補助輪からの卒業(p10)
カツカツ、響く廊下の音。
何を言ったらいいのだろう。「ずっと前から」なんて言ったら、なんだか嘘みたいだし、笑われそうだし。
笑ったりはしない…かな。そんな人じゃなさそうだから。
カツカツカツ。掃除が終わったばかりの廊下は歪んだ光を放ち、自分を惑わそうとする。
そういえば、あの人の笑ってるとこってあんまり見たことないかも。いつも一緒にいる友だちと話してる時は、ちょっとだけ笑顔だったような気がするけど。
混じっていた他の制服がなくなれば、橋が見える。
朝八時十五分。家を出て十二分ぐらい。早起きは得意だから、時間はいつも正確だ。
誰かと一緒に通う予定は、今のところない。
…本当は良くんと一緒がいいけど、まだちょっと恥ずかしい。去年の付き合いはじめの時みたいに、ネチネチとイヤミ言われるかも。今はみんな高校が違うから、そんなに心配ないような気もするけど。
やがて緩やかなカーブを二回。
ブレーキをかけるたびに、自転車は叫び声をあげる。みんなきれいな自転車ばかりなのに、自分より年上の古びたヤツに乗らされているのは不幸だと思っていた。壊してしまえば新しいのを買ってもらえると、真剣に悩んだこともあった。
…けど、だんだんどうでもよくなっている。この音さえどうにかなれば別に構わないなんて、思い始めたのはつい最近のことだ。
「おはよう!」
校門を入ってすぐ右側が自転車置き場。一番奥に停めるのは、その辺が空いてるから。そしてもう一つ……、後ろを向いて大きな木を眺めてる人がいるからだ。
「お、おう、…おはようちさりん」
「おはよう良くん」
どうってことのない朝の挨拶なのに、何度繰り返してもドモるのが不審者の良くん。しばらく夏休みで中断してたからと、昨日は言い訳してた。今日もまだ慣れない?
それでも最近は、「ちさりん」って呼ぶ時に引っかからなくなっただけマシだ。だいたい、偉そうなこと言ってる自分だって、三ヶ月前は左と右の足が一緒に動いてた。
「たまには場所を変えた方がいいと思うけど…」
「テ、…テニスコートか」
「ここより目立っても構わない?」
「………それは困る」
どっちかといえば、あまりに分かりやすい不審者ぶりをどうにかしないと……って、いかんいかん。良くんの欠点をぐちぐち言い出したらヒロピーと一緒だ。まったくあのバカときたら男のくせに、それも自分はかなりな変人のくせに、小姑みたいなこと言うから困ったもんだ。
目を合わせずに隣に立って、並ぶと肩にしか届かない自分をちょっと恨む。えーこだったら間近に良くんの顔が見れるのに…。
でも近すぎたらかえって恥ずかしいかも知れない。ヒロピーとえーこなんてどうするのか、他人事ながら心配になる。
………。
心配する自分も小姑みたいだ。やだやだ。
「地研は今日からさっそく?」
「おう」
「本当に参加していいの?」
「いい。……これで部活もさんかんになる」
「…落第」
ダジャレの腕がまったく上達しないのはともかく、新学期から自分も地研に入ることになった。じゃない。した。自分で決めたから。
自分自身がどれほどああいう活動に興味があるのか、今もよく分からない。単に良くんと一緒にいたいからだと言われれば、そうかも知れない。だけど、絶対にからかわれるだろうけど、でもやっぱり入りたいと思った。
祐子さんたちと集まって話すのは楽しい。良くんも楽しそう。それなら自分も一緒にいたいと思った。
「今日は何するの?」
「今日は……、テスト勉強じゃないか」
「賛成~」
二学期最初の行事といえば実力テスト。自分は実力がないから勉強するのだ。
ほんの数回だけ頭をなでてもらってから、二人並んで昇降口へ向かう。さすがにこんな時間にこんな場所で手はつながない。当たり前だ。
靴を履き替えて、ゆっくりと階段を昇って、教室の前まで並んで歩く。入学した時はあと三十センチぐらい離れてた。良くんのぼそぼそ声が時々聞こえなかった。
来年は同じクラスになれるかなぁ。同じ高校に入れたんだから、それ以上は贅沢? そうかも知れないけど、最近見せつけられてるし…。
「じゃ、またな」
「良くんも」
「おう」
そのうち教室でも手をつなぎかねないヒロピーには、たまに殺意がわかなくもない。自分でさえそうなんだから、相手のいない子は大変だよねー。今のところみんな好意的だけど。
なんであんなに好意的なんだろう。えーこの人徳? でも正直、ヒロピーは人気あったから…。
「おっはよー!」
「昨日見た!?」
「見た見た!」
八月の二十日過ぎはまだ暑い。冷房のない廊下から教室に一歩踏み込むのは、ちょっとだけ幸せ。すぐにチョークの臭いでかき消されるけど。
まるで門番のように自分を待ち受けるけいちゃんと、挨拶代わりにテレビの話題。いつもの定番。彼女が好きなタレントを褒めるまで、その先には進めない。もちろん自分なら難なくクリア。自慢じゃないけどテレビっ子だし。
…だけど二、三回は、ヒロピーがフリーなのか聞かれた記憶もある。それはとても不思議な記憶だ。
中学の時のヒロピーは、決して人気なんてなかった。いつも不機嫌そうな顔で、どっちかといえば怖がられていた。そして高校に入った今でも、ムスッとしてるのは何も変わってない…はず。
「なんであれしか出ないのかなー」
「ねー、あんな爬虫類顔なんか見たくないのに」
まぁ別にみんな、本気でヒロピーを彼氏にしたかったわけじゃないと思う。えーこに教室で告白したあのバカ騒ぎだって、目の前のけいちゃんは普通にうけてたし。あそこまでバカだと許せるのかも。
ともかく今日は二学期が始まって二日目。昨日は久しぶりだったのに、もういつもの会話に戻ってる。空白の時間なんて何もなかったかのように。
……そんなに難しく考えることじゃないよね。
テレビはいつもと変わらないし、けいちゃんの好きなタレントも変わってない。自分はちょっと苦手。タラコクチビルはイマイチ。その辺も一緒だ。
「…よぉ」
そうして自分の席に着く寸前、暗く沈んだ声を聞く。これもだいたい一緒。
声の主は、彼女募集中の清川勝彦。確かまだ十五歳のガキ。通称は勝ピー、というかバカピー。
ヒロピーのいない時のバカピーは、とにかく暗い。どうしようもなく暗い。まぁヒロピーだってムスッと座ってるだけだけど、勝ピーはもっと病的な感じ。
「おはよう勝ピー」
「うむ、大儀である」
「朝からなんの冗談?」
ん? 今日は案外元気だな。ぼけーっとした顔のわりにシャキッとしてる。なんか様子がおかしい。知らんぷりしておきたいけど、斜め後ろでは監視出来ないのが難点だ。
…そういえば、実力テストの後に席替えするらしい。この席にも慣れたけど、なるべく真ん中の列の後ろがいいなー。授業で当てられる順番が遅いし。
他はそのままで、えーこと交代できたら理想的。えーこはラブラブになれるし、自分は一番目立たない……と後ろを見たが、まだいない。いつも自分より五分くらい遅いから、そろそろ来るんじゃないかと思う。
「お、俺はだなぁ、大役を仰せつかったんだっ!」
「やかましい!!」
と、忘れかけていた方向から大声。仕方なく自分も大声。当然恥ずかしいけれど、出さなかったら第二弾へと続くだけ。
…こういう時に限ってヒロピーがいないから困る。勝ピーを一人で相手するのは大変なのだ。
「…悪ぃ、ちょっと興奮した」
「今のでちょっと!?」
「ほんの一瞬だったろ」
「はー」
ちょっとの意味が違う…と指摘していた頃もあった。ああ懐かしい。というか、口答えするようになったよなー、このバカ。やっぱりヒロピーの影響?
