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川辺の祭  作者: nats_show
祝祭
78/84

果報は寝て待て

 その日は朝から気分が悪かった。

 いや、気分が悪いのは毎朝のこと。悪夢と共に目覚め、出来るだけ寝ていたいと悶え苦しみ、このような世に生まれた自身を呪うだけなら、それは単なる日課である。…もっとも、呪うと言い切ってはさすがに嘘が混じるかも知れないが、ともかく別にことさら気にとめる必要はないのである。

 しかし今朝に限っては、残念ながらそうではなかった。


「おはよう…」

「遅ぇな、間に合うのか?」


 前夜はテレビも見ずに部屋に戻り、午後十時には布団にもぐった。「テレビも」と表現してはみたが、元々テレビはあまり見ない。その代わりにFMラジオを聴くのが日課……なので一応はスイッチを入れた。そして十分後には寝ていた。

 次に目が覚めたのは、時間は不明だが深夜。鳴らしっぱなしのラジオを消す。

 喉が痛かった。

 ちょっと寒気もした。


「学校に電話してくれ…」

「何? サボりか?」


 温かい親の言葉を聞きながら、俺は朝飯を半分残して部屋に戻り、そのまま寝込んだ。要するに風邪というやつだ。体温計の水銀は三十七度九分か三十八度か見解が別れる位置を示している。いくら俺の平熱が高めであろうと、危険水域に突入したと言わざるを得ない。

 ………。

 あさってからテストがあるというのに、きついなぁ。

 でもまぁ、どうせ実力テストだから実力で受けりゃいいか。頭が回らないのでなるべく簡単な結論を出して、風邪薬を飲んで布団にもぐった。いくらでも眠れるのがちょっと嬉しい。



 次に目が覚めたのは十一時半。

 昼飯にはわずかに早い。なんと中途半端な時間だ。がっくりきたが頭の具合はさっきよりマシになっている。のども……、それほど痛くはない。

 ………

 …………。

 ………。

 …うーむ。

 枕元の置き時計がカチカチ鳴る音を聞きながら、俺はちょっとした義憤にかられる。この時計は毎日、たった数十分だけカチカチ言うのだ。俺に対する嫌がらせで音を鳴らしたり鳴らさなかったりする迷惑な奴なのだ。

 ………。

 そんな子供の頃の妄想を都合良く思い出せる自分に感心して、別に都合良くはないだろうと自分にツッコミ。この間、何分ほど進んだのかはよく判らないが、うだうだしてから起き上がる。

 そろそろ用を足しておきたいし、なんと言っても昼飯を確保せねばならない。正直、あまり食欲はないけども、朝もあれだった以上、断食はやめておきたい。

 親からは、冷やご飯と冷蔵庫の余り物でどうにかしろと言われている。突然休むのだからやむを得ない話。それにまぁ、どう転んでも揚げあんパンよりは豪華な昼食になるだろう。今日の場合、揚げあんパンは胃にもたれるから食えそうにないけどな。

 よろよろと階段を降りる。

 頑張ればシャキッと降りることも出来そうだが、病気の時は病人っぽい歩きの方がいい。もちろん誰も見てないからこだわるほどの価値はないが…と、台所に到着だ。いろいろと演技に工夫を凝らしてみても、一分とかからなかった。

 ……まず、砂糖を発見。

 昔の俺なら、とりあえず一口食べただろう。白砂糖は得難いおやつである。うむ、今なら食べ放題ぢゃあないか……と、盛り上げようと努力したがダメだった。

 健全な肉体に健全なつまみ食いが宿る。簡単なことだ。冷蔵庫を開けてあっさり冷やご飯を発見した俺は、ご近所にあった漬け物と佃煮だけで、正午を待たずに食べてしまう。優雅な昼食はほんの三分、出がらしのお茶を飲んで薬も飲んで、約五分後には布団に戻っていた。

 その間、一応は見放題のテレビでも眺めてやろうと考え、一瞬スイッチを入れた。時間はちょうど正午、アップで見ると皺だらけのグラサンオヤジを確認して、すぐに消す。ウキウキウォッチングはなんだか面倒くさそうだ。

