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彼女の名前は――

作者: 笹村工事

 それは、今にして思えば初恋だったのだろう。


 幼いあの日に出逢った、あの少女に対する。


 ◆  ◆  ◆


 泣きながらボクは今ここに居た。


「ぅ……ぁ……」


 涙も出ているし鼻水だって出ている。鏡を見ていないけれど、きっと酷くかっこ悪いに決まっている。


 けれど、そんな物を気にしている余裕なんて無かった。


(怖い、よぅ……)


 夜の学校。


 明かりなんてほとんどない暗闇で、それが余計に怖さを増している。


 自分の足音が怖い。暗いのが怖い。そこに何かが潜んで居そうで怖くて怖くてたまらない。ボクは酷く怖がりだった。


 でも、それでもボクはこんな所にいる。全ては自分の忘れっぽさのせいだ。


 ノートを持って帰る事を忘れてしまったのだ。とてもとても特別で、とてもとても他人には中身を見せられない、そんなノートを。


 何で忘れてしまったのだろう。そもそも、学校になんか持ってこなければ良かったんだ。


 最初は家の中だけで、学校に持って行くつもりなんて無かった。けれど、何時からかそれを持って学校に行くようになっていた。


 だってそれがあると、とてもとても心強かったんだ。お守りみたいな気持ちになって、それをボクは持っていた。


 でも、手放したらいけなかったんだ、それは。誰かに中身を見られたらきっとボクは終ってしまう、そんなノートなのだから。


 だからボクは今ここに居る。親に黙って家を出て、一人で誰にも見つからないように、ノートを取りに来たのだ。


 なのに、全然教室へは辿り付けなかった。朝ならあっという間に辿り着く筈の教室までの距離が長い。まるで見えない誰かに距離を引き伸ばされているみたいだ。


 そんなこと、誰にも出来るわけが無い。人間なら。


 ――でも、人間じゃなかったら?


 ……なんでそんなことを思いついちゃったんだろう。ボクは馬鹿だ。頭が悪くて意気地なしで怖がりのクセに、そんなことばかりすぐに思いつく。


 七不思議のびるろうか。すぐに頭に浮かんだのは、そんな学校の怪談だった。


「ぅ……ぁ、ない、ないよ、そんなのあるわけ無い」


 呪文のようにボクは呟く。本当に無いと思っているのならそんなこと口にする必要なんか無いのに、怖さから逃れたくてボクは呟き続けた。教室へ辿り着けるまでずっと。


 そして、ようやく、ボクは自分の教室へと辿り着いた。泣きながらボクは笑みを浮かべる。


 ――好かった、間に合った。これで、もっと虐められないですむ。


 ボクは安堵に息を漏らし教室の戸を開け、すぐに閉める。そして自分の机へ体を向け――


「面白いわね。これ」


 ボクのノートを開いて中身を見ている彼女に気がついた。


「ぁ……」


 終った。心の底からそう思った。こんなにも怖い思いをしてまでここに来たのに、その全ては無駄だったんだ。


 真っ白な頭のボクがそう諦めているのに、彼女はとてもとても楽しそうだった。


 一体、どのクラスの子なんだろう? ボクは一度も見た事が無い。背中に届くほどの黒髪は夜の闇の中ですら艶やかで、白い肌は浮かんで見える。お人形が着るみたいなかわいい服は、彼女にとてもとても似合っていた。