ともかく疲れる会話だ、やれやれ。
手に持ったままだったカバンを机に置き、とりあえず席に着く。落ち着け千聡。このペースに巻き込まれてはいけないのだ。
………。
…………ふぅ。
我ながら簡単に落ち着けるものだと感心してしまう。
「で、何が大役?」
「ちさりん、聞きたいだろ」
「別に」
「何ぃ!」
何度繰り返したか判らないやり取りだ。
出会って半年で、ここまでワンパターンってすごい。文字通りのワンパターンなら二度目から繰り返しなんだけど。
「とりあえず小声で」
「…………くんが……」
「…聞こえないって」
「だからハックンが熱出して休むんだっ!」
「やかましい!!」
コントじゃないんだし、同じこと繰り返させないでよこのバカ。
だいたい、どこが大役なんだ。ヒロピーだって風邪ぐらいひくでしょ。あ、でもバカは風邪ひかないから、ヒロピーがバカじゃなくなってしまう。ダメだ。
「熱って何度…なの?」
「え?」
「おはようございます」
「おはよう……っていうか、聞いてないの?」
大声を聞きつけたにしては早すぎるタイミングで、えーこ登場。相変わらずリボンが目立つ夏服で、いかにも不満顔…というより不安顔でうなづく。
「おはようえーこちゃん!」
「お、おはよう」
勝ピーは半分喧嘩腰で「えーこちゃん」だ。いつものことだけど、どこか間違ってる。ただし指摘しても無駄なのでしない。
対応するえーこも、毎度のことなので別に怯えてはいないけど戸惑ってる。勝ピーのノリは難しい。当たり前のようにあしらうヒロピーにちょっとだけ感心しないでもない。はた目には自分も似たようなもんだろうけど。
「えーこちゃんに伝言だ」
「え?」
「心配するな、寝てれば治るぜっ!」
「…………」
「だそうだ」
「はぁ」
あえて解説する気にもなれないけど、当然勝ピーは身振りを交えている。身振りというか、たぶん歌舞伎の真似らしい奇妙なポーズで静止。顔は自称爽やかスマイル。この笑顔には日本円で消費税込み千円の価値があるらしいけど、一度ヒロピーに「何ドルだ?」と突っ込まれて逆ギレした……のは、この場合どうでもよかった。
ともかくこんな悪夢のような状況を、もう何度見たか分からない。
えーこは素で硬直してる。ヒロピーも同類なのに何を今さら、と思う。そもそも、こんなバカバカしい男が身近に二人もいるなんて。
「ヒロくんの声はどんな感じ…」
「いんや、親からだった」
「ちょっと待てい!」
ともかく、それ以上の興味も湧かないので聞き流す予定だった…けど、気がつけばツッコんでいた自分。あーあ。
でも誰だってツッコみたくなるでしょ? さりげなく今とんでもないことを白状したんだし。
「じゃあ今の真似は何!?」
「ふっ、ちさりんは甘いぜ!」
「はあ?」
「あれは俺の心に響いた友の声なんだ! 真実の叫…」
「あーわかったわかった」
考えてみたら、勝ピーは最初からツッコまれたかったのだ。見え見えの罠。なのにツッコまずにはいられない自分が悲しい。
教室中の注目を集めながらチャイムの音を聞く。とりあえずこの一件はヒロピーが悪かった。あのバカが休まなければ良かった。そういうことにする。
…けど、珍しいなー。去年は一度も休まなかったし。良くんもびっくりするだろうなー。
………。
良くんに言ってないのか。最近ヒロピーが遊んでくれないから、良くんちょっと寂しいみたいなんだよなー。まぁ欠席連絡するなら同じクラスの子だろうけど。
二時間目が数学だから、その後の休みに教えてあげよう。
西日が射し込む廊下はとても静か。息を潜めても、人の気配は感じない。
立ち止まってじっと耳を澄ませば、グラウンドで練習する人たちの声が聞こえる。けれど、届くのは声だけ。ここにやって来ることはない。
目線を上げて前を見ても、三階にあるのは廊下と無人の教室ばかり。もう五時をまわったこの時間に、用のある人はきっといない。どこにもいない。自分以外には、たぶん。
…やめようかな。
一度足を止めて、だけど後ろを向く気力もないからまた歩き出す。もう何度も同じことばかり繰り返してる。
バカバカしい。
別にどうなったっていいんだ。
いつまでもモヤモヤしていたくないから。
そばに見えたものは、何でも欲しいと思った。
自分のものだけ欲しくなかった、ただそれだけ。
「……なんだって」
「休んだのか、ヒロは…」
「今日は勧誘できないねー」
「ん、…ああ」
予定通り、二時間目が終わった後に良くんのクラスへ。
良くんの席は一番前だったりするから、前の扉が開いていれば呼ばなくても大丈夫。でももうすぐ席替えだ。教室に入るのはさすがに抵抗あるし、ちょっと不安だなぁ。
「えーこから先に引き込んじゃう?」
「…いや、二人一緒にすべきだ」
「はぁ…」
自分に声をかけてくれなかったと落ち込むのは分かってるから、無理矢理地研の勧誘話にもっていく。実際、今日にでも勧誘予定だったんだし。
祐子さんや瀬場さんと一緒にやったお盆前の会は、良くんにとって一つの転機だったらしい。…かなり仰々しいけど、当人がそう言うから仕方ない。
ともかく、今までは遠慮がちに誘っていたヒロピーとえーこを、はっきり「入部させたい」と言ったのが数日前。正直びっくりした。ついでに自分も誘われて、あの二人のおまけみたいな扱いだと思ったのは、きれいに忘れた。忘れるべきだ。あぅ…。
