誕生
すっかり狭くなった宴会部屋で、俺たちは改めてそれぞれの位置を確認する。
黒ずんでなんだかよく判らない掛け軸の側が、たぶん上座。しかし長テーブルは、そういうしきたりを無視する形で置かれていた。どう並べばいいんだ……と悩む間もなく、祐子さんはちょうど中央の位置に座った。
祐子さんはこの場で一番偉い人だから中央がふさわしい。というより、これからの活動で恐らく一番しゃべる人を中心に据える。まぁ当然の話である。
中心が決まれば、あとは早い。祐子さんの向かいは良。その左隣に千聡。まぁこれも定石だ。ちさりんの隣は出入り口に近く、この場で一番下っ端の席。しかしそこには何の迷いもなく勝ピーが座った。丁稚の血が染みついている…のではなく、単に隅に座りたかっただけと思われる。
良の右隣はショー。そして祐子さんの右隣にえーこ、その隣は勝彦様と向かい合う俺だ。俺は一応、この場の端役を自認している。どちらかといえば、端役じゃないと困るって感じだから、正直言って勝ピーの同類である。
瀬場さんは空いていた一席、つまり祐子さんの左隣に腰をおろす。良と同じ並びでは質問し辛いし、瀬場さんも祐子さんの隣がいいに違いない。うむ、大いなるおせっかいだ。
「瀬場さん、また泳いだんですか?」
「バカ言いやがんな、あんな軟弱な…」
「ちさりーん、無駄な質問しないで」
久々に会った瀬場さんは、海に行ったかはともかく、かなり焼けていた。テカテカ黒光りする額が気になってしょうがない。正確には額と呼んでいいのかも微妙だが、そこはまぁ忘れるべき点だろう。確か日焼けが嫌だったと聞いてたけど、今は違うんだろうか。
「このハゲはねぇ、最近気づいたの」
「な、何にですか?」
「シチーボーイも日焼けするってこと」
「…………」
「は…はは…」
祐子さんは誰も笑えない冗談が好きな人だ。俺も吹き出しかけたがそこで押しとどめ、なんとなくショーを見た。いや、密かにこの場の視線は奴に集中していた。たぶんシチーボーイといえばモボショーという安直な発想故である。もちろん自分もそんな一人だ。
モボショーはぼんやりしていた。冗談が理解できなかった可能性大だ。なお、モガ一号のえーこはあからさまに笑っている。この場合、理解できない方が同類なのではないかと思う。とりたてて根拠はない。
ともあれ何となく追いつめられた様子の瀬場さんは、営業の仕事で焼けたのだと生真面目に主張する。毎度毎度、七歳下の高校生に笑われる瀬場さんに、ほんの少しだけ同情してしまう。ほんの少しだけだ。
「えー、こちらは瀬場さんです」
「ハァ?、祐子どうした」
「やかましい、黙って座ってろ!」
ようやく微妙な空気が払拭されたところで、さっそく聞き取り調査を始めることになった。にも関わらず、祐子さんが瀬場さんを紹介しただけで再び笑っていいのか判らない状況に。
今さら…と一瞬はおかしく思えたけど、これは真面目な聞き取り調査である。それに、瀬場さんという人は知っていても、その出身地については何も知らない。とりあえず笑うのはよそう、と姿勢を正した。
少しの間をおいて、祐子さんは簡単に調査対象――瀬場さん――について解説する。瀬場さんの家は清川の上流から支流を遡った奥の集落にある。元は山岳信仰の拠点で栄えたとか、明治には鉱山も近くに出来てにぎわったとか…。
「けっこう大きな町なんですね」
「全然。人の住んでる家なんて何軒もないでしょ」
「十五軒はある!」
それって多いんだろうか。ぼんやり視線が天井に移動する。この動きは通常、思考を放棄した時のものである。
祐子さんの補足によれば、鉱山はとっくに閉山して廃村。道路も整備されなかったから白装束の登山客も他の登山口に移ってしまった。今は山奥に温泉宿が一軒だけ細々と営業中。寒い話題ばかりだった。
「祐子よぉ」
「何? どっかで飲んできた?」
「飲むか!」
まぁ一応は寒い話題と言ってみたが、この辺ではありふれた状況だ。お盆に出掛ける親戚の家も、寂れ具合では似たようなもの。遡っても白装束なんていないから、まだ瀬場さんの方が勝っている。
「調査ってのはなぁ、とりあえずおだてて気持ちよーくさせてくれるんじゃねーのか?」
「アンタをおだててどうすんの?」
「俺だってなぁ、もっとこう気分良く…」
「気分良く下ネタやられちゃ困るってのバカ」
「ガッ、……ばれたらしょうがねぇ」
紛いなりにも女子高生が並んでる前で下ネタ披露は、さすがにオヤジ臭が強すぎではあるまいか。その辺だけは見た目を裏切って欲しいなぁ…と、不機嫌そうな目の前の顔に無言で答えてみる。勝彦の機嫌は恐らく瀬場さんがいる限り直らないし、フォローするだけ無駄って気もするが。
瀬場さんはビールらしき液体を飲んでいる。「子供のビール」とか書いてあるから、酔っぱらうような代物ではなさそうだが、緊張感のない景色なのは間違いない。
もっとも、相手はどうせガチガチの良だ。これぐらいの雰囲気がちょうどいいのかも知れない。ともかくいよいよ、聞き取り調査スタート!
「え、えーと、あの、せばさ…」
「ダメ」
………そして予想通りやり直し。これは誰だってダメだしするぞ。なんで今さら瀬場さん相手に普通にしゃべれねーんだ。みんなが一斉に茶を飲んだのは、きっと無言の抗議であったに違いない。
話が止まったついでに祐子さんがあれこれ説明を加えて、もう一度チャレンジ。今のところ俺は単なる傍観者なので、適当に心の中で声援を送っておく。声にすると逆に緊張させるだけという噂もある。
「わ、私はか、からが…」
「やり直し!」
「は、はい…」
…それにしてもなぁ。
仕切り直しで応援する気だった周囲も、再び呆れ始めている。
そりゃまぁ確かに、見知った顔を前に今さら自己紹介するのも奇妙ではある。かといって言葉に詰まるような場面でもない。
「相変わらずいいカッコしなきゃいけないのねー」
「面倒くせぇヤツだな。ガーッとしゃべれガーッと」
「は、はい」
「はいは一度!」
「はい!」
幼稚園じゃあるまいし、と思う。けれど奴は、これぐらいでやっと少し考え始めるのだろう。教室で夫婦漫才するほうがよっぽど恥ずかしいじゃないかと、やっと気づくのだろう。
どっちにしろ、まともな調査なんて夢のまた夢。調査方法を学ぶ前に、聞き手の人格を改造しなきゃいけない。俺たちは要するに良の教育係ってわけだ。
…………。
「…わたしの名前は唐川良です。瀬場さん、よろしくお願いします」
「ん…、わ、わかった」
少なくとも俺は教育してないな。
俺はこのメンバーの中で、奴を一番古くから知っている。それだけだ。知っているから何だ? このままじゃいけないと思ったか?