 動く映像は疲れる。音も厳しい。何もしないで寝るのが一番。病気になった俺はとっても良い子ちゃんだぜハッハッハ。自分で言うなよ。



 しかし今度はあまり眠くない。トータル三十分ぐらいは寝たものの、あとはやることもなく布団の中でゴロゴロするしかない。

 とりあえず目に映るのは、天井に貼ったポスター。言うまでもなく見飽きている。小学校からもらって帰った日本地図は、大名の石高がカラフルな円の大きさで判るという優れ物。しかし伊達家が六十二万石という事実は、今の自分に大した感動を与えてくれない。

 隣に貼られた一枚は、ヒゲもじゃの中年男性が銃を手にした十年前の映画のポスター。別にこの映画は面白くもなかった。たまたまもらったから貼ってしまった。一度貼ってしまうと、落ちない限り張り替えるのは面倒だから、俺はもう何年も脂ぎった男に睨まれている。

 うーむ。

 暇だ。どうにも暇だ。

 かといって本を読む気力はない。テスト勉強なんて冗談じゃない。

 一番いいのは、母親が買っている料理の雑誌を眺めることだが、雑誌を取りに下に降りるのが面倒くさい。困った…。

 ………。

 …………。

 今頃は五時間目が終わる辺りか。

 ………。

 えーこは心配してるかな。してるだろうな。

 正直、心配されなかったらそれはそれで悲しいが、彼女の性格を考えると漠然とした不安に苛まれるのもまた事実である。思い詰めた表情が目に浮かぶようだ。

 ……とはいえ、まさか学校の彼女に電話は出来ないしなぁ。それに、電話したって漠然とした不安が解消されるとも思えない。むしろ増幅される可能性が高い。

 とりあえず、この調子なら明日は大丈夫そうだ。まぁ一日ぐらいなら、朝一で謝っておけばどうにかなるべ。どうにかなってくれ……。

 頭を使ったせいで眠くなったので、そのまま何度目かの眠りにつく。

 そして次に目を覚ました時が、本日の予想外タイムなのだった。



 俺は四十歳を過ぎていた。

 俺はどうやら足を切断する予定で、明日にも病院で手術日が決まるらしい。

 どこかのグラウンドが見える。

 ぼんやりと眺めながら、どうにかして諦めようという思考が働く。

 もう十分歩いたじゃないか。

 走り回った回数なんて数え切れないじゃないか。

 いろいろと言い訳を並べて、だけど足を切られたくはなかった。


 ………。

 閉め切ったままの障子から漏れる光が、薄ぼんやりと照らす部屋の真ん中で、俺は汗をかいていた。楽しくもない夢から目覚めた最初の音は、遠くで響くブザー。

 いや、違うか? まだこれは夢の一部だったか? 急速に忘れつつある記憶をたぐりながら、再びブザーの音を聞く。

 ………。

 アホか。

 思わず自分の頭を叩いて、もぞもぞと起きあがる。

 ブザーは夢でも何でもなく、単なる家のインターホンだ。とはいえ、かなり久々に聞いた。近所の人はいちいち鳴らさないから、ふだんは耳にする機会がないのだ。


「はーい」


 とりあえず声をあげてから、失敗したと気づく。

 ブザーを鳴らすのは知らない人だ。もしかしたら宗教かも知れないし、そうでなくともセールスがらみの可能性が高い。素直に居留守を使えば良かったと後悔したものの、すでに大声で返事をしてしまった。

 …仕方ねぇなぁ。

 今度も風邪ひきっぽい歩き方で階段を降り、磨りガラスのドアに何者かの存在を確認する。今さら引き返すわけにもいかないし、風邪ひきっぽく面倒くさそうに開けて、さっさと断るしかあるまい。