 何もかも終ったと諦めて何も浮かばない筈のその時、ボクは彼女に見とれていた。とてもかわいい子だなと、真っ白な頭のままで無心にそう思った。


 そんな彼女が、ボクのノートを読みながら声をあげる。


「素敵。本当にそう思うわ。


 無防備な背後を刃物で一突き、倒れて蹲った所で、首を切るのね。


 何度も何度もザクザクとザクザクと斬り付けて、溢れる血と油でぬるぬるになっても止めなくて、何度も何度も斬り裂くのね。


 その後も好いわ。


 何度も斬って肉を削ぎ落として、骨が見えてきたら捻るのね。右へ捻って真後ろへ、今度は左に捻って更に前に戻って一周過ぎて。


 でも、そこで許さないのよね? もっともっと捻って捻って、最後には捻じ切るのよね。


 あぁ、好いわ、音が聞こえてきそう。


 ごりごりめりめりぶちぶちぶつんっ。


 うふ、うふふふふ、うふふふふふふ、凄く素敵で楽しくて面白いわ」


 殺し方の一つを彼女は読み上げる。それは、ノートに書いていた殺し方の一つだった。ノートには、そんなことしか書いていなかった。


 斬殺刺殺撲殺轢殺圧殺毒殺焼殺――ボクが考え付く限りの殺し方を書いていた。


 復讐日記。


 虐められっ子だったボクが、何時からか書いていた日記だった。それを書き始めたのは、虐められ始めてからいくらか経ってからだったと思う。


 何時から虐められ始めたかは、もう忘れてしまった。始まりは確か、学校の怪談にボクが酷く怖がった事が原因だった。


 笑われた、みんなに。馬鹿にされてなじられて、最後には泣いてしまって、それからずっとボクは虐められていた。 


 最初はただ静かに我慢していた。へらへらと笑って、誤魔化し続ければいつか虐めは無くなるんじゃないかって思って。


 そんなこと、無かったけれど。


 ずっと、虐められ続けた。刃物で斬り裂くような派手さは無かったけれど、何度も何度も針で刺すような、そんな虐めをみんなにされ続けた。


 そんなみんなを、何時からかボクはノートの中で殺し始めた。


 鉛筆を武器にして、ノートが真っ黒になるほど沢山沢山書き続けたんだ。


 とてもとても、すっとした。どれだけ虐められても、ノートの中で殺し続けている間は気分が好かった。そして、楽しかった。


 何度も同じ相手を殺した。何人も同じ方法で殺した。みんなを色々な方法で殺し続けた。


 ボクは思っていた。お前らなんかいつでも殺せる、殺さないでいるのは我慢してやっているからだって。


 ……あぁ、そうか、だからだ。ボクがノートを学校に持ってきていたのは。


 それはボクの武器だった。刃物なんか怖くて持っていられないボクが、心の中だけで自分を虐めるみんなに仕返しする事が出来る武器。


 でも、見つかってしまえば終ってしまう、そんな脆い紙の刃で出来た凶器。


 それを、彼女に見つかったんだ。


 彼女は楽しそうに楽しそうにノートを見続けていた。そして、


「ねぇ、これからどうなるの?」


 楽しそうな笑顔のままで、ボクに訊いてきた。


「……ぇ?」


 一瞬、何を言われたのかが分からなかった。終ってしまったと思っているボクに、それでも彼女は続きをせがむ。


 なんて応えれば良いのかが分からないボクに、彼女はすっと近付いた。


「これで、終わりなんかじゃないでしょう? 


 貴女は殺したわ。殺して殺して殺して、死体の山を積み上げて、でも、そこで終わりじゃないでしょう? 