「見舞いに行く?」
「一日ぐらいで行ったら笑われるんじゃないか」
「まー、ヒロピーはそういう奴だけど」
ともかく、思ったより落ち込まなくて良かった。人間、目標があると違うもんだねー。
………。
目標か。
自分の目標はなんだっけ? 良くんと別れないこと? 良くんとタメ口で話せるようになること? それなら、なんとか達成している。長い道のりだった。一年数ヶ月あれば、普通は別れてる。
実際、半年続くと予想した友だちはほとんどいなかったらしい。こそこそ陰口たたいてた子は当然だけど、仲の良かった子も同じ。ただ一人、長続きすると断言したのは……、残念ながら言うまでもない。
「良くん」
「ん?」
「…勝ピーは?」
「奴は入りたいと思ってるのか?」
「うん…」
こちらは良くん気乗り薄。当然だ。入部希望ったって、バカピーの目的は祐子さん。一緒に住んでる姉に会いたいなんて、シスコンにもほどがある。
でもまぁ、誘わないと祐子さんに悪いし、一応形だけは声をかけよう。枯れ木も山のにぎわいって言うらしいし。
中学に入ってすぐ、廊下で見慣れない顔に出逢った。
小学校と同じ学区だし、みんな見知った顔ばかりだったのに、たった一人初めて見た人だから、その瞬間から気になった。最初から特別だったんだ。
少し北の町から来た転校生。クラスは違ったけれど、名前なんてすぐにわかったし、もっと詳しいことだって知ることができた。あの人は人気者だったから、どうでもいい情報ならいくらでも入手出来た。
ただ、どうでもいい部分を全部省いたら、背が高くてかっこよくて、それから自分と違って無口で、自分と違って歴史が好きな男子生徒。相性が悪そうだった。
元々、男子は女子とは違う生き物だ。
小学校の頃から、男子の友達はいっぱいいたけれど、彼らの話題に乗れなくて困ったことがいくらでもある。毎日見るテレビ番組が違うし、マンガも違う。男子が面白いって言うマンガをいくら読んでも面白くない。ただ騒いでるだけだし、ガキっぽいし、だいたいどれ読んでも同じこと言ってるし、退屈でしょうがない。
相性が悪いというなら、どんな男子でも同じ。
だけど、あの人は普通の男子とも違ってる。自分は歴史好きじゃないから、分からないのは同じだけど、あの人はガキじゃないし、退屈でもないような気がした。一度も話したことないのに、そんな気がした。
……それはきっと誤解だったと思う。
コクって断られた友だちの話を聞いても、あの人の断り方は違うなんて思ったんだから、ちょっと自分はおかしかった。男子とつき合いたいって話ばかり周りで聞かされたから、自分もなんだかそんな気になってた。
それがものすごく面倒でしんどいなんて、気づくはずもなかった。
「ちさりん、一緒に食べようよ」
「おっけー」
平穏な午前中が終わって、昼休み。
お弁当を一人で食べるのは消化に悪いので、必ず誰かと一緒。今日は何もなければこのままバカに囲まれる予定だったけど、さすがに勝ピーと二人で向き合っては食べたくない。誘われるままに友だちの席に移動した。
良くんと食べるのは週に一度と決めてある。あんまりクラスの中でつき合いが悪くなるのもまずいし、相手が良くんだからいろいろ大変なのだ。
…………。
一人で自慢してるようじゃヒロピーと一緒だ。やだやだ、自分の方が先輩なのに。
「でもさー、ちさりん」
「んー?」
「山際君がいないと寂しいんじゃない?」
「なんで!」
思わず机を叩きそうになった。
というか、すでに叩いてしまったのだが。
「やっぱ男がいるといいよねー」
「あんなのでもいいわけ?」
普通に返答してしまったが、どこかおかしい。なぜ彼氏の良くんじゃなくて、単なる友だちのヒロピーでこの話題なのだ。理不尽理不尽……と卵焼きをかじる。
うむ。
我ながら上出来。今日もごはんがうまい。
「山際君はけっこういいと思うけど?」
「そう?」
「えーこに取られちゃったけどさぁ」
聞き飽きたセリフに適当な相槌を打ちながらの昼食。本当にヒロピーとつき合う勇気があるの?、とツッコミ入れるのもいい加減に飽きた。
しつこいけれど、こういう話題はヒロピーの相手にしてほしい。まぁいいんだけどさー。
「誰か彼氏になってくれないかなぁ」
「誰でもいいなら紹介す……」
「清川君はダメ」
「まだ言ってないのにー」
一応あのバカの彼女候補を探す約束になっているから、みんなに聞くだけは聞いてみる。残念ながら、誰も本気にしない。勝ピーという名前はイコール冗談なのだ。
それにしても、なぜヒロピーは良くて勝ピーはダメなのだろう。謎……なんだけど、自分も問われたらそう答えそうな気がする。なんだろうなー。
ごはんを食べ終えて自分の席に戻る。斜め後ろに今話題の勝ピーがいないことは、教室の誰もが知っている。なぜなら廊下側から、どう考えても高校生とは思えない――というより人間かどうか疑わしい――叫び声が聞こえてくるからだ。
勝ピーのプロレスって全然分かんない。ヒロピーのネタは何とか分かる時がある。その辺の差なのかな。ま、自分にはどうでもいいけれど、それが理由なら絶望的だ。
「えーこ、ちょっとお茶しない?」
「……昇降口で良ければ」