思った。
思ったというだけならば。
「む、昔は信仰の人が多かったそうですが」
「へぇ」
「感心するなハゲ!」
結局俺は、この欠点を利用して優位に立とうとしていただけなのかも知れない。
奴がダメであればそれだけ安心できる。そんなことをいくら口にしたって何の保証にもならないはずなのに。
そう、そんなことをいくら口にしたって…と、去年の今ごろには気づいていた。腹に一物を抱えながら、時々は道化もこなす。俺は腐っていた。どうしようもない男だった。
「…今は何か残されているんですか?」
「んー、なんかあったか?、祐子」
「アンタが答えなさい!」
……何を落ち込んでるんだ、今さら。左肩を二度鳴らす。一度目は大きく、二度目は小さく。もう彼女には気づかれている。
グダグダの中身を読み取ってしまうエスパーなんてどこにもいない。けれどグダグダをいつか白状させられる脅迫者なら知っている。
ともかくようやく調査が始まった。
聞き手は最初に目的や、聞きたいと思ってることを簡単に説明する。今日はほとんど祐子さんが話してくれたけど、本来は自分たちで調べておかねばならない。
「瀬場さんは白装束の方を見たことがありますか?」
「見たってぇだけならある」
「どこで?」
「え?」
横やりを入れる祐子さん。
その質問に意味はあるのだろうか…と思ったら。
「んー、確か八合目の…」
「アンタの家の方で見たかって聞いてんの!」
「ぐ、そんならそうと早く言いやがれ」
「す、すみません」
「謝るな!」
「はいっ!」
何というか瀬場さんは不思議だ。頼りないという以前に、本当に地研OBなのかすら怪しく思えてくる。それとも、わざとボケてるのか? そんな器用な人とは思えないな。
ともかく、単に集落のことを知りたいだけなら、最初から祐子さんに聞いた方が早いし正確。ただしそれはあくまで祐子さんがすごいのであって、瀬場さんを非難するべきではない。俺たちなら自分の家のあたりを何でも説明出来るかといえば、それはそれで無理に決まっている。近所の観音さんすら詳しいことは知らないぜ。
「ま、こんな頭でも若いからねー」
「こんな頭たぁなんだ祐子、人を外見で判断しやがんな」
「中味を知らないとでも?」
観音さんはまだ判るが天王さんは寺なんだか神社なんだかよく判らん。これも聞き取り調査が必要かも知れないが、今は余所の調査中である。余計なことを考えるのはよそう。
祐子さんは、瀬場さんをちょっと小馬鹿にした上で――小馬鹿というか大馬鹿――、根本的に今と昔では環境が違うのだ、とフォローも入れる。母親が毎晩枕元で昔話…というのもマンガみたいだけど、昔は土地の伝承だって文字通り伝承されていた。しかし瀬場さんにそういう機会はほとんどなかったという。
「学校に通ってテレビを見てたらねー」
「昔話は面白くないってことですか?」
「面白いかどうかなんて関係ある?」
「え…」
判った気になってツッコんだら、予想外の返しを食らう。
当然のように困惑する。調子に乗りすぎたようだ。突然祐子さんの背後に仏像が現れた気がした…と思ったら、どうやら掛け軸だった。あれは何か人が描かれていると、今頃気づいた。
「学校もテレビも全国一緒でしょ?」
「はい…」
「東京も自分の家も同じなら、土地の伝承なんて伝える価値がない。言い換えれば、このハゲは山奥の一集落に住んでる特別なガキじゃなくて、全国どこでも同じって世界のクソガキだってこと」
「うーむ」
判ったような判らないような。いや、九割方は判ってない。判るのはせいぜい、ガキとクソガキに大した差がないことぐらい。仕方なく我が彼女に助けを求めて視線を向けた。
言うまでもなく彼女も首を傾げている。が、同じく判ってないという事実が俺をほっとさせる。意地悪い話だ。
祐子さんは話を続ける。昔話の調査に行って、おじいさんがとても面白い話をしてくれたので「どなたが聞かせてくれたのですか?」と訊ねたら、テレビで見たと答えられたなんて話も。
「そんな無茶な…」
「たしかにガックリするけど、でもそれだって伝承には違いないのよー。テレビ見ながら話すわけじゃないから」
「え?」
「なんならこのガキで試してみる? あの番組を毎週楽しみに…」
「してねぇ! もう何年も見てねぇ!」
微妙な空気に包まれる宴会部屋で、勝ピーの絶叫が響く。考えてみれば、余所の宴会を心配する前に、我々は余所に心配されるほどやかましい団体であった。しみじみ。
まぁそれはともかく、勝ピーの発言は、「今は見てないが昔は見ていた」という事実を雄弁に物語っている。どう考えても墓穴を掘っている…が、それは笑えるネタでもないだろう。
なぜなら、俺たちだって昔は見ていたからだ。小学校に入ったばかりの頃でいいなら、見たことがないわけがないのだ。
「カラオケ大会であの歌歌ったのは誰だっけー?」
「あの歌?」
「ハックン、それ以上追求すると命に関わるぞっ!!」
ふぅむ。命に関わっちゃあ仕方ねぇなぁ。なんちて。この慌てようからすると、坊やが良い子な歌じゃなく、エンディングのあれだろうな。まぁ誰にだって触れられたくない過去はあるものさ。ふっ。
…しかし、だ。
たとえば良が俺に向かって「知ってる昔話を語ってくれ」とつぶやいてきたら、俺は何か披露出来るだろうか。見たからしゃべれるなんて発想に、どこか違和感を覚える。
桃太郎は……、桃から生まれた桃太郎が犬と雉と猿を従えて鬼ヶ島に渡って鬼退治した。ただのあらすじだ。花咲かじいさんは………、もうちょっと長く出来そうだが、一分以内に終わるな。なんだか自信がなくなっていく。
「昔読んでやった本はどれぐらい覚えてる?」
「し、知らねぇ!」
「毎晩絵本読めってうるさかったのよー」
「へー」
要するに俺は才能がないのだ。真っ赤な顔で部屋を飛び出した勝ピーをぼんやり見送りながら、ひとしきり落ち込んだ。
……勝彦への同情は、はっきり言ってない。むしろうらやましい。あの顔で祐子さんに甘える姿は想像したくないが、かーくんの異名をもつヤツなのだ。昔は近所で評判の美少年だったかもしれない。まったく同情の余地はない。
「なぁ祐子」
「何?、調査対象は余計なこと考えないの、バカ」
久々に声を発した瀬場さんに、容赦のない罵倒。聞き取り調査がうやむやになりかかってることは誰の目にも明らかなのに、淀みなく言い切る祐子さんはすごい。思わず感心してしまう。
しかし瀬場さんもまったく堪えてなかった。あれぐらいは罵倒と呼ばないのかも。
「テレビの話聞くんなら、もっと良い奴がいるじゃねーか、なぁ」
「は、はい?」
「ちさりんはダメ」
瀬場さんが指さすのはよく判る。普段から胡散臭い話を得意とする女子生徒として有名なのだ。その気になれば一晩中でもしゃべり続けるに違いない。
が、祐子さんはあっさり却下。少しぐらいからかうのかと思ったが…。
「聞き手が誰か分かってる?」
「あぁ?」
「聞き手と調査対象が特別な関係なのに、まともな調査になると思う?」
「ぬぅ、そいつは盲点だった」
その聞き手と調査対象がどんな顔をしているかは、あえて説明するまでもない。祐子さんはわざわざ声を張り上げて「特別な関係」と言った。ふすまの向こうの部屋に人がいれば筒抜けである。今のところ、それらしい物音はしないけど。
ひとしきりニヤニヤしてから、今度はぞっとした自分。この攻撃はいつか俺自身にも向けられるはずだ。まぁ正直、この部屋の面子だけなら今さらだし、良のようにみっともなく狼狽はしないはず。しないよな、うむ。
「瀬場さんや同じぐらい年の人が、昔話とか言い伝えを聞く機会はあるんでしょうか?」
「なぁ良」
「は、はい」
ぼんやり妄想にふけってる内に、調査が再開されていた。ついでに勝ピーもあっさり復帰。単にトイレに行っただけのようだ。
まだやるのかと一瞬驚いたが、あのまま終わったら練習にならないのも確かである。
「同じぐらいの年の奴なんてぇのが、近所にいやがると思うか?」
「過疎をなめちゃいけないのよー」
「そうだ良、俺んとこは過…」
自慢げに言いかけて、バカにされてると気づく瀬場さんに思わず笑ってしまった。
慌てて眉をしかめて隣を見たら、今度はえーこが笑った。どうやら俺の顔がヤバイらしい。だんだんにやけてるのが自分でも判るし。
「試しに聞いてみたら?、良」
「え、…何をですか」
「せ、瀬場さんのぉ住んでるとこに、こ、子供はいますかって」
「二人いるぞ!」
祐子さんが真似た良の口調があまりな出来なので、さすがに可哀相だと同情しかけたが、憐れみの顔を向ける間もなく瀬場さんの罵声。えーこの肩がちょっと揺れた。そろそろ本気で怒りだしたんじゃないか?