 続くのよ、どうしようもなく続くのよ。たとえ誰を殺そうと、たとえ誰が死んでも、どうしようもなく続いていくの。


 ねぇ、貴女は、これだけ人を殺して、その後どう続けるの?」


 考えないでいた事を、彼女は容赦なく突きつけた。


 ボクはいつでも思っていた。ボクを虐めるみんなを、その気になれば殺せるんだって。


 多分、ううんきっと、ボクはそれが出来る。そのことだけを、一杯一杯考えていたのだから。


 でも、その先なんて何も考えてなんかいなかった――


 違う、そうじゃない。終ると、そこで終れると、ボクは思っていただけなんだ。


 そんなわけ、無いのに。


 続くんだ、どうしようもなく続くんだ。何をしたって、何時が来たって、そこで終わることなんて、きっとありはしないんだ。


 それを、彼女に気付かされた。


「ぅ、ぁ……」


 怖くなる、とてもとても怖くなる。楽になるために、終れるために、ボクは日記を書き続けていた。


 けれどそれは、何の意味も無いんだって、気付かされたから。


 心臓がバクバクする。涙が溢れてきそうなぐらい滲んでしまう。どこにも行けずに終れないボクは、ぐるぐる回る恐怖の渦に捕まって動けないでいた。そんなボクに彼女は、


「さぁ、お話して? どんな風に続けるの? 殺して殺して貴女は殺して、その後に、どうするの? さぁ、お話して?」


 人殺しの物語の続きをねだった。それに、すぐにはボクは応えられなかった。


 けれどやがて、震える唇を動かして、少しずつ少しずつ物語を口にした。


 それは、怖かったから。何も口にせずにそのままで居たら我慢できないぐらい怖くて怖くて堪らないから、そこから逃げ出すために物語っただけだった。


 ボクは語る。人殺しの、その先の先、終わることなど出来ない続きの物語を――


 ボクは語った。死体を隠すやり方を。

 ボクは語った。自分以外の誰かのせいにするやり方を。

 ボクは語った。誰にも気付かれないですむ方法を。


 人を殺してしまったボクが、終れない続きの中で逃げ続ける方法を。


 それを彼女は、楽しそうに楽しそうに聞いていた。残酷で卑怯で、どうしようもないお話なのに、楽しそうに楽しそうに聞いてくれた。

 目を輝かせて、時には声をあげて、楽しんでくれた。ずっとずっと、ボクの物語を望んでくれた。


 だから、ボクは続けられた。語って語って語って、けれど――


「どうしたの? その先は?」


 黙ってしまったボクに、彼女は問い掛ける。まだまだ彼女は、物語を望んでいた。


 でも、その願いをボクは叶えられない。


 ボクは物語を続けていた。続けて続けて続けて、そして、不意に気付いた。終わりに近付いてしまったことを。


 それは、一つの結末。人殺しから始まり辿り着いた物語の終わり。きっと、ボクが語らなくても続くけれど、でも、ボクが語ることの出来る終わりが来たのだと。


 涙が、出てしまいそうになる。終ることを望んでいたくせに、続くことに怯えたくせに、それなのにボクは今、結末を口することを悲しんでいる。


 知らなかった、終わる事がこんなにも、悲しいことだったなんて。


 でも、ボクは止まることなんて出来なかった。ボクの物語を望んでくれる彼女を待たす訳にはいかなかったから。


 ボクは語る。一つの結末を。それは終わり続ける物語。行き着く先に辿り着いて、それまで全ての因果を払う到着点。それを、ボクは語った。


 惨めな結末だった。人を殺して、それを隠そうとして、それが見つかれば逃げ出したその先の先、全ての報いを受ける結末だった。


