八月の青い雨
「こんにちは」
「調子はどうだい」
「問題なくやっていたかい」
「そう、僕は独りきりで、たった独りっきりで…」
おはようございます!
…………ククク、爽やかな朝だ。補習最終日というそれだけで無性に勝ち誇りたくなる。おかしいだろうか。おかしいだろうな。すまぬ。
もっとも、気分がいい理由は他にもある。
昨日の立席読書会は非常に有意義なものだった。たいへん充実していた。思わず肩こりがとれたりガンが治ったりしそうなぐらいすばらしいものだった。
事前のリサーチ通りえーこは不参加。ちさりんは例によって呪いの言葉を吐いて逃げやがったが、無事に本日の獲物、つまり良だけは拘束出来た。そしていつもの本屋でひょろ長野郎を両脇からがっちりガードポジション、あとは膝蹴りとマウントパンチでレフェリーストップだった。
「博一」
「ん…」
やや意味不明だし、勝ピーの嫌う表現ばかりだからふさわしくないかも知れないが、とにかく昨日は最高だった。
「墓参りの後で行くからな」
「………」
「酔い止め飲んどけよ」
「…おう」
ちょっと、いやかなり萎えた。慌てて飯を流し込み、カバンを手にする。
八月も一週間を過ぎたということは、もうすぐお盆である。そして残念ながら、恒例行事として親戚の家に出掛ける予定になっている。
まぁ今さら高校入学云々はないだろうし、春に比べれば気が楽だ。それに今になって思えば、あれがなければえーこと逢うこともなかった――元々クラスメイトだったことはおいといて――わけだ。しかし、どうあがこうと車に酔うのは間違いない。やだやだ。楽しい話題に戻ろうじゃないか。
家を出た時間はほぼいつも通り。三日で元に戻ってしまう自分に感動すら覚える。
嘘だ。確かに時間は戻ったが、今日は自転車なのだ。
午後の時間を有効に使うには、徒歩の俺がネック。すでに何度も実証済みである。そこで昨日の昼休みに千聡が示した解決策こそ、ヒロピー自転車通学であった。
……幼稚園児でも思いつくよな。なんとなく照れ隠しにファイティングポーズ。却って恥ずかしいことに気づいたが、今日は中学生ともすれ違わないからどうでもいい。とか言いながら、左右をきょろきょろ見回して、なるべく音も立てずに自転車をこぐ。
ふだん、俺は家が近すぎるので自転車通学を禁止されている。しかし補習期間は自転車チェックなんてやらない。全くのノーチェックだから、バイクで来る奴もいるほどだ。しかし、ばれないと判っていても規則を犯しているという感覚はある。ちょっとワクワクする。俺はたぶん大物にはなれないと思う。
ともかく昨日は楽しかった。二人では苦痛極まりない時間が、一人増えただけでああも変わるんだから驚きだ。
良はとにかくひ弱な男だから、血を見るだけで卒倒寸前になる。どうせジュースだろ、と俺はたまにフォローしてやったが、そもそもジュースという言葉が奴には理解できないし、こっそりカミソリで切っただけと言えば逆効果。一般人の感覚は新鮮である。
勝ピーは全く遠慮せず、いつものノリでガンガン飛ばした。いつもなら飽き飽きしながら相づちを打つけれど、昨日は俺も合わせて盛り上がった。盛り上がれば上がるほど、中央の良がピンチになる。いじめかも知れない。が、そのうち良もノリノリになるかも知れない。なんたって密かにダジャレ魔だからな。
「やぁおはよう」
「ヒロピー!」
ダジャレとプロレスのつながりって何だろう。難しい。
とりあえずチャイム一分前に余裕のリングイン。さっそくモヤシ男の付属物に挨拶したら罵声がかえって来る。
俺は軽く無視しながら別の席を覗く。彼女はこちらを見て軽く右手を振った。機嫌が良さそうだ。
「良くんすんごく疲れてた!」
「なんだ、早朝マラソンか?」
「アンタらが引きずり回したからでしょ!」
いきなりすごい剣幕で怒鳴る千聡。周囲の視線が集まってしまう。
はっきり言って、大丈夫なのか? 大声で「良くん」は目立つぞ…。
「しかしなぁちさりん、俺は良を見直したぜ!」
「はぁ?」
そこに今度は背後から教室中に響きわたる声。この教室を代表するバカは、あえて確認するまでもなく、えーことすら比較にならないほど機嫌が良い。実に単純なヤツだ……と、今の俺が言ってもあまり説得力はないかも知れない。
「奴は素質がある! 俺がもっと鍛えてやるぜ!」
「やかましい! 二度と行かせるかバカ!」
恥ずかしくてバカバカしい会話は、常に俺を真ん中に挟んで繰り返される。もう慣れてしまったので、悟りの境地で右から左へ聞き流す。本当に俺が第三者なのかはともかく。