 ため息をつきながら渋々鍵を解除して、ゆっくりと扉を開けた俺は、そのままのポーズで固まるしかなかったのである。


「はい、どなたで…」


 新聞を断る時にしか披露しない俺の美声は、途中から声にならない声に変わる。それから出来ることなんて、立ちすくむことだけだ。

 目の前に立っていたのは、見慣れた女子生徒が二人。気まずそうな顔と、思いっきり呆れた顔である。


「こ、こんにちは」

「……いやその、………こんにちは」


 …………いかん。眩暈がした。

 落ちつけ、落ちつくんだジョー。


「何そのカッコ」

「し、仕方ねーだろ。……寝てたんだし」

「元気そうじゃん」

「いーや、まだ全般的にだるい」


 ジョーって誰だ? 緊迫感のない自問自答から、いつもの教室なみに平静を取り戻した。我ながら便利な妄想である。

 そしてちさりんの指摘によって、ようやく俺は俗に言うパジャマ姿であることに気がつく。俗に言うというか、そのまんまである。

 当たり前だ。今まで寝込んでいたのだ……と主張すべき局面ではないな。


「じゃ、あとは二人でねー」

「あ、ありがとうちさりん」


 改めて二人の姿を見る。

 二人とも夏服だ。

 ………。

 えーこのリボンが水色。

 ………。

 他にないのかよ、俺。


「……送ってくれたのか」

「治ったらお礼してもらうからね」

「お礼?」

「良くんの言うこと聞くように」

「ふぅむ…」


 思わせぶりな発言とともに、ちさりんにはあっけなく逃げられてしまった。

 さぁ困った。何を企んでいるんだ…ではない。

 さぁ困った。

 俺は、いったい俺はどうしたらいいんだぁだぁだぁ。


「ま、とりあえず入ってくれ」

「いいの?」

「悪いわけねーだろ」


 どうしたらいいかなんて、考えるまでもないのだ。

 ここで「帰ってくれ」と言うのは、彼氏の仕事ではないぜ――彼氏でなかろうと言える台詞ではないとの説もある――。まぁどうせパジャマ姿は見られてしまったから、怖いものなんてないぜっ。ふっ。


「じゃあ、おじゃまします」

「どうぞどうぞ」


 それでも今日の俺に、決めのポーズはない。正直、まだ身体が重いのだ。

 やはり健康なくして芸はない。いや、いつからこれは芸になったんだっけ。


「えーと、………お一人?」

「うむ。危険だと思ったら無理せず帰りたまえ」

「うん」


 ともかく体調が優れないし、玄関前に立たせてもしょうがないので、さっさと中に引き入れる。そして彼女も、一応警戒の言葉を口にしながらズカズカあがり込んでくる。

 いや、あがれと言ったのは俺だから、ズカズカという形容は失礼である。とはいえ、もう少し具体的に警戒したっていいような気もする。

 ちさりんだって、最初は怯えていた。別に二人っきりではなく良もいたわけだが、部屋に入った時もきょろきょろして落ち着かなかった。目の前のえーこもきょろきょろしてはいるが、好奇心からだとすぐに判ってしまう。出逢った当初はもっと神秘的な存在だったはずだ…。


「とりあえず…、そこがトイレ」

「はぁ」


 神秘的だったのは、単によく知らなかったからだ。

 あの勝彦様だって最初は神秘のヴェールに包まれていた。約二十秒で剥がされた…ではない。ヤツは自分で剥がしただけではないか。


「茶の間が…」

「ヒロくん」

「え?」


 返事をするとほぼ同時に、彼女の手がのびてくる。

 ………。

 つないだわけじゃないので念のため。


「ちょっと熱い?」

「だいぶ下がったとは思うぞ」

「寝てください」

「……おう」


 やはり来客はまず茶の間で…という発想は、非難されるようなものではないはず。しかし俺はまるでイタズラがばれた子どものように、とぼとぼと自分の部屋に送還される運命にあった。悲しい。そして空しい。でも正直言うと、まだしんどい。

 階段を先に登り、残り一段で二階という位置でちょっとだけ彼女を押し留め、部屋に戻る。

 さぁどうしよう。

 とりあえず窓を開けて換気。

 それから―――――――――、手の着けようがないな。

 元は六畳あったとは思えない、どことなく圧迫感のある部屋。障子を開けてもまだ暗いが、蛍光灯をつけても大して変わり映えしない。

 山積みのプリントも散乱する本も、片付けるには長い時間を必要とする。まして、なんとなく持ち帰るカタログやチラシや割り箸の包み紙やマッチに至っては、整理のしようがない。うーむ、もしかして俺は今とてつもなくピンチなのではあるまいか。