「それが、貴女の物語なのね」


 全てを聞き終わってくれた彼女は、穏やかな声でそう言ってくれた。


「すごく、すごくすごく、楽しかったわ。ありがとう」


 とてもとてもやさしくて、無心に見詰めてしまう。物語の終わりに彼女がボクに与えてくれた笑顔は、全てが報われると思えるほどの温かで心地好い幸せだった。


 ボクはその時、どんな表情をしていたんだろう? きっと、情けない表情だったに違いない。


 だって彼女が、彼女を無心に見詰めるボクを見詰めて、可笑しそうに笑ったのだから。


 かぁっと、顔が赤くなるのが分かる。恥ずかしくて恥ずかしくて、何も口に出来ない。そんなボクに彼女は終わりの言葉を告げる。


「さぁ、帰りなさい。物語る時は、もうお終いなのだから」


 そう言ってノートをボクに渡してくれた。


「ぇ……ぁ……」


 ボクは力なくノートを受け取る。それは彼女と逢える時が終ったことを自覚させられた。


 帰りたくないって、そう思った。けれど彼女は、ボクのそんな想いを断ち切るような鋭さで言い切った。


「ダメよ、帰りなさい。今ここは、本当は貴女が居て良い場所でも時でもないの。このままここに残り続ければ、貴女は魂まで妖怪に食べられてしまうわ」


 お伽話を彼女は語る。それは、ある筈も無い物語。けれどその時のボクは、本当のことだと何故だか信じていた。それはきっと、彼女がそう口にしたからだ。


 ぞわりと、悪寒が背骨を這い回る。一瞬で消えてなんてくれなくて、気持ちの悪い余韻に波打ちながらいつまでも残っている。


 いつものボクならきっと、泣きながら怖がっただろう。


 でも、その時のボクは違っていた。それは、彼女ともっと一緒に居たかったからだ。


 だからボクは言う。


「そんなこと、あるわけないよ。妖怪……妖怪なんて、居るもんか」


 精一杯の虚勢を張って、ボクは彼女に言い返す。けれど、


「いいえ、居るわ」


 彼女は否定した。そして、


「だって、貴女は今こうして遭っているもの。この妖怪わたしに」


 赤い赤い瞳でボクを見詰めながら、そう断言した。


 ……あぁ、何で今頃気付いたんだろう。彼女の瞳は赤くて赤くて、血のように生々しくて、ルビーのようにとても綺麗で、人間の目のようには思えなかった。


 ボクは確信した。彼女は人間じゃない、妖怪なんだって。


 その確信に、一気に産毛が逆立つ。息をすることも出来なくなるぐらい、ボクは恐怖に囚われた。


 そんなボクに彼女は近付く。


 すっと、音もなく、瞳を合わせ。


 ふわりと、唇が触れそうなほどに顔を寄せ。


 ゆっくりと、なぞるように頬を過ぎて首筋へと口を寄せ、そして、


「ひっ」


 ちろりと、ボクの首筋へ舌を這わせ、ゆっくりと何かを舐め取った。


 その途端、嘘みたいに恐怖が消える。


 そしてようやくボクは、息をつくことができた。じんわりと涙を浮かべ、最初は荒く、そして少しずつゆっくりと息をした。


 そんなボクを見詰めて、彼女は笑う。そして、


「ごちそうさま。美味しかったわ、あなたの恐怖」


 満足そうに、そして楽しそうに、そう応えた。


 最初は、その言葉が何を意味するのかが分からなかった。


 けれどやがて、どういうことなのかが理解できた。


「食べたの、ボクを」


「ええ。貴女の恐怖を、舐め取ってね」


 彼女は笑う。くすくすと楽しそうに。そして続ける。


「私は、肉も魂も全てを丸ごと食べてしまうような真似はしないわ。だって、それだと一度しか味わえないでしょう?