それにしても、これから良も大変だな。なんたって、クラスの見直されたくない男ナンバーワンに捕まってしまったんだからな……と、あくまで他人事。というか、俺はもう捕まっているのだから当然だ。どうせ逃れられぬ運命なのだし、やはり次はちさりん込みが望ましい…と、邪悪な計画を立てる間もなくチャイムが鳴ってしまった。
………。
えーこと言葉を交わせなかった。ものすごく損をした気分で、力無く教科書を開く。
どうせプロレスな頭のままでは、ロクな話題にはならなかっただろうが…。
「いくつとゆーこと、さらにおぼえはんべらず。ただしおのれは、故太政のおとど貞信公、蔵人の少将と申ししおりの子舎人童、大犬丸ぞかし」
それよりも、彼女がほしいという勝ピーの評判が、昨日よりさらに落ちてしまったように思えるのは気のせいだろうか。
いや、気のせいだな。
クラスの中でならもう落ちる余地もない。今さらどうごまかそうと無駄だ。アウトですよアウト。
「太政大臣殿にて元服つかぁまつりし時、きむじが姓わぁなにぞと仰せられしかばぁ」
さりげなくひどいことを言ってしまった。
とはいえ、同じクラスの女子を紹介するなんてチャレンジャーにもほどがある。せめてこの階の端、可能なら上級生、一番いいのは他の学校からってとこだ。誰かの中学時代の同級生とか。
「やがてぇ、しげきとなんつけさせたまえりしなどゆーに、いとあさましゅーなりぬ」
不思議に中学生、という選択肢は浮かばない。年齢は一つ違い、それどころか半年前は同じ身分だったのに、高校生と中学生の間には深くて暗い川がある。どっかで聞いたような台詞だな。
これまで俺が見たこともない相手であってほしい、という思いはある。そもそも俺が覚えてる女子が少ないのはおいといて、だ。
爪の先の垢ほどの希望とはいえ、もしもうまく行ったなら、たぶんその女子は俺にとっても話しやすい存在だろう。タレントの話題なんかしないだろう。頭の寝癖に文句は言わないだろう。だんだんオラワクワクしてきたぞ。
まぁしかし、いずれにせよそれは新学期までお預けだ。
今日の午後は忙しい。補習が終わり次第図書館に直行、しばらくは俺たちだけで調べものをして、祐子さんと瀬場さんが合流だ。合流した後はよく判らないが、晩飯込みで夜まで続くらしい。もう俺は主役じゃないから、すべて他人任せだ。
俺の中で、ゴロウはどんどん赤の他人になりつつある。ショーの美しい歌声を浴びせられても大丈夫だった以上、もう意識を乗っ取られることはない。心配すらしていない。
「ハックン、今日は焼きそばだろ?」
「揚げあんパンでいい…って、首絞めるな」
他人になったゴロウを調べる意味はなんだろう。
単に、良が相変わらず興味を持っている対象だから、つき合わされてるだけ? そこまで言い切ったら嘘だろう。
「揚げ物は体に悪いぜハックン」
「カップ麺はいいのか」
「焼きそばはお湯と一緒に有害物質も捨てるんだぜっ!」
「あーそうか」
無意味な会話だった。疲れたので黙って川辺の店へ向かう昼休み。
本音をいえば、たった三日の補習なんだし、一度ぐらいえーこに弁当作ってほしかった。食中毒の危険があるため作れないと、もっともらしい言い訳を聞かされてしまったので何も言えないのだが。
「で、どうなった?」
「青ノリが若干蓋についたぞ」
「そんなこと知るかハックン!」
切れやすい若者と食事をするのは難しい。ともかく焼きそばは時間との勝負である。慎重に蓋を剥がし、脂ぎったソースをかけ、最後に青ノリをぱらぱら、と。その瞬間だけはうまそうに見える。ほんの数秒の幻覚、そして数分は持続するけど感動は数秒の幻臭。
「えーこにはもう頼んだ」
「………」
「友だちに相談するそうだ」
「そ、そうか」
友だちの名を言うべきか迷ったけれど、とりあえず今はやめておく。昨日のうちに伝わったはずなのに、あの千聡が何も言わないのだ。あまり刺激になることはやらない方が良かろう。
「………」
「なんだよ気持ち悪いな勝ピー」
「キショいって何だキショいって!」
じろじろこっちを見やがるから指摘したら逆切れされた。早くも二度目。しかも微妙に表現が変わっている。
気持ち悪いよりはキショいの方が幾分悪意に満ちてるかも知れない。まぁどうでもいいや。悪意はあるわけだし、隠す理由もないし。
「ハックン」
「だからなんだよ」
未だに落ち着かない様子の勝ピー。まだ食べ終えてもいないのに箸をカップに投げ出している。これでは麺がのびてしまう。異様な光景だ。これが気持ち悪くなかったらなんだ?