「アンタが久々のUターン組なんでしょ」
「四年ぶりだ、たいしたこっちゃねぇ」
さすがに祐子さんもなだめるような口調。
とはいえ、四年ぶりってことは四つ上の人が一番近いわけか。すごい青年団になりそうだ。まぁ青年団なんて名前は最初からギャグだけどな。
「戻ったってことが嫌か?、祐子」
「…アンタが質問するな」
空になった瓶をぶらぶらさせる瀬場さん。別に怒ってるわけじゃないのは判るけど、さっきとは雰囲気が違う。
さっと立ち上がったえーこが部屋の外に出た。トイレ…ではなく、注文に行ったのだろう。まぁ憶測するのも後で叱られそうだ。というか、注文は本来なら俺の仕事である。気が利かない男だと、やっぱり叱られそうだ。
「祐子はなぁ、なんかこう、モヤモヤってぇのがあるってんだ」
「……酒でも飲んで来た?」
「祐子ぉ」
蛍光灯に照らされる瀬場さんの額。こんな時にまじまじと見るもんじゃないよな…と思ったら、えーこが戻ってくる。トイレでないことは証明された。うむ、もうその話題から離れろよ俺。
「祐子はなぁ、教師になりたくねぇと思ってた。ちさりん、なぜだか分っかるかなー?」
「え? 全然分かりま…」
「分っかんねーだろーなー」
寒いギャグだと気づいた瞬間、ひきつる千聡。
どこまで本気なんだろうか、この人は。すっかり忘れていたウーロン茶に口をつける。もちろん生ぬるいが、目を覚ます効果はある。もっとも、ギャグを聞いた瞬間に覚めていたのだが。
「高校卒業して大学を出てだな、ここに帰るとしたらどうしやがる、良?」
「…え、えーと」
「公務員だ。それと教師だろ? それが嫌だったんだな、祐子は」
「はぁ」
瀬場さんの演説は続く。
そろそろ祐子さんのツッコミがあるかと思ったが、その声はない。
「祐子は天才だ! そうだろ良?」
「は、はい」
「アンタいい加減に…」
「その天賦の才を花開かせようとだな、東京へ行きやがって、四年後帰って教師になるのは正しいか?、ちさりん!」
「え?」
「安易な選択肢じゃねぇか? そこで引っ掛かるわけだ祐子はなぁ」
………。
すっかり静まりかえってしまった。ショーが真顔で瀬場さんを見つめ、えーこは祐子さんの方を向きながら、時々こっちを見る。俺の視線は落ちつかず、七人の間を行ったり来たり。瀬場さんがこちらを向いて話してないことが救いだ。
「だがこの道が正しくなかったかはまだ分からねぇ」
ガタッと音がして、襖が開いた。さっきのおっさんが飲み物を運んで来たようだ。すぐにえーこが立ち上がって受け取る。俺がやろうと思ったが、残念ながら足がしびれていた。役に立たなくてすまない。
「祐子は教師に向いてんだ。そう思うだろちさりん」
「あ、…はい」
おっさんの邪魔にも関わらず、まだまだ瀬場さんの演説は続く。
しかし今の発言は、これまでと違って同意しやすかった。ちょっとほっとした。
「アンタのおしゃべりは相変わらずねー」
「祐子ぉ」
えーこが運んだばかりのビールもどき飲料を、瀬場さんは手酌でつぎ、そして祐子さんに瓶を突き出して勧めた。やれやれという顔の祐子さんが、新しいコップを瓶に近付けると、やたらと真剣な顔で、瀬場さんは金色の液体を注ぐ。コップを見ただけなら、ちゃんと気の抜けたビールに見えるもんだなぁと、どうでもいいことに感心してしまう。
「四年前なら言いやしねぇぞ」
「……あっそ」
ふと目の前に何かが動いて、慌てて振り向いたらえーこがウーロン茶の瓶を持って笑っている。
周囲の視線を気にかけながら、ゆっくりついでもらう。それからもう一度周囲を見渡して、今度はえーこのコップに注いだ。正直言ってものすごく恥ずかしかった。えーこが堂々としすぎだと思うのは俺だけだろうか。まぁ俺以外にはどうでもいい話だな。
「あんたたち、ツルとゴロウは現われてない?」
「さ、さぁ…」
いきなり祐子さんに話を振られて、生返事しながら天井を見た。
チカチカ光る蛍光灯と、こげ茶色の天井板。一応ここはコンクリートの建物だったはずだが、それっぽさは余り感じられない。というか、そんなことはどうでもいい。
「現われた感覚はないです」
「俺も…、記憶が途切れることならありません。ただ…」
「ただ?」
ウーロン茶を一口。冷たい感触にちょっと驚いて、動いた視線がそのまま祐子さんのコップに移る。
「よく判らないことを考えてる時はあります」
「えーこは?」
「同じく…です」
えーこも妄想が激しいのか。思わず彼女の顔を見て、それから思い直す。少なくともふだんは俺が叱られてばかりなのだし、一緒にしては申し訳ない。
それにしても妄想って何だろう。えーこに指摘されて以来、判らなくなったままだ。
間違いなく俺自身がやっていることであって、ゴロウが現われるわけはない。だけどその内容を俺は制御できない。俺にはそんな意志がないのに、誰かに命令されて無理矢理考えさせられている? もしそうなら、誰が何のために?
「とりあえず一度仕切り直し。バカが調子に乗っちゃったし」
「はーい」
「バカバカ言いやがんな祐子」
タイミング良く、店のおっさんが晩飯を運んで来た。最初にご飯とみそ汁が並べられたので、どうやら宴会料理ではないようだ。まだ聞き取りを続けるらしいから仕方なかろう。
やがておかずが運ばれてくる。唐揚げだったり煮魚だったり、人によってバラバラだ。どう見てもこれは争いの元だと思いつつ、品定めする自分がいる。
「ショーは油っこいの嫌いだろ、なぁ」
「やがまし、おめさなやんねぞ」
さっそく勝ピーが動き出した。ショーはあじフライ、対して勝ピーは鯖の煮付け。確かにフライはポイントが高いが、既にショーは拒絶の意志を示しているし、まさかえーこの目の前で争奪戦ともいくまいし…。
「ぐぁ、ハックンずるいぞ!」
「知るか!」
叫びながら、思わずほくそ笑む。遅れて運ばれて来たのはチキンカツのようだ。ククッ、やはり正直者は得をするのだ。
「ヒロくん、太っちゃう…かも」
「え?」
しかし予想外の方向から難癖が。
振り向いてそこに焼魚を確認しながら、溜め息をつく。そういえば我が彼女は大食いだった。これはかなり迂闊だった。
「二人で半分こ、仲がいいわねー」
「い、いやその…」
もしかして最初からそういう魂胆だったのだろうか。泳いだ視線が、言われた通りに分け合っている良の姿を見つけてしまった瞬間、最早逃れられない運命なのだと諦めた。
………。
それほどのことかよ。幸か不幸かチキンカツは二切れなので、簡単に分割可能である。無言でえーこの皿に一つを分けて、仕方ないので笑ってみた。あからさまな作り笑いの彼女も、すぐに魚の半身で返す。少々気まずい雰囲気で晩飯となった。
「変わんねーなぁ、こいつらも」
「アンタほどじゃないでしょ。残せ残せってわめきながら食わないし」
「あれ?、もしかして以前もここでやってたんですか?」
「そうよー、OBの店だし」
「へぇ…」
この狭い街の中で、OBの店というだけなら他にもあると思うけれど、まぁ確かに居心地は悪くない。お世辞にもきれいな部屋ではないし、隣で宴会が始まったら研究会どころじゃなかろう。けど値段はそれほど高くないし、味もまぁまぁ。普通の客は一階で食うから、宴会さえなければいい環境だ。
飯を一口放り込み、数回かみしめる。
「ふぅむ」
「んめーな」
「勝ピーも満足か」
「当たり前だっ!」
頭の上でなんだか判らないポーズを作って叫ぶ勝彦。当人のイメージはさておき、傍目には盆踊りに見える。わざわざポーズを作るほどの主張なのかはともかく、飯はうまかった。外観のわりに侮れない店だ。
この米はたぶんササニシキ。はえぬきならもう少し粒がでかいし、どまんなかは庄内ではあまり…と、隣の視線に気づく。ご飯をほおばりながらしかめっ面の自分は、たぶんバカな男だと思う。農家生まれの勝ピーが米にうるさいことは誰しも知る事実、しかし俺だって一般的な評価なら同類だ。
「じゃ、第二部ねー」
「はーい」
そうだよなぁ。こんな大馬鹿者の俺ですら彼女がいるのだ。
それも彼女は、俺の正体を知らないどころか、表情だけですべて見破ってしまうほどなのに、まだ彼女をやめないわけだ。もしかして、えーこはすごいんじゃないか?
いや、それはこの際疑問を挟むべき問題ではない。えーこはすごい。希少価値。その上で今我々は勝ピー様のために、まさしく第二のえーこを必要としているのではあるまいか。そうだそうだよ…。
「じゃあ最初にヒロピー」
「…え?」
どうやら俺はにやついていたらしい。
冷静に考えてみた場合、にやつくに値するかは微妙だが、冷静に考えていないのだからそれまでの話。
「最近現れてる?」
「全然現れません」
「即答するわねぇ」
「なんだったら試してもらってもいいですよ、なぁショー」
「ん、んだが…」
正直、ついさっきと同じ質問をされるとは思わなかった。とはいえ、この質問が昼に想定した通りだったので、急に俺の気分は大きくなる。妙に挑発的になって、ショーに対してもポーズを取った。ちなみにポーズというのは歌舞伎をモチーフにしたもので、小学生の頃からの定番だ。
ショーは一瞬目を泳がせて、うつろな目で祐子さんの方を見ている。どうやらここで歌う気はないらしい。ギターのないショーは皿が乾いた河童。恐れるっ子ぉはもういーないー。
「えーこも不安はなくなった?」
「はい。最近は何でも覚えてます」
「ヒロくんと手をつないだことも?」
「え?」
……………こっちを見ないでくれ、えーこ。
祐子さんという人は、俺たちに余裕があれば無理矢理いじめてでもその余裕を消そうとする。実は子供っぽい気性のように思えてきた。きたのはいいが、やはり我々は今追いつめられているわけである。
仕方ない。俺は非常手段として目を泳がせた。
この場の面子はスイミングアイに弱い。どうにかして関わり合いにならないよう、自己防衛に走るからだ。逆手にとれば、うまくごまかす手段になる。
「じゃあ普通の高校生になって毎日仲良くやってる、と」
「その通りです」
「ヒロピーは開き直りが早いわねぇ」
いくらその言葉が呆れながらのものだったとしても、事実なので仕方がない。
良もちさりんもうつむいて、俺の方を見ていない。奴らにプレッシャーをかけることに成功したせいで、再び緊張感がなくなっている。
「じゃあ今のヒロピーはまったくのノーマルなの?、えーこ」
「それは……、ノーマルじゃないと言うか…」
しかし祐子さんの攻撃はまだ続いた。それもえーこに俺のことを質問だ。ちょっとこれは反則ではなかろうか。
だいたいノーマルってなんだよ。
「クラスの中では変わってる方だと思います」
「まぁそうでしょうね」
脱力するような回答をえーこが口にした瞬間、笑った奴がいた。ノーマルであることに命を賭ける男、良である。
俺は反撃したくて身を乗り出しかけた。もちろん反撃といっても「俺はノーマルだぁ」と叫びたいわけではない。というか、それを叫ぶ方がノーマルにはほど遠い。
「で、えーこ」
「はい」
「ヒロくんはいつから変わってた?」
「え…」
皆さん、いったいこの質問に何の意味があると思いますかっ!