とりあえず深刻に考えるだけ無駄なので、もう少し生産的な活動に移る。
教室の後ろで、朝から分かりやすく元気がないえーこ。誰が見てもどうでも良くない奴を慰める。とっても生産的だ。
それにしても、ヒロピーにここまで入れ込めるってのは、素直にすごい。あのプロレス男の馬鹿騒ぎだって、えーこの目にはまるでヒロピーがいない空白を埋めようとするかのように映るかも知れない。寒っ。冗談じゃなさそうに思えてきた。
「昨日はなんともなかったのにねー」
「…ちょっと声がおかしかった」
「そう?」
「たぶん」
昇降口の自販機でアイスコーヒー。さりげなく蝉の声も聞こえる。まだこんなに暖かいのに、わざわざ風邪をひくとは器用だ。
「テスト前なのに…」
「あさってまでには治るんじゃない?」
「だったらいいけど…」
ただでさえ衛生的とは言えない昇降口が、カビで覆われていくような空気。暗い顔で身をすぼめるえーこはとにかく辛気臭い。
しかも消え入りそうな小さな声とは言っても、でっかい体なのだ。妙な迫力があってどうにも扱いが難しい。
「じゃあえーこ」
「え?」
難しいのでまぁ慰めるのはやめておく。
だいたい、一日休んだだけで何を慰めるというのだ。
「見舞いに行ったら?」
「……どこへ?」
もっともふさわしい解決法を提案した……はずなんだけど、えーこは返答しながら顔色を変えてしまった。今時こんな反応する人間がいるなんて。
……………。
去年は自分も似たようなものだったなー。男子の友だちが何人いても、彼氏は別だ。それに、良くんの家に初めて行ったのは今年のことだ。同じじゃん。
「そんなに緊張しなくてもいいと思うよー」
「はぁ」
「ヒロピーだし」
「まぁ…」
そういう意味では、自分が励ますのも偽善者っぽい。まぁそれでも、ヒロピーには面倒くさそうな顔で応援された過去もある。からかい半分で勧めるぐらいいいでしょ。
えーこはスイミングアイしっぱなし。とりあえず、落ち着くまで黙ってみた方が良さそうだ。それに自分もアイスコーヒーに口付けてなかった……。
一口飲んで、ふっと息を吐く。
正直言うと、それほどコーヒーは好きじゃない。良くんがやたらと好きだから仕方なく飲んでみるけど、ちょっと苦い。
苦いって顔するとヒロピーにバカにされるから我慢しなきゃいけないのも困るよねー…と、ここで言ったら冗談になるんだろうか。興味はあるけどやめとこ。
「ちさりん」
「なぁに?」
振り向いた先のえーこは、ようやく視線が動かなくなったみたい。
そのかわり、ちょっと血走ったような目なんだけど…。
「ヒロくんの家、知ってる?」
「あ、知らなかった?」
うなづく表情が微妙だ。なんかちょっと、ピンチかも知れない。
というか、なんで教えてないのよヒロピー。近所なんだし今さら隠すようなことかって。はぁ~。仕方ない。
「じゃあ一緒に行こうか?」
「……どうしよう」
「放課後まで考えといて」
もう一度うなづくのを確認して、まずいコーヒーを飲み干す。あ、まずいじゃないや、ちょっと苦くて飲みにくい……って、やっぱまずい。
「あ、それとねー」
「え?」
「今日から地研に入ることにした」
「………」
えーこはふらふらと階段を登っていってしまった。一応迷っているんだろうけど、行かないはずはない。小心者っぽく見えるだけでかなり大胆な性格だし。今のうちに良くんに断っておこう。
「…なので三十分ぐらい遅れると思う」
「分かった」
「ところで良くん」
「え?」
とりあえず良くんはえーこより背が高いと確認したら、急に思い出した疑問。
「今日は何の勉強?」
「…数学だ」
「数学?」
それ以上口にしようとして、慌てて思いとどまった。
数学は確かに自分の苦手教科だから、勉強しなければならない。けど、自分の記憶が確かならば、良くんもかなり苦手だったはず。今日はえーこもいないし、二人で果たしてまともな勉強になるんだろうか。
…………。
とっさの作り笑いで良くんと別れた。まぁどっちにしたって、範囲の決まってない実力テストなんだから、いい先生役がいたとしても変わらないかも知れない。極力ポジティブに考えることにする。
男子とつき合いたい。そんなことを初めて思ったのはなぜだろう。
小さい頃から友だちはいっぱいいた。クラスの全員と仲良くするのが小学生の時の目標で、だからクラス替えしたら一ヶ月以内に全員と話をした。今でもそれは変わってない。誰かをひいきして、誰かを遠ざけるのは悪いことだ、と思う。
それなら、誰かを特別に好きになるのは間違っている? よく分からない。誰も嫌いにならなければいい? だけど、それって本当に出来るのかな。
誰かが特別になるってどういうこと?
たとえば自分に自転車を押しつけた父親。
たとえば唐突に電話をかけてきて、昔話ばかりする姉。
そんな家族は……、やっぱり「ひいき」だった?
友だち百人作ったら、次は千人。
千人の次は一万人。
きりのない話。
あるようでない目標。
きっといつかは挫折する。
それならせめて、前向きに挫折出来たらいいなー、なんて。
あの人のことを紹介してほしい、と頼んだ自分が、そんな立派な理由を考えていたなら、今ごろどう変わっていたのかな。
今よりもうまくいってた?
…それとも、ダメなままの自分が最善の選択だった?