………ああそうか。
今日も相変わらずいい天気。遮るもののない陽射しでヤツの頭はおかしくなったのか…と、至極穏当な結論がでたので食事に戻る。
「見るか?」
「…何を」
「さ、参考資料だ」
「はぁ?」
すると勝彦は、ごそごそとポケットから何やら取り出した。紙切れのようだ…とぼんやり眺めている俺に、ぐっと右腕が突き出された。ただしヤツは俺の目を見ようとしない。あからさまに怪しい。
飯を食うにも腕が邪魔なので、仕方なく受け取ってはみたが、今は焼きそばを食う方が大事である。そのまま自分のポケットに突っ込んで、箸を持ち直す。麺はおそらくあと二口で終わるだろう。
「見ねぇのか!?」
「いちいち大声出すな」
「う、悪い」
結局は今すぐ見ろってことなんだな。まったく面倒くせぇなぁ…と左手でポケットを漁りつつ、右手で焼きそばを食う。幸か不幸か――どっちかといえば不幸――予想通りカップ焼きそばはあっという間に減っていったので、引っ掛かった紙を取り出した頃にはもう食べ終わっていた。
「どれ」
「怒るなよ」
「は?」
何を怒るんだ……と開いた紙には、左側に名前が並んでいた。汚い字だ。
「………」
「お、俺が作ったんじゃねーからな」
「…………」
名前の右側にはアルファベット。どうもAからDまであるようだ。
そして居並ぶ上三番目辺りには、よく知ってる名前が連続していたわけだ。ふーん、へー。
「この括弧はなんだ?」
「………」
「おい」
「ハックンがいるからだろ!」
また逆切れだ。まぁ、そんなこったろうと思ったが。
オネショが親にばれたガキのように落ち着かない勝ピーを無視して、ぼんやり眺めてみる。今ごろ気づくのもアレだが、これはコピーらしい。広げてみればA4の紙にびっしりと名前が並んでいる。五十人以上はいそうである。
「うむ、では資料として借りてやろう」
「ほ…本当に使うのか?」
「ないよりマシだ」
「う…」
真面目な話をすれば、ない方がマシと断言してもいい。
おそらくは例の何とか月間な連中――プロレス者仲間とイコールの可能性大――が作ったと思われる、女子生徒のランク表。一応これで連中の好みを知ることは出来る。それは一見すると役に立ちそうに思えるが、実は大きな落し穴が潜んでいることを君は知らない。
君って誰だ?
まぁいい、とにかく勝ピーたちにとって必要なものは、奴らの好みなどではない。奴らを知らない女子のリスト、これなくして探せるもんか。ヤツらの所行が耳に届いてない、無味無臭無菌な女子を探さねばならない。実に難儀な話だ。
溜め息をつきながらカップを捨て、教室に戻った時には珍しく一人きりになっていた。いつもなら当然勝ピーがつきまとってるはずだし、それどころか昇降口でコーラを買って、さらにその素晴らしさを解説しながらゲップを吐く可能性すらあるのに、今日はいつの間にか消えていた。まぁ不純異性交遊男を返上したばかりのヤツである。これ以上ランク表を元に、あれこれツッコまれるのに耐えられなかったのだろうと想像はつく。
はっきり言って俺は、並んでる名前の半分も知らないから、本来なら心配無用である。しかしそこまで意識されたら、かえってツッコむべく努力したくもなる。
「ヒロくん、お茶しませんか」
「する」
でも面倒臭いから努力じゃなく努力目標にしよう、うむ。
まだ時間もあったので恐る恐る教室の後ろに向かったら、括弧付きAの女子からデートのお誘い。朝に話せなかったことを午前中ずっと後悔し続けていた俺は、もちろん二つ返事で承諾し、再び昇降口へと階段を降りた。これは若干誇張した表現だ。
それにしても、えーこはAなのか。まさしくA子じゃねぇか…。
「何笑ってるの?」
「え、……何がかね」
慌てて取り繕う。あの紙がえーこにばれたらどうなるのやら。
もちろん、彼女探しの資料にするってのは、捜索人のえーこに渡すってこととイコールである。それは判っているけれど、かといって無条件に見せられるものでもない。いや、無理に見せる必要はないのかも知れない。
「外で食べたら暑くない?」
「暑いぞ」
「………」
暑苦しいコーラ男はいなかったが、昇降口は外気が入るから生温い。あまり長居したい場所ではない。おそらくえーこの発言には別の意味があったに違いないけれど、その辺は考えないことにする。
割とよく光る百円玉を華麗に投入する今日のえーこは、赤いリボンがひらひら揺れる。何度か見たような気もするし、初めてかも知れない。大切なのはその存在に気づくこと。口にしてはいけない台詞だ。
「今日は何もないの?」
「は?」
「アイスコーヒーは身体にいいとか…」
「………」
君は今、壮大な勘違いをしている、と主張したい。しかしそうやって主張すると、成り行き上アイスコーヒーの蘊蓄を語らないとも限らない。そう、これは周到に用意された罠なのだ。まったく、こんな意地悪いのに括弧Aなんだからなぁ…と、妙にこだわってるな俺は。
「またニヤニヤしてる」
「してない」
「ふーん」
果たしていつまで俺は黙っていられるだろう。昼休みの間すら持ちこたえられない予感がする。さっさと見せてしまうべきか…。
いや、それはダメだ。いくら自分が括弧付きAだろうと、ああいうものを見て喜ぶ女子はいないはずだ。少なくとも俺なら見たくない。知らないところで自分たちのことを勝手にランク付けされて気分がいいわけないだろう、なぁちさりん。
「ずっと隠し通す予定?」
「いや、今はちょっと方角が悪い」
「方角?」
思わず千聡の顔が浮かんでしまった。俺は長年の――実質は一年という噂もある――被害者なのだ。痛みを知る者なのだ。それなのに自ら加害者になってはいけないだろう? うむ、勇気がわいてきた。
…なんの勇気だ?