俺は叫びたい。しかし正直、叫んでも誰も賛同しない可能性大である。えーこがうまくかわしてくれればいいのだが。
「何も変わってないんじゃない?」
「え?」
……なんとなく予想できた結論。そりゃまぁ、勝ピーと仲良くできてしまうような俺は、ある日突然生まれたわけではない。あーあ、俺はおかしな男だなっと。
「祭の前も後もツルとゴロウは現われているのに、ただあなたたちの感覚が違う」
「前も…後も?」
へ?
………。
…………。
数秒、俺の頭は死んでいた。どういう脈絡なんだ。
「そうじゃない?」
「そんな気もします」
たとえば、懐かしい曲が流れるモノクロの映像。
僕は一度大きく息を吐き、それからゆっくり身体を傾けた。
「ヒロくんは妄想ばかりしてます」
「みたいね」
薄くかかった靄は、いつも僕を包み込んでくれる温かい空気。
うたかたの夢。
ギシギシと、規則的に、だけどややずれがちな軋み。
右へ、それから左へ。
意味のない乱反射は、だけど突き通されることばかり望んでる。
すべてがこげ茶色。
僕の描いた水彩画よりもでたらめに塗りたくられた世界。
どんな芸術家も今なら裸足で逃げ出すだろう。
僕の行き先はいつも正方形。
手をのばしてもどこにも届きはしない。
開けようとしても窓もない。
だけど僕の呼吸は規則的で、まだとまろうともしない。
半分。
それから一回転。
火花のような音は剥げかかったリノリウムに吸い取られていく。
だから、もう帰れない?
そうかも知れないな。
「妄想してても大好き?」
「…………」
「そろそろ再開しましょう、祐子さん」
「あら、早かったのねー」
無茶苦茶なことで彼女がピンチに陥っているのに、一人だけ妄想にふけっていられようか。俺はビシッと話を締めた。
………あれ?
俺は妄想しながら二人のやり取りも聞いているのか。聖徳太子みたいだな。
「それじゃあヒロピーのリクエストに応えていい?、良」
「は、はい。よろしくおね…」
「また漫才させなきゃねー」
「………」
目の前で手のひらが左右に揺れる。わりと見慣れた指先。残像でも確認出来る俺は大物だ。
仕方なく目線を軽く動かしてから、いつものポーズで健在ぶりをアピールすると、彼女は余裕のなさそうな苦笑い。俺に気を遣ってるつもりでも、はるかに彼女の方が顔も赤くて大変そうに見える。要するにこれは照れ隠しというやつだ。
まぁそんなことは百も承知なのだが、タイミングが悪い。祐子さんが良をからかっているおかげで、一瞬この場の関心はそちらに移ったのに、結局再び我らが注目される羽目になった。まるっきりの逆効果である。
動揺したえーこは頼りにならない。けどそれがまた可愛くてなぁ…と、また妄想に戻ってどうする。ゴリゴリ肩を回して、夕食の残骸――残骸といっても、食えるモノは何も残っていない――を片づけた。周りも当然片づけるので、自然と我々への関心も薄れていく。ごまかす能力では俺の方が上らしい。
ともかく再開だ。何となく優等生モードの俺は、他人に先駆けてノートを広げた。どうだ、祐子先生もびっくりだろう……と、その瞬間に違和感が。
………。
目の前のノートには、どこかの書道の先生が書いたみたいな字。あるいは謎の暗号。
さりげなく俺は、プリントをノートの上にかぶせて、ため息をつく。もともと自分の字がきれいだとは思っていないが、この筆跡は前半戦で居眠りしかかっていたという事実を雄弁に物語っている。
「今度はショーとハゲ二人で」
「んぁ?」
もっとも、隠すまでもなく誰も見てないから気にすることはないな。ノートの汚さなら目の前に仲間もいるぢゃあないか。ふっ。
それはさておき、たぶんノートはきれいだろうショーが、いきなり呼ばれてびくついている。今日のショーには勢いがない。素の表情ばかりである。スターの庶民的な素顔が拝めて嬉しい…はずもない。所詮、ギターのないショーなんて、ただ訛ってるだけの高校生ってことだ。言いながら当たり前過ぎて自分に呆れる。
対象が二人といっても、良はあくまで瀬場さんに質問すればいい、と祐子さんの指示。ショーは話題によって加わる役で、良に聞かれたり瀬場さんに聞いたりすればいいらしい。らしいと言ってはみたが、想像するとかなり難しそうだ。とりあえず俺はこの町の生まれで良かった。
まぁ、さすらいのフォーク少年なら、それぐらいのしゃべりは出来て当然だろう。フォーク歌手ってのは、偉そうにくだらないことを語るのが特技なのだから。
「お祭りのことを聞きたいんですが」
「生き生きまつりか?」
「え、生き生き…」
えーこがお茶を入れる間に、良は質問を始めていく。白装束の人が来なくなった今でも、その名残りのような祭があったりしないのか、という質問の意図は悪くないような気がする。
とはいえ、残念ながら「生き生きまつり」とやらは数年前に始まったばかり。瀬場さんも今年が初参加だったそうだ。
「お前んとこもやってんだろ、なぁ」
「んー、うぢだばふれあい祭だなや」
「はぁ…」
ちなみに祭の内容はどっちも似たようなもので、野菜の産直とか焼肉などの食べ物関係と、カラオケ大会など。ただし、素人だけじゃなく歌手も呼ばれると、瀬場さんは自慢する。同時に空のコップを掲げたのは、おそらく勝利のポーズであろう。ものすごく我々の同類という気がする。
「で、誰が来たって?」
「それは言えねぇな」
「どうしてですか?」
「お前らはどうせちゃらちゃらした連中しか知らねぇ」
しばらくは抵抗した瀬場さんだったが、結局ごまかしきれなかった。祐子さんとちさりんに絡まれたら逃げようがない。
そして遂に明かされた名前とは!?
「ジョ、ジョニー!?」
「なんだお前、ありゃあなかなかなもんだぞ、なぁ?」
「ん、んだがの」
同じギター野郎のショーはジョニーを悪く言えるわけがない。瀬場さんの計算された誘導尋問……だったらすごいけど、たぶん目の前にいたというだけだろう。
ともかく、ジョニーについて議論しても価値はないのであっさり流される。昔から続いてる祭はないかと再度の質問に、しばらく首を傾げた瀬場さん。
「神明でなんかやったな」
「………」
「高校ん時、酒飲まされたなぁ」
「はぁ」
一応は小さな御輿をかついだらしい。そこで感心する良に、祐子さんが助言する。御輿は何の神なのか、どこを周ったのか、いつも高校生が担ぐのか……。良はいちいちメモった上で、律儀にそのまま瀬場さんに質問していた。
祐子さんの声は当然瀬場さんの耳に入っているだけに、ちょっと奇異な光景である。とはいえこれは訓練なのだ。ポリポリ頭を掻きながら、瀬場さんは一つ一つ答えていく。神明と呼んでるがそれ以上は不明、集落の端から端までと祠二ヶ所、小学生の頃からずっと担いでいた……。良は真顔でメモっているが、側のちさりんは困惑顔だ。
「アンタの話は結局どれも過疎に行き着いちゃうのよねー」
「仕方ねぇだろ、人がいねぇのは事実だ」
「アンタがいない四年間はどうしてたわけ?」
「神明のオヤジが自分で担いでやがった」
「ふぅん」
要するにそれは、本来の姿をまるで維持できなくなった状況でしかない。思わず溜め息が漏れる。部屋のあちこちで……かは知らないが、俺は漏らした。
これ以上聞いたところで、何も判るとは思えない。なのに祐子さんは、相変わらず良にメモるよう指示し続けている。どんなに崩れていようが、まずは今の姿を知らなければ始まらないのだ、と。
祐子さんはこうも説明する。
たとえば去年の祭を見学に行ったなら、そこには一人の子どももいない光景が広がっていたはずだ。何も知らなければ、祭は大人だけで行うものだ、と思うだろう。もちろんここで、以前からこんな形でやっていた、と考えるのは間違いだ。しかし原型を辿れない姿であっても、目の前で行われてる祭を否定する理由にはならない。
「ま、その辺は昔の失敗から学んだこと」
「はい」
「失敗したくなってたでしょ?、良は」
「…はい」
それが仕方なく変えていった成れの果てならば、元に戻したいと思うのは当然だ。だいいち、特に根拠もない変更なら、条件さえ整えばいつだって戻せるはず。かつての祐子さんが考えたことを、俺たちだって当たり前のように敷衍する。