「もういい?」

「ちょっ、ちょーっと待った。ウェイテュァミニッ」

「頭は元気そうですね」


 ……………すごくバカにされた気がする。たぶん気のせいではない。

 ふぅ。

 溜め息をついてから、布団を敷き直して、あとはあきらめることにする。これで逃げられても恨まないさ、俺は。


「赤コーナーよりぃ、オガワエツコ選手の入場です!」

「…えーと」

「178センチむにゃらら…パウンド、オーガワーーッ、エツーゥコーー!」

「叫ぶな」

「入場にはコールが必要だ」


 布団の上に座り、花道に現われる堂々とした体格の選手をコール。敬意を表して赤コーナー。時々勝ピーにやらされるからお手の物だ。

 とはいえ、制服姿でリングインなんて、腐れ女子プロみたいで嫌だな。かといって黒タイツもどうかと思うし…。


「だいたい、そんなに大きくないです」

「これがプロレスってもんだ」

「すぐ分かる嘘をつくのが?」

「自分を大きく見せて相手を威嚇する。戦いはもう始まっているんだ。いいか、かの曹操は赤壁の戦いに臨んで、七十数万人の兵を百万と号した」

「はぁ」

「どうだ強そうだろう。プロレスの数字もそういうもんだ。本当ならきりの良い数字で180としたかったが、リアリティがなさ過ぎるのもまずいからギリギリの判断で178とした。どうだ強そうだろう」

「はぁ」


 思わずまくし立ててしまう。

 やたら興奮している自分。こんなんでいいのか?

 えーこは無言で立ち尽くしている。もしかして……。


「納得したらリングインしてくれ」

「してません」

「うーむ…」


 遊びのない返答は、本気で怒ってる証拠。そう気づいたら、急に気分が落ち込んでいく。頭も重くなってくる。俺は風邪をひいていたのだ。


「やり直すぞ」

「うん」

「汚い部屋で構わなければ入ってくれ」

「……………」


 そろそろ返答にも疲れたという表情の彼女は、無言のまま部屋に入ろうとした。が、一歩足を踏み入れた瞬間にその場で硬直してしまったのだ。

 ふっ、俺をなめてはいけないぜ。いや、俺の部屋をだな。

 ……やれやれ。


「座れそうな場所が見つかったら座ってくれたまえ」

「質問」

「うむ、何でも聞いてみたまえ」

「プリントまとめてもいい?」

「え、…………あぁ」


 俺が一瞬返答に困ったことは判っているはずだが、彼女は無言のまま足元のプリントを集め、腰をかがめたまま前進する。あっという間に座布団一枚ほどのスペースが出来てしまった。

 この部屋のプリントは置き場によって時期が違うから、本当は動かしたくない。地層のように積み重なったものを集められてしまっては、いざ必要になった時に探せなくなってしまう…けれど、この論理は彼女に通じないだろう。だったら日付順にまとめればいい、で終わりだろう。


「この辺は去年の?」

「……混じってるだろう、たぶん」

「…………」

「見るなよ、スケベ」

「ぶー」


 結局彼女は一畳分ぐらいの空間を作り、枕元近くに鎮座した。

 いや、俺も布団にもぐってるわけじゃないから、わりと狭い場所でお互い正座で向き合う形だ。実に妙な雰囲気である。


「とりあえずヒロくん」

「お、おう」


 どちらかと言えば真顔に近い表情で、片手いっぱいのプリントを持ったまま彼女はこちらを向いている。もしも今の瞬間を撮影されたなら、部屋を掃除しろと姉に叱られる弟ってとこだろう。うーむ、どう間違っても俺が兄にはならねぇよな…。


「寝てください」

「……うむ」


 有り難いお言葉を頂くはずが、つれないえーこ。

 でもまぁいいや。ここにいるのは、俺の知る限りでは存在しないはずの姉ではなく、我が彼女えーこである。今日も可愛いえーこだぜ。

 …………。

 思いっきり緊張してきたぞ。ヤバい。


「改めて聞くけど、風邪?」

「うむ。熱があってのどが痛い」

「ふーん」


 言われるままに布団にもぐり、あえて顔を見ずに答えておく。正座よりは少し距離が出来た分ほっとする。

 …とはいえ、見下ろされているのが判るから、これはこれで恥ずかしい。隠れてるつもりで、全部覗かれてるみたいだ。


「ヒロくん」

「ん…」


 むぅ……、とりあえず落ちつくのだ。

 落ちつけ落ちつけぇー…。


「いつも勝彦くんに連絡するの?」

「へ?」


 が、気を紛らす間もなく、意外な発言に裏返った声を返してしまった。

 もちろん、なんのことか判らない。勝ピー?

 ………。

 しかし、えーこはそれ以上何も言わない。微妙な空気が流れている。微妙というか、刺々しいものすら含んでいる。

 ――――まさか?