正直、ここまで感づかれたらごまかすのは無理である。いつか自然に披露できる瞬間があればいいのだが、普通に考えてそんな瞬間があるとは思えない。いっそ、勝ピーの口がすべって明らかになった方が気楽でいいな……と、これも夢物語。そういう策略を、俺が恨みを買わないようにやるのは至難の業だ。
だいたい誰がばらそうと、えーこは俺にコメントを求めるだろうから同じこと。俺が知っていることはすでに明白なのだから。
「今日は聞き取り調査もするんだって」
「へ?」
ともかくアイスコーヒーを入手して、平静を装いつつ旧校舎へ向かう渡り廊下。
意外な発言に驚いて彼女の顔を見たら、…笑っていた。可愛かった。
「やっぱり聞いてなかった?」
「聞いてないもなにも、誰に?」
「瀬場さん」
「はぁ?」
声を発した後で、それほど驚くことではなかったと気づく。というか、この場の話題にふさわしいのは当然放課後のことである。うむ、あれは忘れよう。決意を胸にコーヒーをすすってみる。ジャラジャラと音を立てる氷に阻まれたが、それでも冷たい刺激は目を覚ます効果がある。
人影のない旧校舎。一階は美術室や音楽室に理科室、二階は文化部の部室だから、どちらにしても補習には縁がない。こっそりデートするには最適の場所だ…と、これでは再び無限ループに。
「…良くんはすごくあがり症なんでしょ?」
「まぁ、緊張が顔に出るからな」
「ちさりんが心配してた。そんな大事な日の前に変なとこ連れ回されて…」
「あれも訓練と考えるべきだ」
「ふーん」
当たり前のように伝わってるなぁ、と天井を見たら指先に冷たい感覚。カップが傾いている。目で確認しないと平衡が保てないのは生物の分野か、それとも保健体育か? まぁどっちでもいいな。
ともかく、プロレスの印象が悪くなったことは確からしい。困ったことだ。正直言って、疲れる良に問題があるだけで、俺たちは普通に雑誌を読んでいただけなのだ。たぶん。
「ひろちゃんは緊張する方?」
「俺には緊張感がないと言いたいのかね」
「そんなこと言わないけど、開き直りは早いと思う」
「む…」
軽く冗談で済ますつもりが返答に窮し、氷をかじる。虫歯はないからしみる心配もない。自慢するほどのことかは判らない。
えーこは時々、本気で考えてはいけない状況なのにあっさり正解を口にしてしまうことがある。きっとそれは周囲を恐れさせるだろう。
俺も恐れるかって?
開き直りが早いから、どうでもいい気がしてる。おかしいのかも知れない。彼女に幻滅されたら困ると不安になるべきかも知れない…が、それも今さらって気がしてる。
「私たちも聞き取り調査される?」
「何か聞かれて答えられることってあるか?」
軟式のテニスコートが見える窓で立ち止まり、俺はきょろきょろと周囲を見回す。もちろんこれは景色を楽しむ行動ではない。
昼休みの旧校舎とくれば、どこかで地研野郎と腰巾着がいちゃいちゃしてる可能性も否定出来ない。まぁさっき教室で見かけた気もするし、いたとしても二階だが、まずは警戒を怠るべきではなかろう。
そういやぁ、ちさりんも括弧付きAだったな。二人が同じ評価ってどうなんだ? 所詮は三段階評価ってことか。ふっ。
「さぁ…、最近現われてるか、とか」
「一瞬で終わる調査だぞ、それ」
ちょっと呆れ顔でリボンに触れる。
彼女はじっと俺の指先を見つめながら、少し頭を下げた。うーむ……。
「良に聞いてみたいことならいろいろある」
「どんなこと?」
「たとえば…」
窓際にもたれかかった彼女は、頭を斜めに傾けながら目線だけはこっちを向いている。じっと見つめられている。
仕方ないなぁ、と左右を確認して、恐る恐る俺は手をのばす。けっこうスリリングな展開だ。
「最近うまくいってるか、なんてどうだ」
「ちさりんにも同じ質問するの?」
「………やめとくか」
しどろもどろになる良は見たいが、反撃されては困る。
………。
急に緊張して、念入りに廊下の奥を確認。そもそもあの二人が部室に行ったかどうかも判らないけれど、もしもということはある。物陰からコッソリなんてやられたら放課後は地獄だ。なんたって―――、頭撫でてるからな。
「で、ひろちゃん」
「ん?」
「まったく現われてない?、ゴロウちゃん」
「んー」
もちろんそれは、撫でるのをやめればいいだけという話。なのにやめられないんだな、これが。
俺と違ってよく梳かしてある髪は、さらさらで気持ちがいい。それに、撫でてると温かい感触がある。例えて言うなら、手をつないだ時のような。
「えーこは?」
「以前のようなことはないけど…」
どこがたとえなんだ。そのまんま。
そもそもがおかしな話である。暑いのに、クーラーで冷された教室で勝ピーに首を絞められても嫌な気分になるのに――そういう気分になる理由は他にもあるけど――、この温かさはいつまでも感じていたい。要するにいつまでも撫でたり手をつないだりしたい。欲望の固まりってヤツだ。なんたって相手は括弧付きAだ。