午後の授業も隣は空席。たとえ昼までに治っていても、せっかく休めるなら休むのが得なのだ。あの計算高いヒロピーが顔を出すはずがない。
……治ってないかも知れないけど。
「鎌倉幕府の元で各国には守護と地頭が……」
それにしても、午後の日本史は眠気を誘う。
いつも一方的に教師がしゃべるだけだから、緊張感がないというのも確か。それに、苦手じゃないけど好きというほどでもない。どうにも中途半端なのはいけない。
………。
良くんと一年以上つき合っても、変わらないものは変わらない。
一年前は変えようと焦ってた。良くんとヒロピーの会話についていけなくて、三人の中で自分は落ちこぼれだったから。そのことをヒロピーに愚痴ったら、「良は無視されなかっただけで感動してる」と、慰めなのか分からない返答だった。
………。
今にして思えば、なんでヒロピーに愚痴ってたのか不思議だ。もちろん、つき合ってる話を女子の友だちに話すのは気がひけたんだけど―――。
「北条氏は次第に他の御家人を滅ぼし……」
問題はむしろ、ヒロピーの返答が慰めどころかそのまんまの真実だったことなのだけど、まぁそっちは深く問わないでおこう。
さて、と。
放課後はまずえーことお出かけ、か。いかに短時間で済ませるかが勝負かな。二人とも自転車だし、ヒロピーの家は近いから、行くだけなら五分とかからない。けれど、出発までと対面後は予測不可能。
不可能? そんなことないか。
えーこはあんまりウジウジしないタイプだし、ヒロピーが顔出したらそのまま置いてくればいいよねー。正直、心配のしがいがなくて物足りないぐらいだ。あーあ。
嫉妬の視線を初めて感じたのは、つきあい始めて半月後だったと思う。
それまで無かったのが不思議だったけど、どうやら単に信用されてなかったらしい。どうせならそのまま信用しなきゃ良かったのに。
だいたい、自分でも謎なのだ。本当につき合っているのか。
生まれて初めて告白なんてことをした半月前。
一応、文面は徹夜で考えてメモって来たけれど、本番ではすっかり忘れてた。何を話したのか覚えてない……のに、なぜか拒絶されなかった。
拒絶されなかったから、つき合う? そこがよく分からない。だって、承諾という意志表示を受けた記憶もなかったから。
はっきりしているのは、あの人の友だちが「承諾だ」と言ったこと。それからの半月、何もかもその友だちの決めたレールの上だ。これをつき合ってるって言うんだろうか。
だけど本音をいえば、この状況は嫌じゃなかった。
気むずかしい相手といきなり二人きりになるよりは、間に理解者がいた方がいい。その理解者もどっちかといえば気むずかしいタイプ。でも案外話しやすいし、実際彼のことをよく知っていた。彼の言う通りにしていれば、何とかなりそうな気がした。
でもそれはグループ交際とか、「友だちから始めましょう」じゃない。
自分勝手な逃げ道。利用出来るものを利用してやろうっていう、腹黒い魂胆。誰かが特別になることはこういうことだった? よく分からない。
分かってしまったのは、あの人だけを特別には出来なかったこと。特別な存在が二人増えた。それだけ。
気がつけば放課後。
夏休み明けにいきなり六時間の授業はきつい。すっかり居眠りしていた。
「えーこ」
「え?」
「案内するわよー」
「………」
自分も寝起きだけど、それ以上にぼんやりした顔のえーこが、ノートを閉じる手を止めてこっちを向いた。
とりあえず、聞こえてないわけじゃなさそう。
「返事は?」
「…よろしくお願いします」
「おっけー」
ま、緊張するのは当然だろうけど、どうせこの時間ならバカ一人しかいないはず。
え?
バカ一人だから危険だって?
「ちさりん、…地研は?」
「遅れるって言ってある」
「初日なのにごめん…」
「どうせ置いて帰るだけだしー」
「………」
思わず意地悪い顔で笑ってしまった。えーこはちょっと難しい顔してるけど、今さらそんなことで気後れされても困る。
それにヒロピーはクソ真面目だからねー。自分の部屋で二人きりなんて状況じゃ、ガチガチになって風邪も悪化するんじゃない? 最初は。
二度目はヤバいかも。あっという間になじんじゃうから。
「何も用事ないでしょ? すぐ行くよー」
「……はい」
さっさとカバンを持って教室を出る。こういう時は考えさせないのが一番だ。
昇降口まで先行して、自転車置き場でえーこを待つ。すぐに追いついたその顔は、多少は緊張してるけどそれ以上に慌ててる。よしよし。
「全然知らないの?、場所」
「…だいたいの方角なら」
そもそもこの辺の地理にうとい、と言い訳するえーこ。そりゃまぁ、中学で同じ学区だった自分と一緒にはならないか。
校門から左に折れ、川と反対側に進む。少し広い道に出て、やがて小学校が見えたら左折。そのまま真っ直ぐ進む。
「よく覚えといてよー」
「………」
あえて後ろは確認しないで進む。どうせ真っ赤だろうし。
小学校の下校時間はもう終わってるから、別に人通りが多いわけじゃない。車もそんなには来ない。おかげで自分の愛車のチェーンがガリガリ響いている。せめてもう少し音が目立たなきゃいいのに。
小学五年ぐらいまで、子供用の小さな自転車に乗ってた。だけど、補助輪無しでも乗れるようになったら、もっとちゃんとした自転車がほしくなって、親にねだった。当然それは、新しい自転車がほしいという意味だった。
なのに父親は、埃をかぶってたこの自転車を引っぱり出してきたのだ。自転車屋に修理に出して、それでもこの音だけは治らなかった。
「ストップ!」
「え?」
「ここだって」
「あ…」
つまらない昔話を思い出してたら、危うく通り過ぎるところだった。
特徴のない二車線歩道付きの道路に、これまた特徴のない車庫が面している。そこに表札はない。生垣の奥の玄関まで行かないと、誰の家か分からない迷惑な構造だ。
「えーと、あの………、ありがとう」
「早く行きなさいって」
「………」
えーこは渋々お礼の言葉を口にしたけれど、動く気配がない。自転車から降りたそのままのポーズで、その上かなぁり情けない顔でこっちを見てる。
図体は大きいのにこういう時は気が小さいなぁ、まったく。
「玄関まで一緒に行こうか?」
「あのー、……よろしく」
「言っとくけど、どうせ病人一人だからね」
まぁでも、えーこの役に立つのは悪くない。借りを返した気になれる。