なのに、いざ戻そうとすると戻せないことに気づくという。理由がなんであれ、やってしまえばそれは先例となる。同時に、祭そのものの意味も変化してしまう……らしい。
一般論としてそう言われても、俺にはよく判らない。ただ、ツルとゴロウの話なら、確かにそうなのかも知れない。
「神明のおっちゃんはどうするって?」
「今年は俺に担がせやがんだろ」
誰かが書き残した記録、ショーの言う英雄、そしてこの口から語られた物語。順番でいえば俺の口が最新で、だけどそれが「後から出来た」とは思えない。ゴロウが自分で話したなら、それが一番古いんじゃねぇか。
でもこのゴロウを、普通は信用しないよな。
「あのー、質問いいですか?」
「おうよちさりん、どっからでもかかってきやがれ!」
「御輿って一人で担ぐんですか?」
「………ん、まぁなんだ」
俺はゴロウじゃない。だからゴロウの話は俺の創作でもない。言い訳ならいくらでも思いつく。いや、別にそれは言い訳じゃないだろう。
どうあがこうと、ゴロウとかいう奴は長々と物語をしゃべった。そして俺自身に、そんな話を作る知識も能力もない。だから不本意だろうが俺はゴロウの存在を信じている。シンプルな論理だ。
「どうせ軽トラでしょ」
「いや、神明ではウチのオヤジも担ぐぞ」
「ワッショイ三回分ねー」
「はぁ」
……………。
結局はただの妄想になっていた。反省。俺はいつも同じことばかり頭の中でループさせるのが趣味だ。あんまり楽しいと思ったことはないが。
ふと視線を落とし、えーこがいれてくれたお茶を発見。色から見ても、これは番茶である。茶碗に渋がつきすぎて、ただのお湯でも茶色に見えそうなのは内緒だ。
「あの…」
「なんだ良、聞きてぇならはっきり言え!」
「アンタ調子乗りすぎ」
一口飲んでみる。…薄い。
まぁ正直、こういう場でグルメも満足な味は期待するだけ無駄だろう。また手作り弁当がほしいなぁ、と俺はぼんやり彼女の表情をうかがい、その彼女の視線の先へとつられていく。この狭い部屋のどこにも珍しい景色はあるはずもない。だけどこの部屋の人たちは、時々主役になったりする。
「瀬場さんは……、地元に戻るつもりで進学したんですか?」
「む…」
急かされるように良が口にした質問に、瀬場さんは押し黙る。祐子さんもちょっと驚いた顔。
驚いてるのは俺たちも同じだ。初めて奴が自分の意志で質問した。それも、けっこうきわどい質問だ。当人は平然としているようにも見えるが、俺だったらとても聞けないぞ。
「なぁ良」
「は、はい」
気がつけば瀬場さんの側には、ビールのようなものの瓶が早くも五本並んでいる。不味いとか水のようだとかブツブツ言うわりに、飲んでるよなぁ。
「…都会は肌に合わねぇ」
「アンタの大学って都会だっけ?」
「百万もいやがんだぞ」
「へー」
祐子さんのツッコミに一応は笑った俺たちではあった。が、正直言って瀬場さんの言い分の方が納得出来るのも事実。そりゃ祐子さんのいた東京よりは少ないけど、百万人もいるなんてとんでもないのだ。小学校の修学旅行で行った時なんて、人が多すぎてびっくりした。東京は異常だ。むちゃくちゃだ。
だけど、どうせなら一番人の多い所へ行きたい、という願望はある。祐子さんじゃないけど自慢になる。それに、きっと何でもそろっている。具体的にほしいものがあるわけじゃないけど。
「祐子さんはどうだったんですか?」
「え、何が?」
「何がって…、その」
質問したちさりんが慌てるのを待ってから、ぐっとビールのような液体を飲み干す祐子さん。
こんなくすんだ世界で、息をひそめていた僕たちは解き放たれようとしている。もうすぐ、いやもうすでに。
「都会には田舎が集まってるの、分かる?」
「…まったく」
「もっと簡単に言ってくれ姉貴」
「バカは黙ってろ!」
「ぐっ」
いや、瀬場さんはともかく、他はみんなバカだと思う。どうにかして勇気ある勝ピーに賛意を示したいが、同列に扱われては迷惑という思いもある。
「じゃあちさりん、東京の人ってどんなイメージ?」
「え、えーと、……てやんでぇべらぼうめっ」
「それは江戸っ子」
「はぁ」
ちさりんの江戸っ子はかなり上手かったが、それこそ祐子さんの思うつぼだったようだ。
祐子さんのいう東京は、江戸っ子のいる田舎ではなく、全国から人間がやってきて、だけど全国のどこでもない場所だという。この街で生まれた人も、良の生まれた街の人もいて、だけどどっちの色もない。頭ではなんとなく判るけど、実感は出来ない。それは住んでみなければ理解出来ないだろう。
「祐子さんはそういう所で暮らすのが嫌だったんですか?」
「嫌なわけないでしょ」
一応はえーこが質問したけれど、俺も含めてこの返答は予想出来る。祐子さんは都会の人だ。初めて話した日からそう感じている。俺たちとはどこか住んでる世界が違うと思う。
「田舎は嫌でしょ、ショー?」
「ん……」
いきなり話題をふられ、例によって視線の定まらないショー。アドリブにも弱いのか…と一瞬考えたが、その後も黙ったままだ。どうやらこれは答えられない質問だったらしい。
正直、それは深刻に悩むほどの質問だったのだろうか、とも思う。俺ならあっさり同意して終わる。勝ピーだって、都会に出れば毎週プロレス観戦が出来て言うことなしだ。えーこは………、どうなんだろうな。
「ちさりんあたりが一番厄介なんじゃない?」
「そ、そうですか?」
「中途半端に田舎じゃないから」
「はぁ…」
今度は千聡か。そういえば姉が帰ってこないんだったっけ。
正直、会ったこともない人の話だし、その原因が住んでる場所にあったのかなんて、俺たちに判るはずもない。
………むしろ、ちさりん自身がヤバそうだと言うならば?
「まぁでも、どうせなら遠くに行きなさい。県内はダメ」
「え…」
「んだが…」
「二人だけ?」
反応したのがショーとちさりんだったのは、直前に話題を振られていたからではないか、とひとまず考えてみる。
とはいえ、振られた二人は見事に祐子さんの思った通りの思考だったわけだ。俺にはなんの共通性も感じられない組み合わせなのだが……。
「えーこは?」
「まだ何も考えて…」
「じゃあヒロピー」
「う…」
この順番で聞かれるとプレッシャーを感じる。
さぁてどうしようか。悩もうとしても何も思いつかない。仕方ないのでシンプルに欲望を口にする。
「どうせなら都会に出たいです。百万でも一千万でも」
「聞いた?、えーこ」
「はい」
「いや、だから…」
いい加減からかうのやめてほしいぞ。だいたいこれって何の話だ。調査と関係ないよな。しきりに目を泳がせて、それからため息をつく。
……本当は、考えたくないのだ。たとえば、えーこと一緒にいたいからという理由で選んでいいのか? それは将来の選択として不純過ぎないか?
「ついでに聞くけど、もし地元に大学があったらそこに入る?」
「え?」
ぼんやりしかけていた俺の耳にも、祐子さんの声ははっきり聞こえた。
思わず俺たちは顔を見合わせ、少しの間押し黙る。
さすがにこのままでは返答出来ない。なぜなら―――。
「あのー、祐子さん」
「何?」
「地元にありますけど」
「あーそうだっけ」
どうやら祐子さんにとっては、最初から眼中にないらしかった。いや、俺たちだってあえて行きたいとは思わないが。
この町には二つ大学がある。というか、あったと過去形にするべきか。
一つは短期大学で、ベニヤ板の神殿がトレードマーク。子どもの頃から俺たちはバカにしていた。まぁどっちにしろ、経営破綻して既に存在しないからどうでもいい。
問題はもう一つ。今ひとつ何をやる大学なのか判らないけれど、最近川南に出来た。えーこなら、その気になれば歩いて通学できそうな距離だ。
「ありゃあダメだな」
「アンタはどうでもいいの」
「俺も嫌です」
「ヒロピー、理由は?」
「……大学って、高校までとは違う新しい世界だと思うので」
言いながら妙に緊張していく自分がいた。
そもそも、この理屈はおかしいのかも知れない。結局、大学の新しさは単に住処が違うだけなのだろうか。あんな近所でも、校舎に入れば違っているのでは?