「自分らしくない自分ならたまに」
「………」
「ひろちゃんの妄想みたいな感じかも」
「ふーーむ」
いや、俺の場合は括弧不要だからスッキリAだろう…って、余計なことばかり考えるなよ自分。
今は適当に返答していい状況ではない。安易に同意してしまえば、我が妄想もゴロウのなれの果てになってしまう。今に始まった話ではないが、とにかくそれは無茶だ。
一度大きく肩を回して――片手は紙コップだから、当然この瞬間に惜しまれつつなでなでは終了――、真面目に説得にかかってみる。妄想は確かに理不尽大王のように勝手気ままだが、かといって俺じゃない誰かの行為とも言えない、と。
「妄想の時は「俺は今妄想してるぜ」といつも感じてる」
「はぁ」
「ゴロウならこんな感覚にはならねぇ。俺じゃねえ異物なんだからな」
「異物…ですか」
首を傾げて、それから俺の手を握るえーこ。
触れられた瞬間に、脈絡もなく可愛いと思うのも妄想? 違うよな、これは事実だ。他の誰かに指摘される必要もない事実だ。
「でもひろちゃん」
「おう」
頭で考えてることとは関係なく、つないだ手は振りたくなるのも妄想? 違うよな、これは動物的本能だ。
「自分の思い通りに出来ないから妄想でしょ?」
「ま、まぁそれは」
「じゃあ自分じゃない異物が考えてるってことは?」
「む……」
難しいことを言われると頭が真っ白になる。これも妄想? 違うよな、何も考えてないだけ。
ぶんぶん腕を振って、窓の外に目を凝らす。金網に囲われたテニスコートには誰もいない。一応今日までは全校補習だから当たり前だ。
「これも聞き取り調査だよな」
「うん」
テニスコートは昔の校舎の跡である。これも歴史好きの良に聞かされた話だが、奴にとっては城跡の土手ほど興味がわかないようだった。
そろそろ昼休みも終わるだろう。ケチケチ飲んでいたおかげでまだコーヒーが残っていることに気づき、一気に飲み干した。例によって、それっぽい風味の水と化している。かなり不味い。カレーがカレー汁に化けてもそれなりにうまいのに、なぜコーヒー水は不味いのだろう。世界の七不思議と言っても過言ではない。
「じゃあ帰り道にもう一つ聞き取り」
「好きなプロレスラーか?」
「ぶー」
思いっきり過言だった。海よりも深く反省。
ともかく、地研の二人は最後まで姿を見せないまま。旧校舎にはまるで人の気配がなかった。
この高校は全般に文化部の活動が盛んでない。白髪の校長は、口を開けば文武両道文武両道ってうるさいが、それは運動部と学校の勉強ってことであって、文化部は宙に浮いている。さらにいえば運動部というより野球部である。昔たった一度だけ全国大会に出たせいで、OBから金を集めまくって未だに余っているらしい。
ウチは県立高なわけだし、高校野球でテレビに出たって受験生の数は変わらない。だいたい、いつも部室は煙が…。
「ひろちゃんはいつから気になってましたか?」
「何を?」
「………」
その瞬間、思わず後ずさる俺。
えーこは思いっきり、自分の顔を指差していた。ちょっとだけ頬が赤いのがまた困る。
「思うに、その質問に何の意味があるんだね」
「聞いてみたかったから」
それは理由になってないと言いたいところだが、判る気もする。
判る気がしても、簡単には答えられない。というか恥ずかしいだろ、やっぱり。
「えーと」
渡り廊下の途中で立ち止まる。
ちょうど頭上に期末テストの順位が貼られた位置で、彼女はもう一度首を傾げた。
「きっと好きになったのは私が先だと思う」
「そうか?」
「うん。怒鳴られた日の昼休みにはもう好きだった」
「…よく判らん話だな」
その日のうちだったら、まだ謝ってすらいなかった。
だいたい、あの怒鳴り合い以外に話したことすらまだない段階ではないか。思いっきり疑惑の目つき。ただし遠目には順位表を眺めてるフリをする。
「直感しました。運命の人だって」
「そこまで言ったら嘘だろう」
「まぁ…、ちょっと誇張も入ってるけど」
何となく他の男子とは違うと、漠然と感じた程度なんだろう。それなら理解出来なくもない。というより、俺もえーこに対して似たような感覚を抱いたから。
もちろんこの程度でも、決して小さな出来事ではない。三ヶ月前の奇妙な体験を偉人伝風に物語るなら、確かに運命の出逢いなのかも知れない。
「しかしだな、えーこ」
「え?」
「それなら俺の方が先だな」
「…どうして?」
まぁ残念ながら今の俺は聖徳太子や四郎三郎と並び立つような存在ではない。
ゴロウなら並び立つか? 俺に憑いたゴロウは村を護れそうにないが……。
「ふっふっふ。あのドライブインで呼びかけられた時から俺は…」
「それなら、呼びかけた私が先だと思います」
「ぐっ」
馬鹿馬鹿しいことで意地を張り合ってしまった。うまいぐらいにチャイムが鳴ったので、慌てて教室に戻る。そこで、既に居眠り寸前のバカを見た瞬間、また例のリストを思いだして鬱になった。
午後は数学。補習の数学はわりといい感じだから、始まればあんな紙切れなどどうでも良くなる。