「欠席連絡は学校にしたはずだ」

「なのにホームルーム前から勝彦くんだけ知ってるの?」

「なんだよそれ」


 必死に返答しながら、なんとなく事情が飲み込めてきた気がする。

 電話脇のメモには、良と勝ピーの番号をメモってある。良が同じクラスじゃないことは親も知ってるから、勝手にかけたに違いない。ぐぅ、なんて迷惑な話だ。


「よし、判ったぁ!」

「…………」


 とりあえず景気づけに叫んでから、思いついた結論を俺は披露した。

 いや、間違ってもえーこの家には電話出来ないのである。だから拗ねられてもどうしようもないのだが、指摘してもややこしいだけだ。決して自分の意志ではない、偶然の出来事に過ぎないと力説してみる。嘘じゃないわけだし…。

 えーこは渋々納得した感じに見える。何もそこまで気にしなくともいいのに…と思うが、気にされるのも悪くないような。難しいもんだ。


「…眠くなってきた」

「ごめん」

「そういや、茶菓子を出してなかった」

「気にしないで」


 これは気になるぞ。俺はじいさんの血を受け継いでいる。客人にはまず茶菓子、基本中の基本である。

 勢いよく上半身を跳ね上げたら、まっすぐ前にえーこの顔。目が合う。

 ………。

 可愛い。可愛すぎる。俺は今果てしなく赤面しているぞっ!!!


「……目が血走ってる」

「寝不足の反対なんだよ」

「はぁ」


 頭の中をいくつかの思考がループする。オランダせんべい?、それともハッピーターンか?、ルマンドはあったっけ?、という思考。それから、えーこは可愛いという思考。やがてもう一つ、えーこに風邪をうつしたらまずいとか今頃になって考え始めた自分。

 うむむむ。


「えーと」

「すまん、ちょっと頭を整理してた」

「大変ですね」

「まぁな」


 某ライダーの変身ポーズで何を整理するのか、理解に苦しむのは想像に難くない。しかし重要なのは腕を振ることであって、具体的なポーズではない。シェーだろうがコマネチだろうが構わないのだ。ただ今は座ってるから、ライダーが一番やりやすいのだ。

 …説明しながら虚しくなってきたぞ。


「とりあえずだな、えーこ」

「何でしょう」

「茶菓子を出さないとイライラして眠れない」

「はぁ…」


 虚しくなったらついでに落ちついてしまった。なので適当な言い訳一つで起き上がり、えーこを残して階段を降りた。

 いや、実は降りながらまたもや俺は一つの不安を感じた。

 一人っきりでいるのだから、えーこはきっと暇だろう。暇だから部屋の中を物色する…と、自分の行動パターンを当てはめてみたら、非常に危険な状況ではないか。

 たとえば俺が集めたパンフレット。そこからは何かしらの思想や傾向を読みとれる可能性がある。箸袋を並べれば、俺の行動範囲を探ることだって出来る。むぅ、その気になればどんな探偵ごっこも思いのままだぜ。