………いや。
どうにもそこを信用出来ないのだ。
「言っとくけど、都会じゃ自宅生なんて当たり前にいるからね」
「はぁ」
「高校の同級生が何十人もいたり」
「うぅむ」
それが嫌だ、とこの場で言ってはまずいだろうか。気になって隣を覗く。やはり隣の彼女は、じっと俺の顔を見ていたようだ。
えーこと離れるという新しさなら、いつでも拒絶する。そんなことは当然だ。
……じゃあ何を求めているんだ、俺は。
この町を離れることは、行き先がないから仕方なく、という消極的なものではなかったのか。いや、そんな消極的な理由は嫌だから、何かしら変わってみたいと俺は思うようになった? よく判らない。
「親と一緒に暮らすのが嫌?」
「い、いえ、別に…」
たとえば子供の頃に読んだマンガ。夕方にやってたアニメ。そこには僕の知らない世界があった。僕のまわりをいくら探してもないものが、どこかにあるんだと思っていた。
いつもお昼には、タレントがしゃべってるのを生で見れる世界もあった。別にメガネをかけたおっさんに会いたいわけじゃないけれど、僕がここに住んでる限り、会おうと思っても会えないことが残念だった。
「一人暮らしは金がかかるって知ってる?」
「は、はい…」
無駄な妄想は、ちょっと母親のような祐子さんの声で途切れた。続ける価値なんてないし、確かに虫のいい話なのだ。とりあえず素直に反省する自分。
もちろん卒業した時に、それだけの価値があったと思えればいい。誰かに教えられた返答。空虚な言い訳。
「負担かけたくねぇんなら、まず浪人しねぇこった」
「アンタは浪人したって勉強しないから無駄」
「何を!」
………。
瀬場さんは随分熱くなってるなぁ。向かいのショーがびびってるぞ。
「俺は落ちりゃあオヤジの手伝いだ、なぁ良」
「は、はい…」
「そうやって志望先がどんどん変わっていったわけ」
祐子さんは呆れ顔だけど、俺たちは笑えそうにない。そもそも今は変える以前に決めてすらいないけど、すんなり最初の志望先に入れるとは思えない。行末に不安のない人間がいるわけがない。
…だからこの場はそのまま、大学受験の聞き取り調査に変わっていった。ただし聞き役はあくまで良。名目上はこれも奴を鍛える一環である……と、どこまでも無理矢理だ。
「文系と理系って知ってる?」
「そ、それはさすがに…」
「へぇ」
祐子さんの視線は弟に向けられ、弟は目を背けて唇をとがらせた。まぁいいんだ、誰も勝ピーには期待してないし。
志望大学をとりあえずはっきりさせるのは高二の秋。その前に理系文系を決めるわけだが、ウチの場合クラス分けは最後まで曖昧なので、高三の秋まで迷う奴も多いらしい。
「祐子さんはずっと志望校一緒だったんですか?」
「そうねー」
ただし最初はなんとなく書いただけ、と付け加える。判定を見てからその気になって、大学のことを調べたという。高二の模試の判定自体はたいして意味もないと断言しつつも、結果を見るとやはり盛り上がるらしい。
もっとも、同じ模試で瀬場さんはお先真っ暗になったわけだ。俺がどちらに近いと言えば、申し訳ないが瀬場さんじゃないだろうか。
「お前らだって高校受験してんだろ」
「そりゃそうですけど…」
模試について質問したら、瀬場さんに突っ込まれる。
確かに、高校受験の半年前ぐらいに一度模試を受けた気がする。というか、まだ一年も経っていないのに「気がする」のもどうかと思うが、正直ほとんど記憶に残っていない。受けた時は少なくとも結果を気にしていた。それは大学模試と変わらないはずなのに。
………。
俺は悩んだふりをして、なんとなくシャーペンをカチカチ鳴らす。
高校模試の選択肢なんて、なんの意外性もない。そして俺は高校進学に、何か期待していたか? 何も期待などしていない。何も変わるなんて思わなかった。そういうことだ。
「俺は落ちると思ってたぜ!」
「だろうな」
「どういう意味だハックン!」
どうもこうも、そのまんまだろう。偉そうに言えた義理じゃないが、入試が終わった時点で、中学の同級生の誰一人として勝彦様が合格するとは思わなかったらしい。そういう意味では、本年度入試のサプライズ。これでも一応は褒めてるんだから怒るなと言いたい。
……………。
実際、俺のクラスでも一人は落ちたんだよな。そいつはある程度覚悟してて、落ちてもとりあえず元気ではあったけど、今は別の高校行って楽しくやってるのかな。やっててほしいもんだ。
「で、そこの二人は同じ大学に行きたいわけ?」
「え、えーと…」
「できれば…」
「そこの二人」は俺たちのことではないので、とりあえず冷静にその反応を確認する。とはいえ、最初の該当者が答えた次の瞬間には、同じ質問を浴びせられるだろう。そして予想通り、俺たちは「そこの二人」となった。
えーこと顔を見合わせてたどり着いた結論は、ちさりんと同じ。出来れば一緒の大学に行きたい。でもそれは、大学で何をしたいのか考えてから決める話じゃないか、と。
「まぁ失敗した私からアドバイスしとくけど、さっさと一緒に行けるとこ探した方がいいわよー」
「は、はい」
「その前に別れるかもしれないけどねー、ちさりん」
「わ、わ、別れませんっ!」
さすがに話題がずれすぎたので、千聡の一言で幕引きとなった。つきあい始めた途端に、いつも別れる時ばかり気にする毎日。それは楽しくない? どうだろう、暴力に耐え忍ぶ日々は嫌だな。言葉の暴力ならすでに受けているかもしれないな。
冗談はさておき、これで終わるのはちょっと残念だ。大学の話なんて身近に聞く機会もないわけだし、俺にとっては良のヘボ調査よりよっぽど興味がある。できれば、こちらをメインに一度集まりたいものだ。
「ショーは何か祭に参加してる?」
「ヨネブっだば」
「ヨネブ?」
いかにもビックリしたという声の主は勝ピー。突然耳元で大声を出された俺の方がよっぽど驚いたであろうことは、誰の想像にも難くない。が、周囲の面々も俺とさして変わらないぐらい驚いている。つまり、声の大きさにではなく、ヤツが話を聞いていたという事実が人々を驚かせたのであった。
………。
勝ピーの参加理由ってのは今一つ謎なんだよな。
楽しい部活で彼女ゲットだぜ!
……それならまだ、ショーのライブにたかってくるモガな婦女子をつかまえる方がまだリアルだ。まったく想像もつかない。
「どうぞ」
「も、もっけだ…」
突然お茶をつがれて思わずショーになってしまった。小川さん家のえーこさんは、このごろ俺の妄想を邪魔するのが趣味だ。どうしたのかなー、ではない。姿勢を正して、ついでなので勝ピーにお茶を注いでやる。
落ち着いたところで祐子さんは、ヨネブ……ではなくヨネブツを知っているかとメンバーに問う。全く知らなかったのが俺と勝ピー、それに良。えーこは名前だけ、ちさりんはなんと参加経験あり。
「一応言っとくけど、夜の念仏ね」
「あー」
「ばあさんがやってんのに知らないのよねー、かーくんは」
「かーくんじゃねぇ!」
かーくんが知らないのはバカだから仕方ないとして、ともかく集落の人たちが集まって夜に念仏する行事だという。ちさりんの家は古い町にあるから、俺やえーこの住んでる方では廃れた――えーこが知ってるのは実家の話――行事も残っているのだろう、と祐子さん。うーむ。別にどうでもいいことなのに妙に悔しい。
………。
一番悔しいと思っているのは、たぶん良だろう。
この男はこういう小さなことからコツコツとコンプレックスを増やしていくのだ。千聡の家に蔵という名前の物置があっただけで、急に黙り込んでしまう奴なのだ。
「いではの人が来たりする?」
「わがんね」
「ふーん」
「どさいっだ人だが知らねさげ」
しかしそんな葛藤とは関係なく、調査は進む。
というか、聞き手が祐子さんのままでいいのだろうか。良がダメージを受けてることはバレバレだし、気を遣ってるのかも知れないが、あんまり聞き方がうまいとさらにダメージを増やすだけだぞ。
「じゃ来ることは来るわけね?」
「んだの」
…が、いつの間にか良は顔を上げ、ショーの返答をメモっていた。
主催者といっていい奴に、勝手に落ち込むことなど許されない。もちろんそれ以上に、興味があったからあっさり立ち直ったんだろうが。
怪しい坊主みたいな人が毎年やってくるなんてすばらしい。ここは突撃取材を試みるべきだ。なぁ良。
「で、山には登る?」
「遠足で与蔵沼さだば」
「ひょっとして、ギャグ?」
ストレートな指摘にショーが赤くなった。というか、こんなあからさまなギャグで何を恥じるのか判らん。この辺のセンスは良に似てるなぁ。
祐子さんの話では、清川のばあちゃんが昔何度か、近所の人と一緒にいではの山に登ったらしい。何とか講という名で、引率はいわゆる山伏……じゃなくて行人。あのばあさんなら今でも登れそうだよなぁ。かーくんが登りたいって言ったら明日にでも登るんだろうな。
ともかく冗談抜きでショーに問い直すと、あったような気もするとあやふやな回答。どっちにしろ奴自身の記憶にはないようだ。
「なぁ祐子、俺に聞かねぇん…」
「アンタは迎える方でしょ!」
そこで激しく叱られる瀬場さんはもはやお約束。というより、叱られたがってるようにしか思えない。楽しそうだし。
もっとも、瀬場さんの集落を登山者が行き来したのはかなり昔の話である。芭蕉がこの町で一句詠んだぐらい古いかも知れない。自分は迎える側だなんて、今さら認識できる方がどうかしていると思う。
……中学の時の担任が、昨日見てきたかのように芭蕉の話をしていたのは忘れておこう。ぬるい空気の中でウーロン茶を一口すすったその瞬間、突然宴会部屋に緊張が走ったのだ。
「それにしても仲いいですねー」
「…誰が?」
いきなり恐ろしい言葉を口にしたのは、なんとちさりんである。ある意味、この場で一番言わなさそうに思える人物だった。
「まさに漫才コンビって感じですねー」
「ハゲがボケてるだけでしょ」
「俺は本気だぞ、なぁ」
一撃だけでも恐ろしいのに、千聡はまだ攻撃を続ける。妙に落ち着き払った顔が不気味だ。しかもよりによって漫才と言いやがった。
…いやまぁ、俺もそう思ったのは確かである。勝ピーを除くこの場の総意ではないかとすら思えるのも事実である。とはいえ、俺にそれを指摘する勇気はない。あまりにも大胆不敵。もしかして、反撃の機会をねらっていたのか?