一度習った内容ばかりだけど、違ったテキストを使って違った説明でやり直す。だから何となく、覚えが早い気がする。判った気がする。
もちろんどの教科もやり直すことに変わりはない。とはいえ、現代文や古文ではその辺の違いが見えにくい。数学は解き方がはっきり説明されるから、すっきり快便なのだろう。うむ、下品なたとえだぜ。
「よっしゃあ!」
「耳元で叫ぶなって言ってんだろ!」
そうして無事に補習は終わる。バカのサイレンとともに立ち上がり、急いで教室を出た。
これから二週間は同級生と会う機会がないので、プロレス者その他に一応声はかけたけれど、わざわざ自転車を用意するほど急かされているせいもあって細かい話は出来ない。別にしなくてもいいか。じきに話題がなくなって、あのリストの非道さを糾弾しそうだ。それどころか、一緒に修正版を考えそうだ。
溜め息をつきながら階段を駆け下りる。人間というものは、ああいうランク付けが好きなのだ。得難い娯楽なのだ。少しの罪悪感、でも割と晴れ晴れした気分で昇降口にたどり着き、勝ピーより先に靴を履き替えた。過程はどうであれ幸先が良かった。
「ハックン、自転車まで勝負だ!」
「ふっ、望むところよ」
適当に返事しながら、そのままリードを保って自転車置場到着も勝利。まだまだ軟弱プロレス野郎に負けるわけにはいかないのだ。
「ハックンは卑怯者だ! 俺を罠に嵌めようと…」
「やかましい。悔しかったら指一本で腕立て伏せしてみろ!」
思わず何の脈絡もないことを言い放ち、颯爽と自転車にまたがってしまう。何であれ勝負に勝つのは良いことなのだ。
やがて呆れたような顔の女性二名が現われ、さらに良とショーも揃う。最近ギターを見ない。ギターのないショーは痩せてる気がする。たぶん気のせいだ。どっちにしろ、自転車に乗ればただの高校生だ。
総勢六名は隊列を組んで校門を出る。集団下校じゃあるまいし、無理に揃って出掛ける必要もないが、あえてバラバラに行く理由もない。先頭は例によって良。黒光りの自転車が後を追う八月の午後。
当たり前のように陽射しが注ぎ、身体を湿らせる。
「ぐあーーーーっ!」
「うるさい!」
またもやバカのサイレンが鳴り響くなか、一行は川を渡って旧市街に向かう。暑いというだけでわめきだす男を、いったい誰に紹介したらいいのだ。なぁちさりん…と思わず口にしかけて慌てて止めた。
アーケード街はふだんにも増して人の気配がなく、思い出したように車ばかりが過ぎる。そして思い出したように学生服姿の俺たちも過ぎる。補習はウチの高校だけだから、いつもより目立ってる気がする。
「図書館で何するんだ?」
「本を読む」
「ちさりんが?」
その瞬間、やや不機嫌な顔で自転車を降りたのは勝ピーだった。
日陰の自転車置場で、無言のままヤツは手提げ袋を目の前にかざす。そういえば今朝から妙な荷物だとは思っていた。
「ヒロピーは一冊の本を六人で読みたい、と」
「楽しそうだけど」
「濡れ衣だ」
図書館に入った俺たちは、ちさりんの先導でそのまま館内を突っ切っていく。そして奥の階段を登ると、なんとびっくり自習室!
嘘だ。それぐらい知っている。ただし入室は初めてだから、びっくりするような事態はあり得る。どきどき。
小窓もついてない金属製の扉をゆっくり開く。そこは学校の教室ぐらいの広さで、大きめのテーブルがいくつか置いてあり、数人の高校生が黙って勉強していた。高校生というか、間違いなくウチの上級生である。あまり大声を出せる環境ではなさそうだし、この景色でどきどきするには相当の努力が必要と思われる。
「姉貴は一時間ぐらいで来るってよ」
「まんず読めばいあんがー」
「あとで質問受け付けるって」
仕切り役はちさりんと勝ピー。分厚いプリントの束をてきぱきと配る勝彦様は気味が悪いが、女子に見せるならこういう姿しかない。特別魅力的ではないにしろ、普通の高校生を装える。単に騙してるだけという説も有力だ。
一方で地研部員はふぬけた顔。隣でうなづくばかりで、まったく役に立ってない。もう一度鍛えてやらねばならんと決意を新たにする八月の午後であった。
プリントの表紙には、『我が町の伝承』という文字と、鉛筆で描いたような絵。字は斜めに傾けてあって、なんだか安っぽい広告のようだ。胡散臭いなぁ…と、思わずえーこの顔を見たら目があった。わりと気が合う二人である。
冒頭は三十六人衆の話。特に目新しいことは書かれてない代わりに、文章の節々から町への愛情が感じられる。悪くいえば、他の町をバカにしている。良とかショーがそのうちキレるかも知れない。
…良はどうなんだろうな。念のため様子をうかがうと、眉間に皺を寄せてじっと読みふけっている。ちなみに、眉間に皺というのはいつものことで、別に怒ってるわけではないと思われる。
「ヒロくん」
「え?」
見咎められたと思って焦った俺だが、えーこはただプリントの一部分を指差していた。
なんだ?