ともかく、車庫のそばに自転車を止めて突入する。手入れされてるのか分からない庭を見て、あっと言う間に玄関に到着。豪邸じゃあるまいし、時間がかかるわけはない。というか、最初から見えてるし。
久々に立つ山際家の玄関。今度は表札もあるし、間違ってはいない。
インターホンの前に自分が立って、隣に主賓を立たせる。えーこは無理矢理作り笑いしながら、じっとインターホンの辺りを見ている。別にそんなとこを見たって意味ないと思うけど、この場でツッコミ入れるのはさすがにやめておく。
まぁ何を隠そう自分だって、初めてここに来た時は緊張したのだ。はーっきり言って、家でもあのまんまだけどね。
「準備はいい?」
「…はい」
何の準備なのだろう。えーこの返事を聞いたら笑いがこみ上げて、そのまま無造作にインターホンを押した。
………。
反応がない。
仕方ないなぁ、と二度、三度。このまま逃げようかな、えーこだけ残して。
「…寝込んでたら出られないんじゃ」
「そんな病状でもないでしょ」
「はぁ」
病状の推測に根拠はない。知っているのは、元々ヒロピーの部屋は二階だから時間がかかるだろうってこと。その上、インターホンはおじいさんが騙されて取り付けただけで、ほとんど使ってないという話も聞いた記憶がある。
ぼんやりと二人並ぶ。
相変わらずの蝉の声。良くんはいつも褒めていた。来るたびに褒めるのがちょっとおかしかった。
「はい、どなたで…」
その瞬間、戸が開いた。
別に鍵はかかってなかったみたいなので、わりと突然の出来事だった。
「こ、こんにちは」
「……いやその、………こんにちは」
しかし、いざ出会ってしまえば一瞬にして二人の世界。自分はこの場にいないかのようだ。
初々しいって言えばそうなんだろうけど、なんか複雑。というか…。
「何そのカッコ」
「し、仕方ねーだろ。……寝てたんだし」
「元気そうじゃん」
「いーや、まだ全般的にだるい」
確かに声が少しおかしい。それに動作も緩慢。そっちはまぁ、今起きたからってだけかも知れないけど。
パジャマのまま突っ立っているヒロピー。頭はいつもより五割増しぐらいの寝癖。頬はちょっと赤い。これは熱のせいなのか照れてるのか微妙だ。
対するえーこは、もうまったく緊張してないみたいだ。あまりに予想通りの出現だったから? 深く考えるのはやめとこう。恥ずかしくなりそうだし。
「じゃ、あとは二人でねー」
「あ、ありがとうちさりん」
ともかく自分の仕事は終わったのでさっさと逃げるぞ。
このまま居たらどんどん恥ずかしくなる一方だ。
「……送ってくれたのか」
「治ったらお礼してもらうからね」
「お礼?」
「良くんの言うこと聞くように」
「ふぅむ…」
さりげなく地研に入れと呪文をかけて、さっと別れる。
今日のヒロピーでは理解出来ないかも知れないが、良くんが誘おうとしてることぐらい、えーこだって気づいてるはず。明日にでも自主的に入部してもらわなくては。良くんに任せるのは危険だ。一時間ぐらいは本題に入らない可能性がある。
………。
…………。
でもそろそろ、良くんを甘やかすのはやめないとなぁ。ヒロピーもこれからは世話焼けないんだし。やっぱり自分でどうにかしないと。
つきあい始めて二ヶ月。
相変わらずギクシャクしてるけど、嫌われてないことは何となく分かってきた。ただし好かれてるのかは疑問のままだ。
もう一つ、疑問があった。あの人――せっかくだから良くんと呼ぼう――の友だちのこと。間違いなく一番仲がいいはずなのに、良くんは友だちのことをあまり知らないように思えてならない。「初めて聞いた」って台詞を何度耳にしただろう。二ヶ月前に初めて話した相手のことなんだけど。
これにはかなーり困った。
話題のない時には友だちの話をして、何とか場をもたせようと思っているのに、却って会話が冷え切ってしまう。だからって自分のプライベートは切り売りしたくない。というより、どうせ自分のことなんて興味ないだろうと思ってた。
ある日、勇気を出して良くんに聞いてみた。
図書館で一緒に本を読むようになったのはいつなのか? 初めてのまともな質問だ。
良くんは少し間をおいて、一瞬こちらを見て、ぽつぽつと話し始めた。そのペースはゆっくりで、だけど長かった。たっぷり一時間はかかったと思う。
おかげで随分マニアックなことまで聞かされた。とは言っても長かった本当の理由は、なかなか本題に入らなかったから。自分相手だと話しづらいんだな、と少し落ち込んだ。今にして思えば、単なる良くんの癖だったんだけど。
……………で。
よく分かったのは、良くんは友だちとプライベートな話をほとんどしてなかったという事実。正確にいえば、良くんのプライベートは一方的に話題になっていた。告白されたらいつも相談していたらしいことは、薄々気づいてたけど。
良くんは友だちの個人情報をあまり知らなくて、だけど友だちの方はよく知ってた。そしてあの友だちは、自分が紹介を頼んだ時も勝手に一人で決めてしまい、良くんにはいつもの不機嫌そうな顔で、「明日会ったらとりあえず普通に話せ」なんてアドバイスしたらしい。
そして実際に出掛けて自分がいるのを見た良くんは、あの男は女子にも顔が利くのかと驚いたんだって。慌てて作り笑いはしたけど、返す言葉がなかった。
引き返す道の途中で、クラスの子と二度すれ違った。
びっくりして、事情を尋ねてくるのは向こう。まぁ当然だけど、正直に答えてしまうと明日が大変だから、「ちょっと用事があって、今から地研に戻るとこ」とごまかしておく。嘘はついてないし、こう言えば必ず「地研?」と聞き返してくるだろうし。
地研に入ることは、まだほとんど誰にも話してない。別に知りたい人がいるとも思えないけど。活動してなかったんだし、普通は名前すら知らないはず。
「失礼しまーす」
「おう」
ヒロピーとえーこが入って、とりあえず四人。勝ピーも紛れ込んだら五人。でも、それ以上に増やすつもりなら、ちゃんと活動するのが先だ。
だいたい、地研がいったい何をする部なのか、自分にもまだ答えられない。
「ごめんなさい、ちょっと用が……って、何?」
「早かったな」
「早かった……はいいけど、あれはー」
「なんだや、うるせのや」
ともかく部室に足を踏み入れる。一応入部初日だし、わりと勇気のいる行動だったはず……なんだけど、目の前にはちょっと予想と違う状況が広がっている。
指差した先に、ジャラジャラと鳴るギター。
何? ここは古くさいフォーク研究会?