「瀬場さんはずっと祐子さん一筋なんですか?」
「ん、まぁその、……決まってんだろお前」
「中学ではモテたって自慢してたでしょ、アンタ」
さらに際どい質問にひきつりかけたが、祐子さんの言葉に思わず吹き出してしまい、慌てて周囲を確認。隣の彼女も思いっきり笑っていたのでほっとする。これで笑わない方がおかしい。
とはいえ、今の設定には一つの疑問があった。俺はそれを口にしようか迷ったが、あっさりちさりんが口を開く。
「瀬場さんの行ってた中学って、何人いたんですか?」
「あ、貴様俺をバカに…」
「だってお神輿一人でかつぐんですよね?」
「むぅ…」
瀬場さんの茶碗にコポコポとお茶をそそぐちさりんは、すっかりこの場になじんでいる。社交的なわりに案外人見知りする女だが、さすがにもう緊張するような関係ではない。当たり前だよなぁ、良。
瀬場さんは頭を掻きながら、全校二百人はいるとボソボソ声で答えた。ボソボソ声ではあったが、その瞬間の顔は勝ち誇って見えた。残念ながら、千聡の母校――俺の母校だ――は五百人以上いるので勝ち負けでいえば負けになるけど、この際それは忘れておくべきだ。
「まぁ昔はフサフサだったって言うしねー」
「中学ん時は五分刈りだ」
「あ、そうだっけ」
髪の毛の話はさすがに際どすぎて口を挟めない。と言いつつ俺は瀬場さんの頭に髪を書き加え、どんな顔になるのかシミュレーションしていた。たぶんこの場の多くの人間が同じことをしたに違いない。
とりあえず、目が大きいからもうちょっと子供っぽく見えるんだろうなぁ。そもそもが中学生なんだから、黙ってても子供っぽいんだろうってツッコミはなしだ。
「ショーもモテた?」
「んだごどね」
「生徒会長でしょ?」
「あ、あいだばやらさっだなだ」
また照れるショー。既に聞き手は祐子さんだったりちさりんだったりするけれど、相変わらず聞かれる側は変わっていない。もっとも、少なくともちさりんならば、この話題を俺に振る可能性がない。俺に代わって説明し始める可能性ならある。おぞましい話だ。
まぁそんなことはどうでもいい。ショーは優等生で生徒会長。ただし、当人が主張するように、立候補でなかったとはどこかで聞いた記憶もある。それ以前に、あんな田舎の中学で、生徒会長だからモテモテという発想自体無茶だと思う。
無茶ではあるが、今ではしがないギター少年、しかしかつては学校のスターだった! からかうネタにはなる。いや、今でもスターだと訂正しなくては。
「公報載った?」
「ん…」
「公報って何ですか?」
「毎月配られるでしょー」
町の公報に顔写真つきでお言葉が載った。それはスターの証だろうか? ウチの中学の会長が載った時は、バカにした記憶しかない。今もそいつは隣のクラスにいるが、おそらくは触れられたくない過去だろう。探し出してクラスのみんなに披露したら、末代まで恨まれることだろう。
ところで、まったくどうでもいい話だがショーの学校には生徒が三百人いたらしい。瀬場さんがふてくされると、同じ年度で比較すればもっと差がついてただろうと、祐子さんはその傷口に塩を塗る。
確かに四年の差は大きい。俺らの中学は一クラス減ったらしいし。まぁどっちにしても、生徒の数で競う意味があるとも思えない。
「結局、ショーはモテたの?」
「んださげモテでね」
答えは最初に言ってたと思うのだが、気のせいだろうか。
たとえば現在のギター少年が、まるで女子に嫌われることを願っているかのように見えるから、モテモテだった過去があったに違いないと想像する。これはもしかしたらアリかも知れない。もう女と関わるのは嫌だと、ハードボイルドな男だったかも知れない。
………。
本気でそう思えてくる自分が恐ろしい。
「………」
「ハックン、何か言いたいのか」
「いや」
だが一見妥当に思える――ひとまず思ってくれ――この説には致命的欠陥がある。同じく女子に嫌われることを生業としていたはずの勝ピーが、実は正反対だったという点である。ショーもモテたがっている可能性がある。世の中にはあり得ないことがある。
そういやぁ、誰も勝彦様の過去を探ろうとしないなぁ。誰か聞いてみようという勇者はいないだろうか。できれば俺以外で。
何しろヤツにはかーくんと呼ばれた過去があった――。
「嘘だ! ハックンは何か隠してる!」
「強いていえば勝ピーはいつもやかましいってだけだ」
「あー、それ同感」
「ちさりん!」
「ヒロピーも良いこと言うわねー」
「ぐっ…」
得体の知れない少年時代を過ごしたヤツには、モテたという記録だってあるかもしれない。もしもあったなら、今からその時に戻れとアドバイスすればいい。
かーくんに戻れ!
やはり問いただすべきかもしれぬっ。意味もなく盛り上がっていく。
「今日はこれぐらいにしましょうか」
「は…、はい」
……しかし、祐子さんの終了発言を俺はあっさり受け入れていた。
かーくんの武勇談なんて、どうせ幼稚園の先生にモテたって辺りがせいぜいだろう。今でもある意味幼稚園児よりバカだから、案外戻れそうな気はしないでもない。しかし今のヤツがかーくんに戻ってしまった日には、恐らく今以上に迷惑なガキとなって我々を悩ますであろう。それは絶対に避けねばならぬ。
だいたい、モテたならきっと姉が披露していたはずだ。祐子さんは場を盛り上げるためなら弟を犠牲にする人なのだ。
「じゃあここは私とハゲの割り勘ね」
「ちょ、ちょっと待…」
「ごちそうさまでしたーっ!」
いっそ姉に協力を仰ぐ………のはさすがに無理があるか。弟については誰よりも詳しいに違いないが、いくら天下の祐子さんでも、現役女子高校生にそうそう知り合いはいないだろう。中学生ならともかく。
………。
考えてみれば、祐子さんの同級生だって選択肢には含まれるわけだ。勝ピーの条件に年齢はなかった。幼稚園児と婆さん以外ならいけるのでは?
「そういやぁ祐子」
「何?」
「…………何でもねぇ」
「はぁ!?」
突然響く大声に、俺の悩み事は中断されてしまった。
祐子さんのこういうところは、やっぱり弟と似ている。姉弟の血は争えない……とは、たぶんどっちの前でも口に出来ない台詞だ。
「口が滑った、悪りぃ」
「………」
そうなんだよな。
勝彦にとって、祐子さんとつながりがあるってのはダメだろう。そんな気がする。姉の同級生だろうが教え子だろうが、無条件で対象外になりそうだ。意識しすぎだとは思うけど、そこは批判したって仕方ない話。
まぁ俺にしたって、そもそも祐子さんは雲の上の人である。その祐子さんと同い年と聞いたら、きっと躊躇すると思う。七歳離れてるという数字以上に、無理のある状況だ。やはり頼りはちさりんか…。
「あの野郎と会ったぞ。役場でなぁ」
「あっそ」
突然肩を叩かれて、振り向くと苦笑いのえーこ。
……身を乗り出しすぎたようだ。作り笑いで肩を引っ込める。
頭の中では無関係なことばかり考えていても、興味のある話題には勝手に反応する身体。一つしかない俺の脳のどこかに、話を聞いてる自分もいるのだろうか? そういえば聖徳太子はどうなってた? とりあえず耳が十個あったか? そんなジョーク。そんな荒唐無稽。
「完璧超人は人を恐れさせるってこった」
「せいぜいラーメンマンのつもりだったけどねー」
「無理言いやがんな」
昨日魔法使いに会ったんだ。
その魔法使いは僕の顔を見てにっこりほほえんで、そして一本の牛乳をくれた。何もないところから突然牛乳瓶を取り出して、僕にくれた。
だけど僕はその牛乳を飲まなかった。僕は聞いた。これは牛のおっぱいを絞って出したものじゃないのに、牛乳って呼ぶのって聞いた。
魔法使いはちょっと困って、それからこの瓶の中身は牛乳と同じものだ、と言った。だからこれは牛乳なんだと言った。
僕は怒って答えた。これは牛乳じゃない、と。牛乳じゃない何かを、騙して飲ませようとしてるんだと僕は怒った。
「で、元気でやってんの?、カレは」
「相変わらず根暗にやってるぞ。でなぁ……」
それとも。
本当はいつも飲んでる牛乳も、魔法使いが作ったにせものなの?