 それに、勿体無いもの。食べ尽くしてしまわなければ、また味わうことも出来るのだから。


 それにね、私は好きなのよ。私のお腹を満たしてくれて、私を楽しくさせてくれる人間っていう生き物が。でもね――」


 笑みを消し、嘘のない本当を表情に浮かべて、彼女は告げる。


「そうで無いモノだって一杯いるわ。


 肉も魂も丸ごと全て食べてしまうモノも、自分が美味しく食べる為だけに誰かを苦しめるモノも居る。


 それだけじゃないわ、長く長く啜る為に、殺さず捕らえたままにし続けるモノだって居る。とてもとても危ないの。


 だから、お帰りなさい。怖い怖いナニカに見つかる前に。


 誰にも見つからないように、貴女の全ては隠してあげるから。


 それが、私が貴女にしてあげられるお礼。美味しい恐怖と、楽しい楽しい物語を与えてくれた、貴女に返す事が出来るもの。


 だから、ね? お帰りなさい。私が貴方のために何かをしてあげられるうちに」


 その言葉の響きは、やさしかった。そして同時に、厳しかった。


 きっと今彼女が口にした事は真実だろう。


 このままボクがここに居続ければ、きっともっともっと怖くて、そして彼女の為にならないことが起こるんだ。


 ボクは彼女の言葉に、そう気付く事が出来た。


 だから、ボクは帰る決意をする。そうしなきゃいけないって、そう思った。でも、


「もう、逢えないの?」


 帰り際だというのに、ボクはぐずぐずと訊いてしまう。


 帰らなきゃいけないって分かっているのに、それでも彼女と一緒に居たくてわがままを口にする。


 そんなボクに彼女はくすくすと笑いながら、


「変な子ね。そんなにも怖がりのクセに、妖怪わたしにまた遭いたいだなんて。本当に変で、かわいい子」


 赤い赤い目でやさしくやさしく見詰めてくれながら、ボクに応えてくれた。そんな彼女の眼差しに恥ずかしくて俯いてしまったボクに、


「分からないわ。遭えるかもしれない、遭えないかもしれない。


 でも遭いたいと思ってくれるなら、私はとても嬉しいわ。


 だからこそ、帰りなさい。このままここに居続ければ、二度と遭えることは無くなってしまうのだから」


 やさしく、けれど早く帰るように、彼女はそう応えてくれた。


 だから、もう一度ボクは帰ることを決意する。今度は、ここに残ることを諦めて。


 でも、その前に、たった一つだけ彼女から欲しい物があった。


 だからこそ、ボクは最後の問い掛けを口にする。


「名前……名前、教えて。もし、もしまた逢えるのなら、名前で呼びたいから」


 その言葉を聞いた途端、彼女は虚を突かれたように惚けてしまう。


 けれどすぐに、楽しそうに楽しそうに、とてもとても嬉しそうに微笑みながら、


「嬉しいわ、名前を聞いてくれるのね。


 でも、ごめんなさい。私には、名前がまだ無いの。この場所では、まだ名前を持てるような私の物語が語られていないから。


 物語の無い妖怪は、名前を持つ事が出来ないの。


 だから、ごめんね」


 どこか寂しそうに応えてくれた。


 その言葉に、ボクの頭には血が上る。


 だって、こんなのってオカシイ。彼女に名前が無いなんて、そんなの許せる訳がない。


 だから、ボクは言ったんだ。


「なら、ボクが名前をあげる」


 ボクの言葉に、彼女は言葉を無くす。


 けれど、とてもとても心地好さそうに笑ってくれながら、


「嬉しいわ。本当に嬉しいわ。


 私に食べられるだけじゃなく、物語を語ってくれるだけでもなく、名前までくれるのね。


 本当に、嬉しい」


 そう言うと、すっとボクに近付き、ぎゅっと抱きしめる。とてもやわらかで温かな心地好い彼女の体に抱きしめられる。


 ドキドキと跳ねる心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかって慌ててしまうボクの耳元に唇を近づけ、