 ………。

 いつの間にかワクワクしていた。自己嫌悪の中、適当に台所を漁った結果は日本海…路とごま福だ。どちらも悪くない。まるでこの日を予期していたかのようだ。


「紅茶は安物だ」

「別に構いません」


 本当に安物なわけだが、正直言って俺にはあまり味の違いが判らない。ポットのための一杯がないなんて許せないとか言われたらおしまいだ。だいいち、これはティーバッグだ。


「まぁ適当に食べてくれ」

「ありがとうヒロちゃん」

「う…」


 素直にありがとうと言われたら、また緊張してしまった。

 何しろ笑顔の彼女が部屋にいるのだ。これで緊張しないでいつすればいいのだ。


「じゃあ一つ…」

「えーこは菊地派か」

「別に木村屋でもいいけど」


 と言いながらも、お菓子を食べれば会話ははずむ。

 さっそく日本海…路の袋を開けた彼女を見て、俺もとりあえず同じものに手をつけた。


「えーこは甘い物好きだよな」

「…まぁ」

「たとえば、羊羹一本食いは?」

「絶対しません」

「そりゃ失礼」


 少しは緊張がほぐれてきたかも知れない。

 ……断っておくが、緊張しているのは俺だ。えーこだって平常ではないだろうが。

 紅茶に口をつけ、日本海…路の包みを眺める。昔は「路」がなかったらしく、字の位置がずれているのが特徴だ。この場で解説するほどの価値はない。

 ………。

 正直、食欲はない。せっかく堂々とお菓子が食える素晴らしいシチュエーションなのに勿体ないなぁ、と俺は心の中で嘆く。


「無理しないで寝たら?」

「あ?、………うむ」


 そして嘆いたらすぐに咎められてしまう。期待を裏切らない彼女だ。古めかしく言えばあうんの呼吸だ。別に期待はしてないし、出来れば見逃してほしかったけどな。

 まぁどっちにしろ、ばれてしまった以上は仕方がない。黙って布団にもぐる。えーこの姿が、糸を引くように離れていく。少しぼーっとしているらしい。


「えーこは遠慮するなよ」

「うん」

「…………」

「してほしいの?」

「いや…」


 なんだろう、この複雑な感情は。

 誓って言うが、茶菓子はえーこのために並べているのであって、俺が食うかどうかなんてどうでもいいのだ。それは確かだ。きっと間違いない。間違いないのだが…。


「ヒロちゃん」

「え?」


 布団の中で拳を振り上げようとした瞬間、名前を呼ばれた。

 閉じかかっていた瞼を開けてみたら、日本海…路は残り一口まで減っていた。


「元気になったらデートしましょう」

「はぁ」

「甘い物食べに行くってことで」

「…おう」


 さすがに苦笑したら、一緒に彼女も笑う。笑いながら彼女は最後の一口。もちろんまだもう一個あるし、なぜか人気のないごま福も鎮座している。あれはあれでうまいんだが、この町に生まれ育つとやはり日本海…路に引き寄せられてしまうのだ。

 ………。

 呉竹羊羹と並べたら無意味な理論だった。反省。ついでに顔がにやけてて、しかも彼女にじっと見つめられていたから、また恥ずかしくなって布団にもぐる。同じことばかり繰り返している。


「行き先は任せてもらっていい?」

「うむ。だいたい俺は店知らねぇし」

「じゃあそこでお誕生会」

「………」

「気づいてなかったでしょ」

「正解」


 ちょん、と指先で額を小突かれた。

 ………。

 仕方ないよなぁ。誕生日に特別なことをした記憶なんてないのだ。

 そういえば小学生の頃、一度だけ友だちの誕生会に行ったことがあったな。正直言って、あまり行きたくなかった。何となく、自分の知らない世界の出来事だと思っていたから、前の晩は眠れなかった。


「えーこは毎年してたのか」

「ううん」


 前の日は眠れなくて、当日はほとんど記憶がない。無意味な行事。そもそも、俺はなぜ誕生会に招かれたのかすら謎だった。別にたいして親しかったわけでもなかった。

 ……そういやぁ、良もやりたがってたな。というか、誕生日には毎年両親とやってるんだよな。親が親だから、友だちを呼ぶのは困難だったようだが。

 そのうち千聡を呼ぶのだろうか。判りやすく修羅場が待っているぞククク。


「彼氏がいる誕生日は初めてです」

「別に彼氏がいなくても出来るだろ」

「ぶー」


 とりあえず、外でお茶するぐらいなら、別に緊張はしないだろう。強いて言えば、ファーストフードより高い飲食という点を意識してしまうかも知れないが、そんな緊張は一瞬で解ける。

 これが、「えーこの家で」だったら大変だ。このまま寝込むぞ俺は。


「明日はどうにかなりそう?」

「多分」


 一度は閉じた目をゆっくり開いたら、すぐに目が合った。

 何もそこまでじっくり観察しなくたっていいだろう。なぁ。

 赤面して俺はまた目を閉じる。


「テストまでに治さないと」

「なるようになる」

「ヒロちゃん」

「ん…」


 閉じたらすぐに、目と目の間をつつかれた。これがマジックペンなら千昌夫が完成してしまう。何もわざわざつつくような場所ではないと思うが、面倒くさいので指摘はしない。


「なるようになったんじゃ困るの」

「ん……、まぁそれはそうかも知れない」

「薬は飲んだ?」

「ああ」

「本当に?」

「本当に飲んだ」


 今度こそ布団から腕を突き出そうとしたが、えーこの指先に遮られる。別に腕を押さえられたわけじゃないけど。

 彼女の指先は眉間から右の頬に移った。千昌夫ごっこぐらいしか応用の利かない場所では、やはり飽きも早い。だいたい、今はワルツを踊る時間でもない。どうせなら俺よりもえーこの頬をつんつんした方が、たぶん弾力もあって楽しいだろう。でも、自分の頬をつんつんしたってしょうがないか。