……………ふぅむ。
「全部知ってた?」
「テニスコートは知らなかった」
「裏の神社は?」
「ふっ、そーんなーのーじょーおしーきー」
タッタタラリラと蹴られた。さすがに古すぎたかと反省。
ともかく、指差された箇所はウチの高校に関するもの。どうやら筆者はOBで、あえて言うなら我らが先輩らしいことも判った。かなりの年寄りだろうし、先輩っていうのもピンとこないが。
俺にとって祐子さんなら余裕で先輩。瀬場さんは……、そこで悩むのかよ。
「お、集まってるわねー」
「あ、え、…きょ、今日はよろしくお願いします」
やがて我が先輩祐子さん出現、いや到着。今日は爽やかな服装だ…と表現すると、いつもは爽やかでないみたいだ。日本語は難しい。
それにしても、夏休みの中学で祐子さんは何をしているんだろう。生徒がいない学校で朝から夕方までお茶でも飲んでいるのだろうか。聞いてみたいがバカにされそうだ。今さらと思ってもわざわざバカにされたいわけじゃない。俺は臆病だ。いつもごまかしていたい人間だ。
「ちゃんと読んだ?」
「はい、読ませていただき…」
「誰に敬語使ってんの?、良」
「え、いや…」
間近で繰り返されるこうしたやりとりが、俺をさらに萎縮させていくのか。いや、どうなんだろう。そこまで深刻な状況とも思えない。
良がいつもターゲットになるのは、奴がごまかしたがるからだ。祐子さんが詳しくない分野――たとえばプロレス――ならともかく、地研に関わることでごまかせるわけがない。というより、祐子さんよりモノを知らなくて当然なのだからごまかす必要がないはずだ。
もっとも、そうやっていつも隠したがる性格のおかげで、奴は女子に人気があるのかも知れない。いい格好ばかりで胡散臭く思えても、一般的にはその方が受け入れられる、表面的なAランク。俺は勝彦にそういう変化を求めている。なんか間違っているぞ。ありのままの勝ピーであるべきだぞ…。
「彼氏は置いてく?」
「へ?」
「す、すみません祐子さん」
「彼女は謝らなくていいわよー」
いつの間にかみんな荷物を片づけて、すぐ側では某俺の彼女が仁王立ち。どうやら怒られてるようである。どうやらって言うか、一目で判るだろ。
慌ててプリントをカバンに突っ込み、立ち上がったら思わずイスを倒してしまう。その瞬間、冷たい視線。見ず知らずの上級生にぺこぺこ頭を下げ、目線を落としたまま自習室を出た。ちなみに、隣でえーこも頭を下げていた。これはペナルティ確実だ。
「悪い」
「じゃあ手をつないでください」
「え…」
階段で思わずのけぞった。
いや、確かに俺たちが一番後ろにいるけど、そうは言ってもだな…。
「冗談」
「う、うむ」
緊張が解けないまま図書館を出る。
彼女の性格を考えると、果たして額面通り冗談だと信じていいのか微妙だ。いや、たぶんつなぎたいのは本当だ。なぜなら俺だってつないでいたいから。身も蓋もないな。
とりあえず一行は、俺の心の中の葛藤などおかまいなしに、図書館前の道路を横断する。まぁこの際俺の事情なんて考慮する価値はない。考慮される方が困るに決まっている。
まだまだ暑い午後四時過ぎ。図書館の周囲には木が多いから、アブラゼミの声もやかましいが、祐子さんと愉快な仲間たちに気にする様子はない。気にしてるようじゃこの街で生きていけないだろうな。全員が渡り終わると、先頭の祐子さんは迷うことなく一軒の店に入った。うーむ、ここは要するに…。
「ちさりんはよく食べてるんでしょ?」
「え、ま、……はい」
図書館前の有名店といえばダンゴ屋と決まっている。一応、近くには本屋もあるし、我々の目的にとってはそっちがふさわしいように思われるが、ツッコんでも賛同が得られる可能性は少ない。
まぁどっちにしろ、自分にとってはあまり縁のない場所である。そもそもここまで来る機会もないけど。
「えーこは?」
「初めてです」
「次は彼氏に買ってもらうのよー」
「はい」
即答されてしまった。一本百円もしないのだから深刻に考えるほどのことではないが、えーこならきっと実践する。現に今も、目を輝かせてこっちを見ているのだ。今すぐにでも買えと言いたげだ。なんたって大食い…。
「姉貴は買い食いすると怒るじゃねーか!」
「アンタは黙って!」
いかんいかん、それは禁句だ。とりあえず反省しておく。
もっとも、えーこがプレッシャーに耐えきれず、やがて拒食症に至るという想像にも無理がある。俺が言うのもなんだが、えーこは図太い。にこやかに五、六本頼んで、うち二本ぐらいは俺に食わせてくれるだろう。我ながらリアルな想像…はいい加減にしよう、うむ。
「瀬場さんはいつ到着ですか?」
「あー、あれは店に直接来るでしょ」
「店ぇ?」
目の前ではちさりんが首を傾げる。ぼんやり聞きながらダンゴを囓っていた俺も、釣られるように首を傾げる。ここも店だよなー、なんて。
もっとも、椅子すらないダンゴ屋で何時間も粘るはずはない。確かこの店は既に閉店時刻だったと思うし、婆さんはいかにも出て行けって顔をしている。狭い店内に七人も居座っていれば、何時だろうが営業妨害って気もするが。