「えーとなぁ、ショーも入部することになった」
「えーーーっ?」
「なんだやおめ、変だ声出すな」
「変な声はアンタでしょ!」
叫び終わった時にはだいぶ冷静になっていた。どうせなら叫ぶ前に冷静になりたい。
当たり前のように定位置に座ってるショーは、いつもながら何事もなかったような顔でギターを置き、カバンに手を突っ込んだ。
「おめも入んなだが」
「んだ…じゃない。当然でしょ!」
「まんずごげんなや」
取り出されたのは数学の教科書。そうか、今日の先生はこいつだったのか…と、急に現実に引き戻される。
それにしても……。
自分で言ってはみたが、自分の入部は当然のこと? ショーは何も知らない人間じゃないからなぁ。だんだん恥ずかしくなってきた。
「じゃあ始めるか」
「はーい」
そのまま数学の復習の時間に突入する。新入部員が二人も入ったなら、普通は自己紹介とか部長の挨拶ぐらいありそうだけど、何もしそうな気配がない。
もちろん、今さら自己紹介するような顔ぶれじゃないのは確か。けど、部長の挨拶はほしかった。これからどんな活動するのか、良くんの口から言ってくれないと頼りなさ過ぎて…。
「なしたー、あど出来だんがー」
「まだやてね」
「んだがや」
まぁいいや。この時間にウジウジ考えても、嫌いな数学から逃避してるだけ。やるだけやろう。
良くんの友だちとは、中三のクラス替えで一緒になった。彼に紹介を頼もうと決めたのも、それがあったから。何しろ毎日のように良くんが顔を見せるのだ。
この友だちは、良くんが好きだって子の間ではあまり評判がよくなかった。良くんに話しかけようとして邪魔されたって聞かされたことは何度かあった。自分がふられたのは彼のせいだと言ってた子もいた。さすがにそれは同意し辛かったけど、良くんと仲良くなるなら、避けられない相手には違いなかった。
まずは観察から。良くん以外の友だちとは……、思ったより普通に話している。
授業中は……、クラス一の秀才ではないけどバカでもない。
あの不機嫌そうな顔は……、単にそういう顔ってだけなのかも。そうして出た結論は、友だちになれるかは分からないけど、危険人物ってほどでもないという、割とどうでもいいものだった。
とはいえ、難関だと思っていたのがそうでもなさそうってことだから、大きな前進だ。無駄に盛り上がってしまって、そして思った。今のうちに告白してしまおう、と。
今にして思えば、なぜ焦って告白したのか不思議だ。
自分はそこまで良くんが好きだったんだろうか。ただぼんやりと、かっこいいって思っていたかっただけなのに、勢いで余計な一歩を踏み出してしまったんじゃないか。
………。
少なくとも、勢いがついた理由が良くん以外のことだったのは、まずかったと思う。あくまで「こいつを利用してやる」ってつもりなんだけどねー。
放課後。良くんと落ち合わないのを確認して、教室を出ようとした彼を呼び止めた。
「あぁ?」
見るからに不機嫌そうだったが、今さら気にしてもしょうがない。いつもの顔だと自分に言い聞かせながら、「良くんのことを聞きたい」と口にした。
今になって思い出すと、かなり赤面モノだ。相手が相手なのもあるけど、質問の仕方があまりにストレート過ぎ。でも自分はそれぐらい盛り上がっていた。そして、彼の返答も良かった。
「教えてもいいが、たぶんつまらんぞ」
ボソッと言い放たれたけど、それから良くん情報を三十分以上も教えてもらった。告白するとは一言も言わなかったのに、良くんの癖とか嫌いな態度まで教えられたのだ。
………。
バレバレだけどね、そりゃ。
その日に限らず、彼は妙に好意的に接してくれた。
良くんと「とりあえず」つき合うことになってからも同じ。何かと世話を焼いてくれたし、いつの間にか毎日教室でしゃべるようになった。そして、彼が不機嫌でも怖い奴でもないことを知ってしまった。
………もしかして、自分に好意をもってる?
いつしか疑念が生じていったのだ。
「なんだやまだ間違たんがー」
「うるさい、ちょっとしたミスでしょ!」
気がつくと時計は六時近くになっていた。
時間の経つのも忘れて数学に没頭…するわけはないけど、解けないからそれなりに必死だ。予定された活動時間はあっと言う間に終わった。
良くん…ではなくショーの一声で終了。
ギターバカが今日の先生だったからしょうがないけど、活動初日から目立たない部長がちょっと悲しい。これでヒロピーやえーこが加わったら、普段の活動でも目立たなくなりそう。みんな仕切り屋だし。
「明日も数学?」
「英語でもせばいあんねが」
「…あ、ああ」
まぁあの二人はそれなりに遠慮するだろうけど。
ともかく片づけてさっさと部室を出る。もっと活動すべきだって? 少なくとも自分は寝てしまうから無理。
「ところで良くん」
「…なんだ?」
「テストの後は何するの?」
「本を読む」
「ふぅん…」
ショーと校門で別れて二人っきり。そろそろ頭撫でてほしい気分だったりするけど、良くんはカバンをあさっている。
やがて取り出されたのは一冊の本。何とか新書で、かなり古くさい。良くんは無言のまま、こちらに差し出した。
そりゃまぁ、言われなくとも「読め」という意味なのは分かる。でも、もう少し何か説明があってもいいような気がする。
「文化人類学入門?」
「…祐子さんに勧められた」
「ふぅん」
あまり興味はわかないけれど、渡されてしまったのでとりあえずぱらぱらめくってみる。
………。
カビくさい。そして文字が小さい。中身は知らないが、自分の勘では難しそうだ。
「嫌か?」
「読まなきゃ分からないと思う」
「そうか」
どっちにしても、今日明日に読む余裕はないから、そのまま返す。受け取った瞬間の良くんは、ちょっと寂しそうな顔。むー。
まさか「きゃー楽しみぃー」とか言ってほしかった? それはどう考えても無理。そもそも、どんな内容なのかまったく聞かされないのに、反応だけ求められるのがおかしい。二学期から正式に部長なんだから、もっとしっかりしてほしいなぁ。
「ヒロはどうだった?」
「少し鼻声だった」
「歩けたのか」
「もちろん」
とはいえ、人には得意なことも不得意なこともある。今の良くんに理想の部長を求めるのは最初から無理。長年一緒に図書館まわってたヒロピーがいた方が安心出来る。えーこもきっと頼りになる。ついでに、あんまり認めたくはないけれど、テスト勉強の先生役ならショーも頼りになる。
「あの部屋に入ったのか、えーこちゃんは…」
「嫉妬?」
「だ、…だれが」
「良くん慌ててるー」
どうしても一人だけ名前が挙がらない哀れな勝ピー。強いて言えば、祐子さんを呼ぶための人質? うーん、いくら考えても取り柄はまるでなくて、欠点なら山ほど思いつく。こんな奴の彼女を捜すなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
まぁそれでも、彼女相手にプロレスするわけじゃない…だろう、たぶん。
「明日登校してきたら誘っていい?」
「い、いきなり勧誘か」
「入部のお誘いじゃなくて、とりあえずテスト勉強しようって」
「あ、ああ」
勝ピーのことは考えても不毛なので置いておく。まずはあの二人だ。