「ちょうだい、私の名前を。この場所に、学校の妖怪に相応しい名前を、私に頂戴」


 熱と湿り気のこもった声で、ボクにねだった。


 その声に産毛が逆立つようなざわめきを感じながら、ボクは考える。彼女に相応しい、彼女を表す、学校の妖怪としての彼女の名前を。


 その時、ボクの頭に浮かんだのは彼女の瞳だった。


 赤い赤い彼女の瞳。


 それが、ボクに一つの名前を浮かび上がらせる。


 どこかあえぐように、ボクは彼女の名前を口にした。


「赤な目、あかなめさん」


 一杯一杯考えて、そしてようやく浮かんだ名前。


 けれどそれを彼女が気に入ってくれるのか不安で一杯でいるボクを安心させるような声で、彼女はその名前を受け入れてくれた。


「うれしい。それが、私のここでの名前なのね」


 その声は、本当に嬉しそうな声だった。味わうような間を置いて、彼女はボクから離れてしまう。


 彼女の体の余韻が残るその内に、彼女は最後のさよならを口にする。


「ありがとう、名前をくれて。ひょっとすると、そのお陰でまた貴女と逢えるかもしれないわ。だから、今日はもうお帰りなさい」


 その言葉に、ボクは自覚する。


 今日この日、彼女と逢うことの出来る時間は終ったのだと。


 ボクは名残惜しさに心を引かれながら、それでもそれを口にする。


「……うん、帰るね……でも、でも……また、ね。あかなめさん、また、逢おうね」


「ええ、私もまた貴女に逢いたいわ。だからそれまでは、バイバイ。また、ね」


 その言葉を最後に、ボクはその場から家に帰ったのだ。


 ――そうして、その教室には生身の人間は一人も居なくなった。後に残るは唯一つ、名前を与えられたばかりの妖怪だった。


「かわいい子」


 くすくすと、さっきまで逢っていた子との余韻を楽しみながら、その妖怪「あかなめさん」は笑っていた。


「好かったわ、本当に好かった。あの子が殺されなくて」


 その言葉を口にした途端、教室の窓に肉を撃つ音が響いた。


 ぴたん、ぴたんっ、と。粘着質の音をさせ、それは現れた。


 油で白く輝く人の手形。


 それが最初は小降りの雨のようにポツポツと、けれどすぐに土砂降りを思わせる途切れる事なき音と共に、窓の全てを埋め尽くすように一斉に現れた。


 びっしりと窓を埋め尽くす人の手形。


 それはナメクジのように跡を引きながら這いずり回り、そして、裂けた。手形の中央、掌が縦に裂け、糸を引きながら押し広げられる。

 そこから現れたのは、血塗れの瞳だった。


 それをつまらなそうに見詰めながら、あかなめさんは口を開く。


「不様ね、目目蓮もくもくれん


 それとも、ここでは他の『名前』があるのかしら?


 どうでも良いけれど。


 でも、アナタ、あの子を襲おうとしていたでしょう。それは、許せないわね」


 その言葉が終るよりも早く、目目蓮もくもくれんと呼ばれた怪異はごっそりと削り取られた。赤い赤い煌きに。


「あぁ、不味い」


 目目蓮もくもくれんの悲鳴を聞きながら、あかなめさんはウンザリと声を上げる。


「卑屈と卑劣と卑怯に塗れた臆病者の味だわ。折角のあの子の味が台無しよ。少しは恐れて、私を楽しませなさい」


 無慈悲な言葉と共に、その場に在る目目蓮もくもくれんの全ては消し去られた。


 後に残るのは静寂、そして薄れていくあかなめさんだけだった。


「あぁ、やっぱり保たないわね。しょうがないか、物語られる前に形になっちゃったから」


 後悔するような言葉を、けれど微塵もそんなものは感じさせない響きで彼女は呟く。


 なぜなら、そんなものはあの子を助けると決めた時に覚悟した事だったのだから。


 妖怪とは、物語である。


 物語は、誰かに語られることで存在を増し形を得る。


 けれどその物語を誰にも語られず名さえ持っていなかった彼女は、本来なら形を得ることなど出来ない筈だった。


 その摂理を、彼女は破ったのだ。


 それは、あの子を助ける為だった。この学校に巣食う、無数の妖怪達から。


 あかなめさんは、あの子がこの学校に立ち入りそして去り行く痕跡の全てを舐め取り消し去る。


 そして、あの子が学校から去ったのを確認してから、ほぅっと一息ついた。


 その途端、彼女の体は更に霞んでいった。


「しょうがないわよね、かわいかったから、あの子」


 形を成す前、けれどそれでも学校というこの場を見ていたあかなめさんは呟く。


「それに、あんなにも楽しい物語を語ってくれたし。


 なによりも、とっても美味しい恐怖を舐めさせてくれたから、それはしょうがないんだけれど。


 でも、もうちょっと後ならなぁ。ちゃんと形に成れたのに、残念」


 ほぅっ、と。彼女は溜息をついた。


 彼女のように、学校という場所に由来を持たない妖怪は、学校という場所では形を得る事が難しい。


 いや、そもそもが彼女は「由来」にまつわる妖怪ではない。分類するならば「願望」の妖怪とも言える存在だった。


 それは、垢を舐め取るモノ。


 人の憎悪や嫌悪、恐怖や悪意、そんな人の内に潜む醜悪なナニカを舐め取って欲しい、そんな想いから生まれた妖怪だった。


「それにしても、あかなめさん、ね。ふふっ、あの子は本当に見る眼があるわ」


 くすくすと楽しげに笑いながら、かつては「垢舐め」とも呼ばれた妖怪でもある彼女はあの子を想う。


 臆病で怖がりで、残酷で残忍で、そのくせ人の道理を大切にする優しいあの子。大好きだと想うことが出来た、かわいいあの子。


「また逢いたいなぁ」


 存在を薄れ逝かせながら、あかなめさんは寂しそうに呟く。


「名前までくれたけれど、あの子一人だと中々物語として広まるには難しいでしょうし。無理でしょうね。でも、逢いたいなぁ」


 そう、呟いた後、あかなめさんは最初の始まり、何もない「無」へと還っていった。


 後に残るのは闇と静寂のみ。彼女が形を成す気配は、微塵もありはしなかった。


 少なくとも、その時はまだ。


 彼女の名前は――  おしまい

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