 ぼんやりしかけたら、さらに数回ぐいぐいと押される。この押し方はたぶんイライラしているのだろう。経験で判る…というよりは、顔に出てる。さっきの声も苛立っていた。

 とはいえ薬を飲んだのは事実。そして、治るか治らないかが判らないのもまた事実。俺は正直者だから、えーこを喜ばせるような言葉を口には出来ないのだ。


「えーこは歌舞伎くるみ食ってんのか?」

「え?」

「いや、近いだろ?」

「別に…」


 仕方ないので無理矢理お菓子の話題に戻してみたが、あまりお気に召さなかったようだ。脈絡がなさ過ぎたのか、それとも好みじゃなかったのか。これ以上聞くのはやめておく。

 そもそもあのお菓子はあんまり比較の対象にならない気もする。どことなく古くさいイメージなのは、単に「歌舞伎」だからか? どうでもいいや。


「ごま福も食ってくれ」

「…これ以上は太るから」

「ごまは体にいいらしいぞ」

「じゃあヒロくんが食べて」


 牽制しあったら気分が悪くなった。ごま福は余ったら凍らせればいいのだ。

 しばらく無言の間。俺はぼんやりと見慣れた日本地図に目をやるが、特に何を見るわけでもない。ありていに言えば、困っている。

 えーこをじっと見るのはいろいろ問題がある。いろいろ……を詳細には説明出来ないが、ともかく問題があるけれど、だからといって目を背けるのもおかしい。すぐに咎められてピンチに陥るに違いない。


「おやすみの時間?」

「いや、客人の前で寝るわけには…」

「お見舞いなんだから寝てください」

「うー…」


 気まぐれな時計の音が鳴り始めた刹那、始まった何度目かのループは実力行使で止められた。

 …………。

 今度のえーこの攻撃は強力だ。俺は黙って布団にもぐるしかなかったのだ。


「ヒロちゃん可愛い」

「……なんか屈辱的だ」


 口ではそう言いながら、もう俺は無条件降伏だ。というか、これは卑怯だ。えーこは右手の指を絡めて、ゆっくり髪を梳かしていく。俺は撫でられたら何も出来ない人間だ。まして梳かされたら……、目を開けることすら億劫になるのだ。

 ………。

 …………。

 まぁ実際、俺は寝るべきなんだよな。何も風邪を治すためだけじゃなくて。


「ごめんな」

「え?」

「えーこの勉強時間を削ってしまった」

「うん」


 ちさりんは今ごろ勉強会か?

 となると、わざわざ家に来てもらったお礼を要求されそうだ。まぁ知らんぷりは出来ないし、出来れば要求される前にどうにかしたい。


「明日は二日分勉強しないと」

「人には出来ることと出来ないことがあるぞ」

「二人でやれば大丈夫」

「……なるほど」


 明日の勉強会はもう決定しているわけだ。二日分というのはあくまで勉強会二日分って意味なんだよな?

 ……深く考えるほどじゃないか。俺自身のこれまでを考えれば、学校でじっくり居残りしたら、きっとそれで満足して家では勉強しないだろう。だから文字通り、二日分はやらなきゃ。


「なぁえーこ」

「ん?」

「なんか眠れる話でもしてみたまえ」

「ふーん」


 けど、二日分の勉強ってどうやって量ればいいんだ?

 時間……は、まさか六時で終わるところを八時まで、とはいくまい。絶対に二倍は出来ないぞ。


「昔々、あるところにゴロウがいました」

「む…」


 えーこが口にした名前は、どんなに余計なことを考えていても引き戻されてしまう危険なものだった。思わず一瞬顔をしかめかけたが、気を取り直す。

 というか、ここでその話なのか。うーむ。


「ツルさんもいました」

「………」

「ゴロウさんとツルさんは仲良しでした」

「………」

「おしまい」

「おしまいかよっ!」


 思わず半分身体を起こしてしまった。

 今のは誰だってツッコミ入れるだろう。入れなきゃ嘘だろ、なぁ?