結局、食べ終わるとすぐに自転車置場に戻り、どこかへ向かって移動となった。祐子さんのバイクを先頭に進むが、どうやら行き先は誰も知らないようだ。まぁこの場合、あっと驚くような行き先ってことはないよな。学校とか。
千聡の家の辺りを過ぎると、少しだけ景色が暗くなる。黒い板壁は余所では珍しいと聞かされたのが確か数年前、親戚の家での話。車酔いは嫌だけど、あそこは行くたびに新鮮な発見があった。悪いことばかりでもなかった……か。
「はい到着」
「到着?」
わずかの距離を走って着いたのは、例のデパートの近く。
見渡す範囲にファミレスのような建物はない。あえて言えば、デパートの五階にレストランがあるけど…。
「ここ渡るんですか?」
「何言ってんのヒロピー」
あからさまにバカにした声を発しながら、祐子さんはバイクを止めてさっさと店に入ってしまう。
そう。確かにここは店の前だ。いわゆる大衆食堂ってものの前なのだった。
「良、知ってたのか?」
「いや…」
首を傾げたところで、既に祐子さんは中に入ってしまったのだからしょうがない。
大火の後に建てられたと思われる、特に面白味もないコンクリート二階建。白く塗られた壁は薄汚れ、入り口にはビールの旗がはためく。
意を決してサッシ扉を開けると、中もやっぱり食堂。裸の蛍光灯に照らされた薄暗い店内にテーブルが並び、入口にはスポーツ新聞や古雑誌だ。雑誌の奥にはいかにもなオヤジが暇そうに座り、煤けた壁と同化しかかっている。そりゃまぁ、晩飯には早いから暇だろう…と、冷静に観察する場合ではないな。
目があったオヤジは不愛想なまま、こちらから向かって左側を指差した。見ればそこにはテカテカした階段があって、導かれるままに登ってみたら障子で仕切られた広間に突き当たる。よくある畳敷きの宴会部屋である。
「な、なるほど」
「あんた来たことないわけ?」
「はい」
「一応、ここもあんたらの先輩がやってんのよー」
先輩……。
下で座ったまま無言で指差したおっさんが先輩。うーむ、瀬場さん以上にピンとこない。いや、それじゃ瀬場さんに失礼過ぎるだろ。
ともかく長テーブルと座布団が配置された空間に、それぞれ自分の場所を確保する。八人もいれば個室を予約出来るわけだ。とはいえ…。
「ここって飯食うか酒飲むんですよね」
「中学校の先生がガキに酒勧めると思う?」
「いや、そうじゃなくて」
言い訳を考えるまでもなく、さっきのオヤジがやって来てオレンジジュースの瓶を並べ、あっという間に消えた。祐子さんはこの先の段取りもすべて伝えてあるのだろう。手際の良さには感心していいのか呆れるべきか正直迷う。
ともかく、図書館で読んでいたコピーを並べ、地研のフリートークが始まった。当たり前のようにあぐらでくつろぐショーを見ていると、なんだか自分の頭からも違和感がなくなっていく。和室はくつろげる。はっきり言って居眠りが心配だが、俺という人間は部室でも寝るから深刻な問題ではない。
「面白かった?、良」
「え、はい」
「どこが?」
「…テ、テニスコートとか」
例によって照れながらの台詞。しかしその瞬間、同意する空気を感じた。少なくとも、えーこと俺も気になっていたのだ。そして祐子さんの表情も、当然といった感じ。
ポツポツと加えられる説明を、それなりの緊張感で聞く俺たち。あそこが城跡の一部であることは、その場を発掘しようがしまいが変わりのない事実だし、発掘された建物跡も所詮は江戸時代のものだから、たいして関心がわくことはない。ないけれど、自分の通ってる場所の地下に遺跡が眠っているという事実は、ちょっとだけ気分を良くしてくれる。それはたとえば田んぼを埋め立てた近所の造成地で、剥がした土の下に昔の地面を見つけた時のような。
「で、この人に話聞いてみたい?」
「え…」
あんな小学生の頃のイタズラを思い出す価値はあるだろうか。ぼんやり視線を左右に動かす。良のスイミングアイが周囲を巻き込もうとするのを避ける狙いもある。というか、ほとんどそっちが目的。
いやまぁ、どうせ祐子さんの前なんだから正直な感想を言えばいいじゃないか、と思う。面と向かってではなく、コピーを読み直すフリしながら心の中でつぶやいてみる。全くの無意味である。
「これはねぇ、ウチの学校の先生が作ったの。だから聞き取りしたけりゃいつでも引き合わせるわよー」
「は、はぁ…」
「かなり年輩の方なんですか?」
「若そうには見えないでしょうねー」
………。一瞬思い出すべきではない顔が浮かんでしまった。反省。あの人は教師じゃないぞ。
冗談はさておき、良はなぜか妙にリラックスして、いろいろ質問を始めた。どうも学校の先生という言葉が効いたらしい。現役の先生だから何が違うのだろう。良の思考回路は時々判らないことがある。
もっとも、その後に校長だと知ってひきつったわけだ。権力に弱い男だ。
「おう、みんな真っ黒に日焼けしたか!?」
「中学校でもそんな挨拶しないわバカ」
そして無造作に襖を開け、入ってくる影。
なんてこの場に似つかわしい人なんだろう…と、思っても口にするなよえーこさん。いやなに、とりあえずゴロがよかったから。