それにしても、この期に及んでも良くんは「ヒロピーを誘うのは気が引ける」って言い出しかねない感じに見える。よく分からない遠慮。こればかりは一年半経ってもまるで変わってない。
………でも、少しは変わったかな。
「部室に連れて来た方が説得しやすいでしょ?」
「…まぁ、たぶん」
何の自慢にもならないが、ヒロピーという名は自分がつけた。実はこれ、男子につけた初めてのあだ名だ。それも最初はあだ名というより、怒鳴り散らした名前だった。
なぜ怒鳴ったかって? 良くんのことを全然分かってないと、あのバカに怒鳴られたから。お前はなんてバカなんだと罵倒されて、カッとなった自分はあの名を叫んでいた。
「勧誘は部長がやって」
「お、おぅ…」
「たぶんねー、えーこから攻めた方がいいと思う」
「………」
もちろんそれが励ましのつもりだったことは分かっていたけれど、腹は立つ。つき合い始めたら、あとは自分と良くんの問題だ。第三者にとやかく言われる筋合いはない。そう思った。
…けれど、ヒロピーは本当に第三者だったんだろうか。良くんのことを考える時は、いつもヒロピーがセットだった。三人でなければ続かなかったことに、三人とも気づいていて、だけどヒロピーはそれを変えようとしてた。なぜなら、このままうまくいったところで、それはただの三角関係だから。
自分だって分かってた。良くんが特別な存在になって、だけど同時に山際博一も特別になった。それはたぶんまずいんだ、と。
だから特例であだ名をつけてやった。当人はどう思ってるか知らないけど、これは感謝の気持ちだった。勝ピーも自分が付けたから、今では何のありがたみもないけどねー。
「ヒロも彼女に頼まれたら断れないのか」
「良くんも?」
「いや、その…」
ふと気がつくと、隣では無表情を装う良くん。装ってはいるけど、苦し紛れに手ものばしている。今は夕陽がまぶしいから、何となく自分も大胆になって、手をつないだ。
でもここは近所の高校の正門近く。いくら下校時間を過ぎていても、見られないはずがない。これじゃあヒロピーみたいだ。
「熱っぽいのにシャキッとしてたよ。えーこを見たら」
「そうか」
「良くんもシャキッとしてくれる?」
「……そうだな」
けど、照れてる良くんがかわいいから、思わず握った手に力を込めてしまう。最近あまり隠さなくなったのもちょっと嬉しい。つき合ってるって感じがする。
……ヒロピーと三人だった頃は、こんなことは出来なかった。誰だって、第三者が一緒なら遠慮するだろう。表向きはそんな理由だった。
もちろん本当は、自分にとって特別なのが良くんだけなのか、いつも疑問だったから。ヒロピーと手をつなぎたくはないけど、ヒロピーの前でつないではいけない、と。
あれってやっぱり二股だった? でも堂々と三人でいるんだから違うよね。むしろ、つき合ってないというのが正確かなぁ。
「ここでいいよ」
「そうか……、気を付けてな」
「良くんも」
まぁいいや。面白いから二股ってことにしとこう。どうせ困るのはヒロピーだし。
大通りの交差点でお別れ。自分の家はここから左折、良くんは右折。きれいに逆方向なんだから別れるのが当然だけど、素直に良くんが帰るようになって、まだ二ヶ月だ。
去年の五月末に初めて一緒に帰った時、良くんは家まで送ってくれた。その時は、良くんの家がどこなのか知らなかったから、別に違和感はなかったけど、無駄に遠回りしていることはその内分かった。
遠回りと言っても自転車なら往復十分以内だし、彼氏なら何もおかしくないって? 学校から家まで、下手すると一言も話さない。しかも毎日通ってる道で、「車が来た」とか親切に教えてもらっても? まるで先生に引率されてる気分。
「明日も数学?」
「他にした方がい…」
「あの二人を誘うなら数学」
「……そうか」
まぁそんな昔の話はどうでもいいや。目の前にいるのは先生じゃないし。ヒロピーとえーこなんて校門から逆方向でかわいそうだなー、なんて同情するほどの余裕だってある。とてつもない変化だ。
きっかけははっきりしてる。あの川辺のお祭りが終わって、良くんは無駄な心配をしなくなった。急に理想の彼氏になってしまった。
………。
心境の変化そのものは、自分にも理解出来なくはなかった。だけど、なぜ自分にも理解出来てしまうのか、よく分からない。その辺は今も同じ。
「じゃあ明日」
「おう」
「ちゃんと考えてきてね」
「え?」
最近、一つだけはっきり自覚したことがある。心のどこかで自分は良くんを疎ましく思っていた。ヒロピーだったら楽なのに、良くんが相手だからうまく行かないと、全部相手のせいにしていた。そんな過去。
…過去?
思い通りにならないのはすべて相手のせいにしてた。学校の成績も、古くさい自転車すらも、ずっと昔から。
「行き当たりばったりで誘える?」
「お、おう…」
ある日突然自分が天使になったわけじゃない。今だってダメなものはダメ。
ただ、それを認めないように逃げ回っても仕方ない気がした。怯えてる自分は、きっと可愛くない。
「ダジャレは一人につき一回」
「それは少な…」
「真面目に誘うんだから一回でも多いと思う」
「…た、確かに」
そう気づいたのはえーこのおかげだったかも知れない。けど、本当はツルさんに話しかけられた時だ。ツルさんの声に、最初は構えていた自分が恥ずかしかった。
……ツルさんは、たぶんもう一人の自分。
だからゴロウは良くん……なのかなぁ。確かに良くんの好きそうな話だったけど、ゴロウにとっては別に歴史でも民俗でもないし。
でも二人で船を造る時は、なぜだか盛り上がってた。馬鹿馬鹿しい発泡スチロールのままごとで、意味もなく興奮してた。自分も、そして良くんも。
だからきっと良くんはゴロウなんだ。そういうことにしておけ。
「げ、原稿作ってくる」
「え?」
「明日の朝、読んでチェックしてくれ」
「…………おっけー」
苦笑いしながら良くんと別れ、暮れかかった道を急ぐ。饅頭屋の前を過ぎて左に折れて、あと少し。
この道を二人で帰ることなら、これからだってあると思う。けれど三人はありそうにない。風邪引いてもあれだもんなー。思い出しただけでも赤面モノだ。
まぁいいんだ。
所詮ヒロピーはスペースシャトルの補助ロケット…じゃ立派すぎる。そうそう、自転車の補助輪。だから一人前になった日には、もう必要がなくなる。えーこが奪ってくれて良かった良かった。
……って、奪われたなんて言っちゃダメじゃん。
「ただいまー」
「なんだ遅いなー」
裏口の戸をくぐったら、植木に水やりする父親がいた。やっぱり遅かったか。
これから毎日こんな時間になりそうだ。一応親にも断っておかないとまずい? でも六時に帰るぐらいでそれって過保護だよねー。
「部活に入ったから」
「晩飯までに帰れよ」
「帰ってるじゃん」
今晩は十一時からいつものテレビ。古くさいハンサムの勇姿を記憶に納めて、明日の朝のネタにする。
毎日毎日、テレビとプロレスとイタコと地研の話題につき合う自分は、ものすごく器用なのかも知れない。思いついた瞬間に馬鹿馬鹿しくて泣けてくるような結論とともに、自転車を降りた。
もしもこのくだらない妄想を自転車が覚えていたら?
最近、新しい自転車に興味がなくなったのは、そんな理由なんだと思う。とりあえずお腹空いたなー。