「眠れなかった?」

「思いっきり目が覚めた」

「残念」

「というか、他の話にしてくれよ」

「うーん…」


 目が開いたのでじっと彼女の姿を確認してしまう。そしてどうやら冗談ではなかったらしい、と気づく。

 まだ俺にはあの二人への距離感がつかめない。

 過去の話だ、とは言い切れない。

 自分とは縁のない話だ、とも言えない。

 かといって俺はゴロウではない。


「昔話というか、今の話だったんだけど」

「ん……」

「ヒロちゃんとえーこは仲良しだから、ゴロウちゃんとツルさんも仲良し」


 ややこしいことを考えてる時に、シンプルな論理を提示されると思わず流されそうになる。えーこの言い分はいつも同じ。問題は俺も、少なくとも前半について異論がないという点だ。

 それだけじゃない。いや、そんな程度のことじゃない。


「……特に喜びを表しはしないようだが」

「私たちが表せばいいと思う」

「ふぅむ…」


 えーことは仲良くしていたい。

 えーことは今よりももっと仲良くなりたい。

 いつもえーこの顔を眺めていたい。

 いつもえーこの髪をなでていたい。そしてなでられていたい。


「………」

「…………」

「………………あ」


 この瞬間。

 とんでもないことをしてしまったと気づいた瞬間。

 ……明日になれば、きっとゴロウが現われていたことになるだろう。いや、違うか。違う。違うだろ。


「こ、これはじ…」

「…………」

「じ……」

「………」

「地震が起きたら危ないぞ」

「はぁ…」


 当然だが俺は慌てた。当然のように俺の頭の中を、無数の言葉が飛び交っていた。そして俺は起き上がって、掛け布団を畳んだ。見事な早業だった。

 自由の国?

 自暴自棄?

 自宅学習?

 どれも関係ない。あってたまるか、と焦る。焦ってもさらに空虚な熟語が羅列されていく。それはすべて、最初に口にしかかった言葉を否定するために。

 …………。

 あれは事故だった?

 そんなこと言えるかって。


「…えーと、ヒロくん」

「…………」

「あの、……そろそろ帰ります」

「お、おう」


 とりあえず、これ以上この部屋にいては危険だ。それだけはきっと二人の共通認識だったに違いない。

 畳んだ布団の上に俺は正座して、それからすぐに立ち上がって部屋の戸を開けた。すでに時間は夕暮れ時。間もなく親が帰って来そうな時間だった。


「はぁ…」

「………」


 溜め息ばかりの彼女を前にして、何か言わなきゃと思うけど口を開けない。

 困った。

 階段を踏み外さないでくれ。そんなことしか言えそうにない。


「暗くなったね…」

「ああ」


 すぐに玄関に到着。うちは豪邸じゃないから当たり前だ。

 しゃがんで靴を履くえーこを見ながら、また焦る。

 まさかこのまま黙っては帰せない。しかし…。


「ヒロちゃん」

「え?」


 ふっと、彼女が振り向いた。

 その顔は……、さっきの入場シーンよりはマシだった。


「明日風邪で寝込んだらお見舞い…」

「………」

「…………」

「…する、いや、させていただきます」

「うん」


 これで本当に風邪引かれたら土下座モノだ。

 まさかあれが原因で……なんてあり得ないよな? 医者だってそんなこと疑わないよな? 鑑定したら俺の痕跡が…………。


「…で、ヒロちゃん」

「え?、あ、はいっ!」


 気がつくと、もうえーこは靴を履き終わって、扉を開けていた。

 扉の向こうはもうぼんやりとして、植木なのか塀なのかよく見えなくなっている。本当なら送らなきゃいけないだろう。せめてあの橋までは。


「別に怒ってはないけど…」

「………」

「今は私に少しだけ時間をください」

「は、はぁ…」


 今日一番の笑顔で彼女は扉を閉めた。

 こんな時にあんなアナウンサーの真似をするのか。そのセンスに俺は多少救われた気もしたが、どちらかと言えば恐怖を感じた。

 そして階段を登りながら、俺は何度も繰り返した。

 あんなことをするはずじゃなかった。

 あんなことをするつもりはなかった。

 えーこの前では言えない台詞をつぶやいて、布団にもぐる。

 目の前には、さっきまで彼女がいたスペース。

 ………。

 とりあえず、しばらくは空き地にしておこうか。そんなことを考えて布団にもぐった。まだはっきりと感触は残っている。頬よりも柔らかいものの感触は、思い出すほどにパニックになりそうだ。でも忘れるのも嫌だ。風邪ひきの俺はワガママなんだ…。

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