そんな風に悩みだしたら、もう夜も眠れないんだ。僕はもしかしたら、僕自身だってにせものなんじゃないかって思うんだ。
「祐子に会ったらよろしくだとよ」
「あーそー」
そのまま会話は途切れる。
一応この場はまだ地研の聞き取り調査だったように思われる。シャーペンを手にしたまま良が固まっているのはその証拠というか、名残りであろう。
………というか、何も公衆の面前で話さなくてもいいのでは。祐子さんだって聞かれたくないだろう。
「しかし思ったよりサバサバしてやがったなぁ」
「そんなもんでしょ」
「勿体ねぇよなぁ」
「で、何が言いたいのハゲ」
何となく俺はえーこの顔を見て、ゆっくり立ち上がる。足がしびれている感覚があったので慎重を期したわけだが、やはりその瞬間はピリピリ来た。
向かいでふてくされてる勝ピーに寸止めパンチを食らわして、ファイティングポーズのまま階段を降りる。いつの間にか店内はすっかり暗くなっている。今日の営業はこれで終了だと容易に想像される。
「決まってんだろう、なぁ祐子」
「アンタが全額払うって?」
一人に減りそうな話をしてはいるが、一応現時点で感謝すべき対象は二人。店を出る前に頭を下げるぐらいは当然の行為であろう。
とはいえ、二人はこちらを見ることもなく論争中。却って機嫌の悪い弟ばかりが気になってしまい、仕方なくヘッドロックを決める。勝彦はジタバタと首を抜きにかかる…かと思ったら、ガッチリ組み付いた俺ごと店外に押し出した。実にいい動きだ。
「あんな奴はさっさと忘れろ!」
「とっくに忘れてるでしょハゲ!」
どこか壁にぶつける気だな。
機先を制してスリーパーに持ち込もうとした瞬間、すり抜けたヤツは俺の身体に巻き付いた。毒蛇の猛毒が体内に回り始める。おのれ、油断した…。
「全くつれねぇ奴だなぁ祐子は。もう俺しか…」
「ハァ!?」
一瞬コブラツイストがゆるみ、俺は脱出に成功した。そして注意力散漫な勝ピーを再びとらえた俺は、ストレッチプラムそっくりな冬木スペシャルでヤツの首を捻ってやった。もちろん角度は適当だ。
そうだ。
お前にはどうでもいい話だろう?
たとえ瀬場さんが義兄になろうが、それは関係な…くはないか。うーむ。俺にはまるで現実感がないけれど、ヤツにはあるんだろうか。熱いファイトでモヤモヤを払わねばならないほどに。
「冗談は植毛でもしてから言えっての」
「しょ、植毛ってぇのはなぁ祐子」
二十代前半の自分が髪の毛でいじめられる姿は想像したくないものだ…と、三沢のようなエルボー一発で逃げられる。まぁ正直、そろそろ俺も飽きていた。しかも勝ピーとは別に、俺のシャツを引っ張る人間もいた。
ぱっと俺たちは離れ、ファイティングポーズを崩さず互いに後ずさり。そのままの体勢でポツリ、お盆は実家に帰るのか、と口にする。
「祐子さんのタイプってどんな感じなんですかー?」
「そうねー、良みたいな感じかなー」
「………え」
小さくうなづく様子を確認して、実は俺もだとつぶやく。そして次の瞬間、首を傾げながら左右に手を振る自分。
…俺の行き先は実家じゃねぇだろ。
相変わらず頭が回らないままだ。触れたくない話題だから? そうだろうか? どうせバタバタしてるうちに……。
「そんなことはどうでもいいの、ちさりん」
「えー」
「このハゲに何度言ったか忘れたけどさー」
親戚だと訂正して、ついでに豆知識を一つ話しておく。
あの時ドライブインにいたのは、親戚の家から帰る途中だった。またきっとあそこに寄るだろう、と俺はつぶやいた。
えーこは、また車酔いですかと笑っていた。たぶん。だから今はすべて許そう。苦しむだけだった過去も、途切れ途切れの日々も。
「結論を急ぐバカは、地研に向いてない」
「俺ぁバカだ」
「当然でしょ」
もしもまたあそこで酔ったなら、俺はまた何かを語り出すのかい? そりゃ楽しみだな。また………。
「ということで最後にそこの二人」
「はい」
「暇そうだし宿題出しとくわ」
「はい」
………。
そんなにあっさり返答しなくてもいいような気がする。たとえどんな内容だろうと、宿題という響きが良くない。身体に良くない。ただでさえ自称進学校は宿題が多いのだ。
「意識が飛ばなくなった理由について原稿用紙三枚」
「え、それは…」
「ツルとゴロウが現われないからだって?」
「もちろんです」
「へー」
遠い遠い昔みたいなお話。
僕と君は出逢ったり離れたり。
君は姿も言葉遣いもばらばらで、だけどいつだって優しくて。
「たとえばね…」
いったい何度目の宿題なのだろう。
もちろん、なんの結論も出てはいないと言われればその通りだが、いつまでもループするだけじゃないのか。いつまでも宿題のままじゃないのか。
「なぜ意識を奪われたのか。そう考えてみたら?」
「え?」
時の止まった漆黒の闇は、何万光年の年月のほんの一瞬に光り輝く。
それは美しいなんて感じる間もなく、ただ瞼の奥に焼き付いた残像。
忘れるすべもなく。
だけど思い出せなくなった時間。
「なぜって…、奪わなきゃしゃべれないからじゃ」
「そう?」
「そ、そう?」
驚く自分も、ありふれた回答を繰り返すのもいつも通り。
いつも通り過ぎて、いつか疑いだすだろうか。それが祐子さんの目論見なんだろうか。
「たとえば……、このバカ」
「バカって言うな!」
「バカはバカでしょ、バカ」
相変わらず不機嫌な弟をつかまえて、無理矢理会話に引きずり込む姉。
いつも振り回される弟は、ちょっと頼りない感じで女子の人気を獲得するかも知れない。暗がりの中ではそんなあり得ない妄想すら息づいている。
「プロレスバカだったりただのバカだったりするけど」
「…それって区別できるんですか?」
「ハックンは俺を怒らせたいらしいな」
「そう、それ」
「へ?」
埃にまみれた教室で、一筋の光を見た。
沢山の小さな僕らは、ちりちり宙を舞う。
見えなくなって、また姿を現して、ちりちり、ちりちり。
そんな馬鹿げた景色。
誰も僕だって気づいてくれない。
誰もこの箱を壊してはくれない。
「プロレスバカと単なるバカは同じ……だとしたら?」
「あの…」
そこで口を開くえーこ。
俺はちょっとだけ焦っていた。またヒントのないなぞなぞを解かされるのかと僕は焦ってしまった。
「もしかして…」
「正解」
「まだ答えてないです」
「あーそうだっけ?」
意外と難しいノリだよな。
貴様には出来まい、と良を見る。予想通り良はぼんやりしていた。たぶん感動したのだろう。そして自分のセンスのなさを悔やむだろう。ああ青春だ。
「えーと…、ヒロくんと五郎は同じってことでしょうか?」
「当然」
「と、当然って」
区別する方が難しいプロレスバカと、どう考えても別人格の五郎を一緒にされて納得できるはずがあろうかいやない。俺はすぐに反論を用意するはずだった。その反論を披露する時のポーズだって考えていた。
「四年前はプロレスなんて全然興味なかったのにねぇ」
「えーーっ?」
か細く張り巡らされた道を伝って僕らは進む。
めまぐるしく方向を変え、どこにでも行けるのに迷路のような道を進む。
今日も視界は良好。
時々瞳を遮る小さな光も、今はかけがえのない友だち。
何も恐れることはない。
何も迷うことはない。
たとえ暗闇ばかりが待ち受けていても、何も迷うことはない。
「信じられないでしょ」
「はい! というか今すぐ四年前に戻ってほしいですっ」
「ふん、あんな軟弱な男はもういねぇ」
思わず「今も軟弱じゃねぇか」と言いそうになって、必死に抑えた。
あえて表明するほどのことでもないが、俺もちさりんの主張に賛成だ。何よりヤツ自身が彼女作ろう月間とかほざいているのだし、今よりマシな状況に改善を求めるのは当然のことではないか。
………。
そんなことはどうでも良かった。ひとしきり騒がないと気付けない自分は馬鹿だ。
「記憶なんて最初から飛んでないんでしょ。ただ忘れたがっていただけで」
「……そうなんでしょうか、私も」
小さな本当は、いつだって大きな嘘を隠してる。
生まれた時から忘れ続けていたいことだってあるだろう。
昨日の晩御飯を思い出せないこと。
昨日の風呂で何を歌ったか思い出せないこと。
昨日の僕はおやすみって言ったかい?
昨日の僕はどこにいたんだい?
「祭が終わってほっとして、だから受け入れた」
「それは………、そうかも知れません」
繁華街とは名ばかりの寂れた通りの街灯の下。名もなき無数の生き物たちは、特に目的もなく視界に現れては消える。
瀬場さんのワゴンのライトは、彼らにとって新しい道筋だ。そのうち動き出したなら、一瞬の静寂がこの小さな世界を埋め尽くすだろうか。
「元からあなたたちがツルとゴロウだった」
「じゃあ私は? ヒロくんは?」
「それが宿題ってことでしょ」
「…はい」
だけど言おう。
僕は君が好きだ。
いつだって君が好きだ。
いつだって……、僕はえーこが好きだ。大好きだ。




