中して欲しくない。
ただの気のせい。と自分に言い聞かせる。
けれど、悪い予感というものは、得てして中るものだ。
要約すると、自主退社を勧められた。
弁護事務所だけのことはある。
会社都合でクビにすると色々と面倒だが、自主退社ならば会社側は最低限の処理で済む。
仕事が辛い。
体調不良。
弁護士という現実を知って。
自ら辞めていった人は多い。
自主退社も珍しくない職種なのだ。
選択肢のない提案。
ここで粘って拒否しても、後々、自主退社するように追い込まれるのは目に見えていた。
「君には悪いとは思っているが…うちも経営が苦しくてね。すまない」
確かに、小さな事務所だった。
一時期、過重支払い処理が流行り、小遣い稼ぎにと仕事が増えたが、
改定され今ではその案件も少ない。
頷くしかなかった。
「今まで…お世話になりました」
泣き顔は見られたくない。
頭を下げたまま、しばらく上げる事が出来なかった。
その日の夜、理乃を呼び出し、散々愚痴った。
ちなみに、私の奢りである。
私は酒を飲んで愚痴るわ泣くわの大騒ぎ。
理乃のせいじゃないのに、絡むは文句をぶつけるわ、だ。
対して、理乃はお酒も飲まなければ、ご飯も殆ど食べない。
割り勘でも理乃には損しかない。
普段、食事をする時は割り勘にしてくれるのだから、優しい方だろう。
口数は少ない癖に、不思議と喋りやすいのだ。
「ふーん」と「それで?」しか言わないのに、だ。
聞き上手と言うのだろうか?
今まで我慢していた事、自分ですら自覚していなかったことが
スラスラと口から飛び出した。
理乃に愚痴ると、マイナス思考が話終わった時には、
何故かプラス思考になるという不思議な事がたまにある。
最後には、スッキリして、前向きに、さぁ、明日から動こう!と思えるのだ。
何せ、クビになろうがローンが消えてなくなる訳じゃない。
新しい就職先を見つけるのは至難の技だろう。
弁護士事務所の雇用問題なんて、どこも似たり寄ったりだ。
「ウチに来るか?」
「……え?」
ウチに…というのは、理乃の経営している相談所の事だ。
決して、理乃が養ってやる、という意味ではない。
相談所…。困っている人が助言を求めに来るのだろう。
私が本来やりたかった事と似ている。
規模は小さいかもしれないが、弁護士の現実を知ってしまった後では、
一番近い仕事のように思えた。
呆然と理乃を見ると、
頬杖をして、煙草を吸いながら窓の外を眺めていた。
自分に都合の良い幻聴?
「今…なんて…?」
幻聴じゃないかもしれない。
いや、幻聴だろう。
いくら理乃がお気に入りに甘くても、就職口まで面倒をみるほど面倒見は良くない。
今、この場に愚痴を聞きに来てくれているのですら、
破格の扱いだというのもわかっている。
理乃は「どうでもいい奴の為に指一本、髪の毛一本ですら動かしたくねぇ」と
豪語するような人間だ。
チラリと視線だけが、私に向けられる。
ドキリとした。
期待に胸が熱くなるのがわかる。
お酒のせいではなく、鼓動が早まった。
それとも酔っ払っているのだろうか。
自分の心が、思考がわからない。
「無理強いはしないが。雑用係りが欲しくてな」
幻聴…じゃない?
「やる!やります!やらせてください!!」
考える前に口から飛び出していた。
「あっそ。じゃ、決まりな」
私の勢いなんて何のその。
理乃はいつも通り気怠げに淡々としていた。
その後のご飯はとても美味しかった。
最近、まともにご飯を食べる余裕なんてなかった。
ご飯がこんなに美味しく感じるのも久しぶりだった。
理乃はたまに箸を運ぶ程度。
消耗品のように使われ、ボロボロになって辞めていく人を何人も見てきた。
その人でなくてもいい。
誰でもいい。
代わりはいくらでもいる。
交換されない為には、必死に自分ならではの価値を提示しなければならない。
それでも、先輩方に目障りと認定されれば潰される。
霞沢相談所に入社して、三ヶ月。
まだまだお客さんの相手をさせては貰えないけれど、
「私、鈴木真知子にしか出来ない事」が毎日溢れている生活は、
名ばかりの弁護士をしていた時よりも何倍も充実しています。
オカン属性がここにいるよー